2ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【確定は】 中国名将百選 其ノ参 【誰だ!?】

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 10:43:46 ID:sOfSQEo90
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [] 投稿日:2006/11/14(火) 13:26:14 ID:cwVjzMAO0
 中国の長い歴史の中で登場した数多くの武将たちの中から、特筆に値するであろう名将百名を選ぼうというスレです。
 要は作家の田中某氏の著作「中国武将列伝」と同じ企画ですが、田中某氏の評価に従う必要はなく、各人それぞれの
評価によって、百選に入れるべき武将を推挙して下さい。

・推挙する武将については、その理由を述べること。
・対象となる武将は、近世以前の武将とし、近代以降の軍人は含めない。
・対象となる武将は、特定の時代に偏らないように配慮する。

 以上の三点に留意して、中国名将百選を決めましょう。

前々スレ
【みんなで】 中国名将百選 【決めよう】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1163478374/
前スレ
【中々】 中国名将百選 其ノ弐 【決まらんね】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167560946/

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 10:44:28 ID:sOfSQEo90
時代区分

春秋戦国(紀元前771年〜紀元前221年 550年間)
統一秦〜前漢(紀元前221年〜紀元前8年 213年間)
新・後漢(紀元前8年〜紀元220年 228年間)
三国〜両晋(220年〜439年 219年間)
南北朝(439年〜589年 150年間)
隋・唐(589年〜907年 318年間)
五代〜北宋・遼(907年〜1127年 220年間)
南宋・金〜元(1127年〜1368年 241年間)
明(1368年〜1644年 276年間)
清(1636年〜1912年 276年間)

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 10:45:31 ID:sOfSQEo90
これまでのまとめ

春秋戦国
【確定】
 楽毅、楚の荘王(熊侶)、白起、李牧、王翦、呉起、廉頗、孫武、樗里疾
【候補】
 士会、魏無忌(信陵君)、趙の武霊王  

統一秦〜前漢
【確定組】
 韓信、項羽、霍去病、衛青、趙充国、陳湯、周亜父、章邯、灌嬰
【候補】
 劉邦、曹参、彭越、鄭吉

新・後漢
【確定組】
 劉秀、馮異、耿エン、呉漢、班超、段ケイ、曹操、皇甫嵩
【候補】
 岑彭、樊崇、馬賢、周瑜

三国〜両晋
【確定組】
 ケ艾、石勒、祖逖、王猛
【内定組】
 劉曜、慕容垂
【論争中】
 陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄
 劉淵、劉聡、冉閔

南北朝
【確定組】
 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、
 拓跋珪、高歓、宇文泰
【候補】
 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、
 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼
 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達
 赫連勃勃、拓跋Z、侯景(宇宙代将軍)
 蕭道成、斛律光、陳覇先

隋・唐
【確定組】
 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用
【候補】
 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥
 李孝恭、薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢
 李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 10:46:36 ID:sOfSQEo90
まとめつづき
漢字が?になっている奴は誰か補完頼む

五代〜北宋・遼
【確定組】
 朱温、李存勗、郭威、柴栄、趙匡胤、曹彬、楊業、狄青
【候補】
 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉?、康延孝、符存審、
 任圜、李神福、台濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、
 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊
【論争中】
 耶律休哥

南宋・金〜元
【確定組】
 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、 拡廓帖木児(ココテムル)、
【候補】
 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、
 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道
 張俊、呉?、呉リン、劉リ、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義
 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ)
 劉整、張弘範、脱脱(トクト)、呂文煥


【確定組】
 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥
【候補】
 朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、王守仁
 呉三桂、李自成、鄭成功、馮国勝、張輔、張士徳、馬芳


 奴児哈赤(ヌルハチ) 、阿巴泰(アハタイ) 、多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン)
 康熙帝・玄Y、岳鐘h、策稜(ツェリン) 、僧格林沁(サンゴリンチン)、宋景詩 、関天培、
 明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福


5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 10:48:06 ID:sOfSQEo90
前々スレより、考慮する武将について

7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 18:47:07 ID:1kk6Cs2h0
>>5 いい加減その電波をはねかえせよ。 いつまで引っかかってんだ。
それはともかくとして…

中国というものの範囲だけど、土地的なもので言えば「中華本土」と呼ばれる範囲とするが、
中華王朝という枠組みで、漢化政権あるいは中国風の国号を用い、なおかつ中華本土内に領土のある政権、とすればよくはないか?
南詔とか西夏はどうなるんだろ… 詳しい人がいれば入ってもよさそうだけどね。

その規範でいけば、チンギス・ハーンの蒙古は除外するけど、中国風の国号となったフビライ・ハーンの「元」は含む。
また、女真は含まないが、「金」は含む。 あるいはキタイはだめでも「遼」はいい、と。
でないと、北魏はおろか隋や唐まで含まないなんてことになりそうだから。
漢民族だけが中国人ではない!

で、国籍は出身国というより所属国で判断すればよろしいかと。
高仙之や李光弼は「中国の名将」としてランキングされるが、郭侃などは紹介はされてもランキング除外、とか。
そんなところでどうかな?
田中ヨッシが先鞭をつけているだけに、そうそう違う武将が出てくるとも思えないけど、どういう判断で紹介するのか興味深い。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 10:49:05 ID:sOfSQEo90
8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 18:57:59 ID:yxgR08jb0
とりあえずみんなで何人かづつランクイン入りすると思われる人物の名前を上げていくか?
いきなり100人づつ上げていくわけんもいかんしw

9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19:00:31 ID:jchs3O4hO
中原指向を持つかどうかで分けた方がよい
渤海や遼、西夏などは広義における中国文化圏と言えるけど
支那の地に入って中華帝国になろうとしなかったから中国じゃない
金や清は歴とした中華王朝
要は支那兵を率いれば中国の武将扱いでいいだろ
契丹人やモンゴル人を率いた武将が中国武将とはいえん
逆に異民族出身でも漢人を率いてれば中国の武将だ

10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19:12:30 ID:1kk6Cs2h0
>>9 でもなぁ、遼は間違いなく中国兵を率いているぞ?
趙延寿や楊袞(名将とは言えにくいが)などは燕雲十六州に鎮した将だし、遼はキタイと漢人とを住み分けしてもいたし。
二十六史にある以上、中国としても問題ないと思うけどなぁ。

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 10:50:03 ID:sOfSQEo90
11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19:28:22 ID:2mD79BmXO
>>9
でもさ、中華戦線のモンゴル軍の中には漢人も多いんじゃなかったか?
(モンゴルは現地の兵をよく使うし)

12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19:35:28 ID:yxgR08jb0
>>10
> 二十六史にある以上、中国としても問題ないと思うけどなぁ。

それも一理あるが、やはり遼や金を中国にいれるのは抵抗あるなあ

13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19:37:28 ID:1kk6Cs2h0
>>12 名前に抵抗あるわなw
耶律とか述律とか完顔とか…
それはわかるが、それだと漢人マンセーな田中ヨッシ風味満載になって、おれは構わないが、アンチが沸きまくると思うけどな…

14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19:43:36 ID:yxgR08jb0
>>13
ただ抗金というジャンルがあるからね。
他の時代なら異民族の王朝だってほとんど違和感ないんだけど。
先入観かな?
とりあえず境界は曖昧にして名前を上げつつ論じていった方がいいんじゃないか?

15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 20:31:35 ID:jchs3O4hO
中国戦線における元の将はもちろん中国武将ですよ
でも漢人でも西域で西域の兵で戦ったら、その戦績を中国武将としてカウントするのはアウト
郭侃は中国戦線の功績だけ評価

16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 21:39:04 ID:yQpFrdGM0
所属国家というか王朝で判定するという手もある。
まず基本二十六史の大部分はそのまま認める。
で、遼とか金とか元とかは部分的に認める。中原進出を果たして以降を認める、
とか(これだと遼は除外だな)。
さすがに南詔とか西夏は外国でしょ。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 12:13:36 ID:K6Fq4ny8O
前スレで◆RQdk7scN8sが周瑜を無理に入れようとしてないのなら別にそれには文句は言わないよ。
なんかバランス重視を理由に周瑜を無理矢理ねじ込もうとしてる様に、
個人的に感じたから、意見を述べただけだ。


9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 12:38:48 ID:Q6XBSgl40
>>1


10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 12:54:20 ID:1WdYJG3r0
>>1

宇宙代将軍ワロタw

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 13:24:13 ID:3XMnymf40
>>1
乙っす

このシリーズは盛り上がりますねえ、もう3スレ目ですか。

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 13:49:16 ID:4IdRe7Ru0
このスレって最終的に100人決めたら終了?
それとも100人決めてからが本番でそっから入れ替え議論していくの?

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 13:55:06 ID:Q6XBSgl40
過疎化したら終了でいいんじゃね?
入れ替えしないと枠多すぎ少なすぎな年代もあるだろうし。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 14:13:47 ID:R2QbPteI0
>>1スレ立て、乙
新・後漢
【確定組】
 劉秀、馮異、耿エン、呉漢、班超、段ケイ、曹操、皇甫嵩
【候補】
 岑彭、樊崇、馬賢、周瑜
となっていますが大軍を率いていたなどの異議が出ている皇甫嵩を落し、
岑彭、馬賢を確定入りとすべきかと思います。
樊崇は無理に外す理由が無いので確定入りでいいと思いますが、
諸兄いかがですかね?


15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 14:33:48 ID:TF77q+PQ0
一つ提案がある。
戦史において重要な会戦から逆算して名将を選出するのはどうだろう?
確かに決戦を回避して数と勢いで押しまくるのが最善ではあるが、誰もが万全の条件で戦える訳ではない。
一戦一勝でも賭けられた覇権次第で百戦百勝に匹敵すると考える。
「一発屋」を無条件に軽視する傾向があるようだが、一発で片付けられない実力だから連戦をする羽目になる面も考えた方がいい。

前漢については、灌嬰。
劉邦配下の部将で最も優秀なのは否定しないけど、彼の仕事は周勃や曹参で替えが利いてしまう。
戦略的には劉邦、項羽、韓信の三人以外に楚漢戦争では百選入りの候補はいないだろう。
何故馬上で天下を取った将の将、劉邦が候補止まりなのか?
負けが多いといっても相手は項羽で立ち直りは怪物じみてる。
劉邦の本隊が正面対決で膠着状態にまで持ち込んだことをもっと評価するべき。
もちろん単に韓信の兵を奪っただけとも言える。そんな無茶が出来ること自体凄い。
そして、そんな舐めたことをやられても勝ち続ける韓信は神としか言いようが無い。

後漢については、新末後漢初に多すぎと言われるが、実際何の面白みも無いほど異常に厚い層で圧勝した陣営なのだからそれも已む無し。
周瑜は赤壁を何度も行われる南北戦争の先駆けとして重視するなら入れるべきだろう。
皇甫嵩は確定でいい。黄巾の乱は後漢に事実上のトドメを刺した戦役。
後漢末は序盤の序盤を皇甫嵩、序盤から終盤まで曹操、終盤の終盤を周瑜で。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 15:31:15 ID:DSPHlkDY0
戦略的に考えたら彭越の替えはいないけどな
劉邦の怪物じみた立ち直りは韓信の精兵を大量にかっぱらったから

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 15:42:11 ID:3XMnymf40
>>12
まあ、百人を決めること自体より、こうやって議論して盛り上がるために、
やっているようなものですから。

とりあえず百人が決まったとして、まだ議論の需要があるなら、
続ければいいかと。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 15:46:49 ID:jhdIx4wjO
百選を決めた後は、その中からさらに十選を選抜したり、最強を決めたりと議論出来ることは色々あると思うよ

19 : ◆RQdk7scN8s :2007/02/07(水) 16:54:53 ID:Ou6gNASC0
>>1 乙です。
>>8 特に文句を言われたとは捉えてないよ。 
まぁ、軍事勝利はそのときの状況でいくらでもかわるので、勝利の多い人間は追い風に乗っているなんて、そういう捉え方も一方でできたりする。
そのへんの判断はかなり難しいし、政治思想から立地条件、経済状況、政治的背景にその勢力の団結力相互協力など、いろいろな要素が絡んでくる。
そこまでつっこんで考えると気が狂いそうになるから、大体の時代から選出すれば、「時代に則した名将」というのが選ばれるかな? というのが、持論みたいなもん。
楚漢の時代に活躍したからといって、じゃあそれが隋唐期にも活躍できるか? と言えば、ここの人なら、それは一概に言えないという程度の識見は持ち合わせているはずだから…(最強スレではそれでもできると言ったお方がいらっしゃいましたが)
できたら区分時代ごとに選出するのがベターであると思うわけです(光武陣営贔屓にしていたくせによく言うよな)。

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 19:35:56 ID:maUver7h0
春秋に小白入れるのは駄目か?

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 19:49:29 ID:6H+B1Mzh0
前回散々に議論していながら最後が曖昧に流されてしまった「中国の武将」の定義。

@清滅亡(1912)以前の武将であること
  (いわゆる制式軍隊の軍人は不可)
A現中華人民共和国の領域内に都を置き、
 支那風の国号を持つ王朝に所属して、活躍した経歴であること
  (王朝の樹立に貢献した場合は可、先行政権治下のみの活躍は不可)
B実際に軍隊を率い、軍略に優れ、多くの戦功があること
  (配下の兵卒に慕われていればなお望ましい)

個人的には、このAから「中華人民共和国」の範囲を変えてくれれば問題なく
大賛成なんだが。

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 21:00:50 ID:PJ9fL7Jm0
>>19
◆RQdk7scN8s さんは適度に改行してくれないかな
前スレから見づらくて仕方ない

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 21:42:05 ID:sKd+eUbE0
>>20
なら、とうに晋文が入ってる

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 22:52:18 ID:K6Fq4ny8O
>>15
>劉邦配下の部将で最も優秀なのは否定しないけど、
灌嬰の仕事は周勃や曹参で替えが利いてしまう。
そうかな?じゃあなぜ途中参加の灌嬰を重用したんだ?
灌嬰は元は商人であったが軍事的才能があり、別働隊となったり、
秦以来の騎馬隊を任されたり、匈奴も打ち破っている。
また、一人で多くの山賊を討ち取ったという話もあり、洛川の灌嬰と呼ばれたていたんだぜ。
曹参はどちらかと言えば猛将タイプだし、周勃は実直型だしな、
灌嬰とは明らかにレベルが違うじゃないか。
それに周瑜の替えには魯粛がいるじゃないか。
劉邦は人を使いこなすのは超一流だが武将としては凡将だろうな。
劉秀・李世民・趙匡胤 みたいに自身が戦も上手なら話もわかるけど、
膠着状態にまで持ち込んだと言っても、
韓信、彭越の活躍が有ればこその話だろ、違うかな?
農民から皇帝に上り詰めた偉人としては高く評価するけどな。

「一発屋」についてだが俺はここでそう扱いを受けてる武将って一発屋とは思わない。
実力が有るから抜擢され、きちんと結果をだしたんだし、
その功績により高い地位に就いた為、
戦線に復帰出来ない、もしくは早死にしたりした人物が多くないか?
むしろ過少評価されてる気がする。
一発屋って実力が無いのにマグレ当りした奴を言うんだろ。
でも周瑜の確定入りには反対。

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 22:59:27 ID:CCE2+zas0
>>24
一発屋は一度や二度の勝利以外は、
大して戦歴の振るわない武将のことだと思う。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 23:12:00 ID:K6Fq4ny8O
大して戦歴の振るわないのでは無く早死になどの諸事情では振るうに振るえないと思うが・・・
第一、実力の無い武将を抜擢するのもおかしな話だし。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 23:17:19 ID:C7omL+dn0
灌嬰が重用された理由は、絹商人時代に西域へ騎行した経験が
あり、そのため騎馬部隊の将として起用されたのが契機ではな
いかと推測されるな。
それとは別に、周勃や曹参より長く前線の将を務めたのは、こ
の両名が灌嬰より戦功を挙げすぎていたために、前線で戦闘に
従事することが無くなっていたことと、灌嬰は前線指揮官に留
めておく程度の戦功と評価されていたとの見方も出来る。

>>26
実力の無い武将を抜擢して大失敗してるケースは割と多いじゃ
ないですか。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 23:22:40 ID:PidaTmUO0
ここでいう「一発屋」の多くは、天下の趨勢をひっくり返しているにもかかわらず
なぜか過小評価されているんだよねえ(周亜夫、周瑜、謝玄、于謙、王守仁等々)
何度も言っているが彼らが存在したからこそ、討呉戦役や北宋滅亡、永楽帝による簒奪のような一方的な事態を
防ぐことができているのに、曰く「実績が足りない」と
その実績を、スマッシュヒットかミリオンヒットか見間違えていないかい?

周瑜を擁護させてもらえれば、
六朝時代に、華北政権によって荊州(長江上流)を押さえられていた建康政府が、南征されたケースで唯一
華北政権の天下統一を頓挫させている武将なんだがな
(ほかのケースは、杜預による討呉戦役、江陵陥落を受けての北周〜隋の平陳の役)
実は謝玄(東晋)あたりは荊州をある程度抑えていたから、華北政権に牽制が効いたが
周瑜以下のケースでは、選択肢が絶望的に限定されている
曹操の拙速も、杜預のケースを考えれば下策とは言えまい
これをひっくり返した周瑜は六朝屈指の名将と言っても過言ではないんだが

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 23:28:50 ID:6lZjpVDb0
岑彭、樊崇、馬賢、皇甫嵩、周瑜から三人を選べということだね。
論点は@時代ごとのバランス
   A実績、功績
   B卓越した指揮力、戦術
   C果たした歴史的意義
   の大きく分けて4つだ。こうなれば満たしている数で比べるのもよい

岑彭AB
樊崇ABC
馬賢@A
皇甫嵩@A
周瑜@C

この選定にも、異論はあるだろうが、やはり樊崇は確定に戻すべきだと思う。
また、馬賢はBCもかなり満たしている。馬賢を推すことにしたい
岑彭、皇甫嵩、周瑜の残り一人は難しいが、史書の評価から(歴史者の評価などあてにならない
というむきもあるだろうが当時の人々が直接、その人物に接して感じたことを反映していること
が多いので無視はできない)絶賛されている岑彭を推す。(逆に皇甫嵩はそれほど誉められていない
ので落とす)

結論

劉秀、馮異、耿エン、呉漢、岑彭、樊崇、班超、馬賢、段ケイ、曹操

でどうだ?周瑜は張遼、劉備、孫策、呂蒙などと比べられ、少し見劣りがすると思う
歴史的意義は認めるが、曹操が赤壁に勝ったからと言って、統一政権を長期間に渡り
維持できたとは限らず、光武帝と並ぶ名声を得たかといえばかなり疑問。
(さらにいえば、赤壁に勝てたとしても、孫権軍閥や劉備軍閥が城塞や地形を利用し、
少しずつ押していきながらも、何回も撃退されるという南北朝状態になったことも否定できない)
また、不利な水戦を挑んだのは曹操の減点で周瑜の加点にはなるかは微妙
歴史的意義をいったら、劉備などは蜀地方に独立政権をつくる先駆者ともいえるし、きりがない
面もあると思う。確かに惜しいし、バランスも悪いが以上の点で周瑜を外したい

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 23:33:32 ID:jhdIx4wjO
赤壁の勝利は、曹操軍の間で疫病が流行ったという一因もあるし、
曹操軍の損害はそれほど大きなものでも無かったらしい。

まあそれでも周瑜は充分名将だとは思う。

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/07(水) 23:48:03 ID:tHcWFBrg0
西晋vs呉や隋vs陳ほどの絶望的な国力差は曹操vs孫権のときにはまだなかったろう

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 00:01:30 ID:VZb5pAHF0
>>29
公孫述のことを少しでもいいから、思い出してあげてください……>>蜀地方独立政権
まあ、岑彭は公孫述に対しては、終始圧倒していたけどさ(暗殺される直前までは)

>>31
当主暗殺されるわ、未だ異民族問題を抱えて揚州すら押さえてないわ
当時の孫呉は末期や陳と比べてそんなに良い状態とはいえない
曹操は華北をほぼ制圧して、荊州を無傷で(劉備と言う小骨が喉に引っかかっていたが)奪取し
どう考えても「詰み」の状態
勢いを考慮すると、統一前夜を絵で書いたような状態
これに決戦をふっかけて、一気に三国鼎立に持っていった(頓挫した)手腕は紛れも無く名将

公孫述が光武帝政権に正面決戦挑んで、涼・益・関隴を確保して
東西並立する体制に持っていくようなもんなんだがね
結果を知っている後世の人間から見れば、荒唐無稽なif歴史でしかないけれど

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 00:14:04 ID:jKfMQl0l0
華北の生産力自体が、曹操のときと鼎立を経てある程度安定した
晋や隋とでは大違いじゃないかな

といっても周瑜が名将というのに異を唱えるわけではないんだが

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 00:20:07 ID:IOy77Z+U0
そもそも周瑜の戦法自体が先に地の利、戦機を制して戦略戦術的に詰みに入った後に力押しで勝つ
っていうパターンで、赤壁でも江陵でもこの軍事運用で勝ってる
戦だけ見たら確かにパッとしないあたりはここら辺に起因すると思う

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 00:35:07 ID:39XMAbZw0
>>33
江南は開発が始まったばかりで相対的に見て、江南の方が悪かったのかもしれない

別に周瑜を擁護しているわけではないが。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 00:50:15 ID:wgMBPAB90
>>35
荒れる中原を避けて(気候変動説も聞いたことある)南部に流入してる時期だから、それ以前に比べると相対的に上、
まだまだ南部開発の走りの時期だから、後年に比べると下って感じかな?…改めて言うまでもないことならスマン。

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 01:32:49 ID:IOy77Z+U0
流入っていってもどれほどのもんか怪しい気がするが
淮南は袁術に荒らされ、その後は曹操に獲られてるし
人口激減つったって、戸籍調査出来なくなっただけな面が強いし
華北の動員実数が激減したわけじゃない

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 02:41:36 ID:r95naShF0
曹操陣営が、赤壁で崩壊してれば
周瑜の評価ももっと上がってたのかな?
赤壁の敗戦でも、多大な被害をださなかった
曹操が凄いのだろうけど
赤壁が曹操の勝利で終わっていれば
曹操の代で天下統一されただろうし
歴史を変えた周瑜は10選に入ると思うけど


39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 02:55:09 ID:GPHfUq1S0
>>37
戸籍調査が出来なければ動員はできない。人口統計ってなんのためにするか判ってる?

>>38
謝玄のヒ水の戦いのように、その勝利(敗北)によって政権崩壊のきっかけを与えたって
ほどでもないしねえ。


40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 03:25:23 ID:IOy77Z+U0
戸籍調査で居なくなった人はどこへ行ったか?
豪族の私物になったに決まってるじゃん
で、軍隊って豪族の私兵の集まりだよな?後漢末


41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 06:16:52 ID:f972XC3qO
>>29の言ってるのが一番妥当な答えかと・・・
俺も周瑜を外し岑彭、樊崇、馬賢を確定入りでいいと思う。
確かに周瑜は赤壁で勝ったが別に曹操が衰退、滅亡させるほどでもなかったし、
逆に曹操が衰退、滅亡していれば文句無く確定入りに出来るのにな。
>>29の言ってるのが一番妥当な答えかと・・・
俺も周瑜を外し岑彭、樊崇、馬賢を確定入りでいいと思う。
確かに周瑜は赤壁で勝ったが別に曹操が衰退、滅亡させるほどでもなかったし、
逆に曹操が衰退、滅亡してれば確定入りに出来るのにな。
昨日言ったが赤壁で功績を周瑜だけに還元し過ぎな感もするし・・・


42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 06:19:35 ID:f972XC3qO
↑スマン変な書き込みになってるな・・・orz

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 13:49:55 ID:wgMBPAB90
周瑜は「実績・功績が不足し、卓越した指揮・戦術力があるとは言えない」レベルなのか…

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 16:07:15 ID:HUKYyGrD0
>>43
他の候補と比べれば、明らかに見劣りする。

45 : ◆RQdk7scN8s :2007/02/08(木) 16:43:01 ID:5R+sEqky0
>>41 「相手を衰退、滅亡させるほどでもなかった」って、それ防衛戦で活躍した連中の大半が落ちそうだな。
春秋戦国や南北朝期、五代などの分裂期の特徴である勝ったり負けたりは、あんまり評価できないということかな?

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 17:22:09 ID:t57X4TwOO
曹操じたいが弱いイメージがあるなあ

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 17:23:23 ID:JH64p7KFO
>>46
どこまで話を戻す気だよw

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 17:26:26 ID:t57X4TwOO
>>47
スマンねw
いや抗金名将の金や元と比べるとって意味ですた
説明短かすぎたね

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 17:32:11 ID:IOy77Z+U0
その理屈だと賊征伐とかの武将や内乱征伐なんかの武将は
軒並み自軍の方が質の良い武装、練兵をしてる訳で評価出来ないと言えないか?

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 17:39:28 ID:t57X4TwOO
そんなつもりはないよ
天下とった人だって昔は賊からや内乱から、反乱軍からのしあがったりするし
質のよい武装や錬兵をいくら頑張っても率いる武将がだめなら意味ないし

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 18:26:35 ID:f972XC3qO
◆RQdk7scN8sさん
>>38の曹操陣営が、赤壁で崩壊してれば
周瑜の評価ももっと上がってたのかな?
及び>>39の意見が俺の考えと被る訳で、周瑜の功績自体はちゃんと認めているし、
春秋戦国や南北朝期、五代などの分裂期の特徴である勝ったり負けたりは、
あんまり評価できないとは、別に言ってない。

つ 俺の拙い日本語に過剰反応しないでくれると助かる。

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 18:39:42 ID:wgMBPAB90
周瑜の活躍は如何せん範囲が狭くて期間が短いのがネックだよなぁ…
あれで蜀占領まで成功させてたら文句は出ないだろうけど、あそこで死んだ以上落とされて已む無しかと。

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 18:51:31 ID:GPHfUq1S0
ただ、死んだのは負けて戦死とかではないから、そうそうマイナス材料とするのも酷では?
活動期間が短いといっても、孫策挙兵以来の十年以上の実績はあります。
一発屋という評価もあるが、それは有名な戦いが少ないからで、少なくとも若くして司令官
を任じられるだけのそれまでの功績があってのことでしょう。

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 18:58:17 ID:lPV6jmJG0
赤壁で曹操を撃退して、その後1年かけて曹仁守る要地江陵を攻略し孫権の勢力下に置いたことは評価してもいいと思うけどね。
正確には外交の問題から劉備に貸与してはいるが。

55 : ◆RQdk7scN8s :2007/02/08(木) 19:12:26 ID:5R+sEqky0
>>51 いやぁ、過剰反応したつもりはないから、きつく言ったように聞こえたらすまなかった。
ただ、どうも政治背景を無視というか軽視して、表面上顕れた戦績だけで語ってるような気がしてね。
ま、前からも言ってるように周瑜は候補待機でいいとして、そろそろ次に行きましょうか。
三国以降を待ちかねている人もいるだろうし。

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 19:45:27 ID:f972XC3qO
>>55
別に政治背景を無視というか軽視して、表面上顕れた戦績だけでなんかで語っていませんが。
俺は俺なりに総合的に分析をした上で語っているつもりだけど・・・     まあ拙い日本語で語っているんで上手く伝わらないのかもしれないな・・・orz

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 19:49:00 ID:IOy77Z+U0
拙い拙い煩いなぁ……
本当にそう思うならもうカキコしなければいいじゃん

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 20:01:49 ID:GPHfUq1S0
>>29
少なくとも周瑜にはAとBもあるとおもうが?
赤壁までの実績・功績があったからこそ若年の周瑜が総司令官となることに先代からの
旧臣たちも認めたのだろう。Bについては人によって評価はかわるだろうが、曹操軍の
弱点を正確に認識して対応したのは戦術眼のなせるところでしょう。

で、現状は
【確定】
劉秀、馮異、耿弇、呉漢、樊崇、班超、段熲、曹操

【候補・議論中】
岑彭、馬賢、皇甫嵩、周瑜

でいいのかね?

個人的な推薦は、功績で岑彭と周瑜、バランスを考えたら馬賢と周瑜かなあ。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 20:17:53 ID:wgMBPAB90
>>53
「落とす」は評価を下げろっていう意味じゃ無くて、百人から落ちるってことね。紛らわしくてすまない。

その10年の実績、全部丹念に洗っても、
孫策の部下として6年、一応この転戦の最中、地位からして軍中の主力だったと思われる。
孫策死後になり、指揮官として砦二つ落として一万人捕虜、後に黄祖の部下を迎撃して生け捕り。
黄祖討伐について前部大督だった周瑜が実質的な指揮を取った可能性もないわけじゃない。
そして赤壁で曹操、江陵で曹仁・徐晃らから勝利。

これで精一杯なんだよね。この前半だけでも孫策死後当時の呉将では司令官に選ばれるのには十分だし。
>>44に言われたように、歴代の名将と比べてみるとどうしても見劣りするのは否めないかなと。
せめて最初の六年間にも周瑜の采配の冴が見れれば大分印象も違ってくるんだろうけど、残念ながら見当たらない。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 20:34:20 ID:HeLRo5Eo0
とりあえず、新末〜後漢はこれでひと段落つけてもいいでしょ
まだ、春秋戦国、秦漢も確定したわけじゃないし
個人的には、>>58と同意見
明確かつ画期的な功績を残している馬賢、周瑜を推す

と言うか、岑彭って堅実な用兵と大胆な奇略を併せ持った良将ではあるが
決定打が無いんだよね、秦豊を討伐したぐらいか(隗囂・公孫述戦では結局勝負ついてないしね)
劉邦でもできそうじゃねえ?と思うよ、実際
活躍期間の短さも、周瑜とどっこいどっこいなのは誰も突っ込まねえし(正味十年ぐらいか)
あと、一軍の将としては軽率すぎる
兵の人気取りも重要だが、やっぱ暗殺される伏線は彼自身に起因していたとしか思えない
(結局、公孫述討伐を遂げられなかったんだからマイナス評価にしないとアンフェア)

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 20:35:05 ID:DBIxn+vG0
赤壁の戦いって、曹操軍は、疫病や兵糧不足に悩まされたことも
あり許都に引き返した。
曹操配下の武将の戦死・戦傷が皆無で、その後の曹操が莫大な
費用のかかる銅雀台を建設をしいることから、実は大きな損害を受
けていないとも言われるのは、どこまで信憑性があるんだろ。
取り方によっては、曹操の自爆にも見えるのだがな。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 20:51:34 ID:/kTa3KNXO
>>61
疫病に悩まされたという時点で十分被害は受けているわけだからそれは妄言でしかないがな
曹操は赤壁後軍事的には丸一年以上動いておらず、孫権・劉備が荊州を切り取るのを放置している
後の事を考えたら、赤壁で大した被害も無かったのに孫・劉を放置したのだとしたら赤壁以上の戦略的な大失策
動きたくても簡単には動けないくらい打撃を受けたと見るべきだろう

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 21:09:47 ID:DBIxn+vG0
>>62
その書き方だと、曹操軍にで損害を与えたのが周瑜なわけでは
ないし、赤壁後に曹操軍にが病の影響から脱するために1年以
上かかったとし読みとれます。
あくまで、周瑜が挙げた戦果が問題なのだと思いますよ。

64 : ◆RQdk7scN8s :2007/02/08(木) 21:19:15 ID:5R+sEqky0
>>62 戦勝というと、とかく誰それを撃破したとか、何万人大破したとかにとらわれがちだけど
思うに、その戦いで後に相手に軍事侵略を許さず、外に対しては強固な構え、内に対しては結束の強化など
そういった、戦術だけでなく戦略、政略で大きな効果をもたらした戦い、そのときの将帥というのが、名将の解釈のひとつでもあると思う。
もちろん、鬼のような戦績を残している、陳慶之や岳飛のようなのも、また違ったかたちの名将でもある。
曹操が仮に打撃をいうほど受けていないにしても、容易に南征できない印象は与えたはず。
そのとき、孫権軍閥を代表した将帥はというと… となるかな、とは思う。
あと>>60 岑彭も戦歴は短いとはいうけど、光武陣営は総じて短いし、もっと短いのがカオスな分裂期には多い。
分裂抗争のときは、味方陣営での足の引っ張りあいが多いから、戦功たててもすぐ讒言受けたりするし。


65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 21:35:56 ID:HUKYyGrD0
>>60
前線に出て戦死したというわけでもなし、
暗殺されたというのは、将才や武勲とは関係ないと思う。

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 21:59:58 ID:39XMAbZw0
>>65
岑彭応援派の自分でもそれは違うと思う。事故ではなく、公孫述の計略として暗殺が
計られたのであって、やはり暗殺されたのはマイナスだと思う。
(前任者も暗殺されているし、無防備すぎる)
暗殺により、せっかくの任務を果たせずにいるし、部隊を全滅の危機においやった。
これは減点になると思う。

ところで、馬賢は確定、皇甫嵩は落選でいいかね

とすると現状は

【確定】
劉秀、馮異、耿弇、呉漢、樊崇、班超、馬賢、段熲、曹操

【候補・議論中】
岑彭、周瑜

かな? 十人目を空席にして、この二人の論議をおいて、先に進んでいいかも知れない


67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 22:00:02 ID:U8QfliXG0
暗殺は相当マイナスでしょ。戦死よりはましだけど。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 22:05:29 ID:wgMBPAB90
>>61 >>63
じゃあ何で曹操は疫病に悩まされるハメになったのか?といえば真冬に湿地帯で大軍が身動き取れなくなったからで、
じゃあなんで身動きとれなくなった?といえば渡るより先に対岸を押さえられ、
先鋒を送り込んだら水上戦でボコボコにされたため。大軍は危なくて動かせない(致命的な大敗に繋がる)

周瑜は戦前から「真冬に湿地帯に長く布陣するようになれば、絶対病気が流行る」と予想した上での行動だった。
赤壁に関してはまさしく「周瑜にハメられた」と言って良いと思う。

ちなみに「じゃあなんでそれでも曹操は留まったのか?」というと、
実は呉は重臣が軒並み降伏派だったり、司令官の周瑜と程普が不和だったりと、かなり不安定な状態。
大軍で圧力をかけ続ければ内部から崩壊するんじゃないか?っと思ったんじゃないかと推測。
黄蓋の偽装投降はそういう意味で「待ってました」だったのかもしれない。

>>60
単純な長さというより具体的な量の差じゃないかな?周瑜はそれがイマイチ。
転戦の経緯が細かく判れば評価しやすいし、規模や範囲が大きければ客観的な目安・良いアピールになる。

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 22:07:50 ID:HeLRo5Eo0
>>65
岑彭が敵を降すために、単身説得とかしようとした故事や
兵隊達からの信頼が非常に厚かった話を考慮すれば
その大胆さ、下々に対する大らかさは名将候補の中でも屈指のもの
しかしながら、暗殺の前科がある?(来歙の件ね)公孫述攻略に際して
あの脇の甘さは致命的(大胆さと大らかさが、ともに仇になっている)
「万が一」を考えれなくて、公孫述を延命させてしまったのは武将として致命的ミス

友達にはなりたいし、上司として仰ぎたい人物ではあるが、将軍・軍司令官として評価すれば
「無駄死に」「犬死」だと思う

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 22:43:48 ID:kCQcGJGzO
暗殺されるまでは快進撃を続けていただけに、あっさり命を奪われたのは惜しいね。

公孫述も岑彭を生かしておけば、呉漢から一族皆殺しにされずに済んでただろうに。

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 22:46:08 ID:grX51/GL0
新・後漢
【確定組】
 劉秀、馮異、樊崇、耿エン、呉漢、班超、段ケイ、馬賢、曹操
【候補・議論中】
 岑彭、周瑜
で取り敢えずいいですか?
三国〜両晋に移るということいいですかね。



72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 22:47:31 ID:grX51/GL0
取り敢えず貼っときます。
三国〜両晋
【確定組】
  艾、石勒、祖逖、王猛
【内定組】
 劉曜、慕容垂
【論争中】
 陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄
 劉淵、劉聡、冉閔

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 23:01:08 ID:HUKYyGrD0
>>67
それを言うなら、確定の馬賢だって戦死してるじゃないか。
最期をまっとうできなかったからといって、
生前の将才や実績を否定するのは良くない。

>>69
それは個人の性格の問題であり、
将としての実績とは関係ないと思う。

>>71
まだ次に移るのは早いんじゃないのか?
後腐れないように、今のうちに後漢は議論を詰めておいたほうがいいと思う。


74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 23:04:45 ID:/kTa3KNXO


75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 23:09:44 ID:/kTa3KNXO
>>73
横からだけど、暗殺されたこと自体が問題なんじゃなく、
・来歙も殺られてたのだからより配慮すべき
・暗殺によってその後の漢の軍事行動に悪影響が出たんだから、暗殺にはもっと慎重であるべきだった
といった点を、時に臆病なほど慎重であるべき将としてはマイナスだと言ってるんじゃないかな

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 23:11:13 ID:/kTa3KNXO
74は間違えて送信した
ごめん

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 23:18:22 ID:HeLRo5Eo0
>>73
多分後腐れるだけだと思うよ
うん、性格の問題といった理由で作戦行動の頓挫をスルーされたら、議論にならないからね

で、やっと三国〜両晋か
曹操がいなくなった今となっては、石勒の一強になってしまった観がある
候補勢の再議論必要だな

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 23:22:44 ID:f/F+9QoJ0
司馬懿は候補に入ってないの?

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 23:29:49 ID:U8QfliXG0
>>75
そのとおりです。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 23:32:25 ID:L+cjmUG30
ぶっちゃけ、正史の知識は全く無いけど、陸遜はだめなん?

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 00:17:00 ID:cAm3cVvu0
ケ艾、石勒、祖逖、王猛、劉曜、慕容垂、慕容恪の七名はそのまま確定でいい気がするな>三国両晋
つか慕容垂が未だ内定で慕容恪が論争にしか居ないのはどうかと思った
ただ、燕から二人って言うのがバランス悪く感じるのも判らなくはない

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 00:21:13 ID:bSJ7SzSmO
桓温も確定でいいんじゃないかな?

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 00:31:10 ID:Pq+tYknw0
皇甫嵩はあまり本人の議論をなされないうちに確定組に入り、そして落選した感があるな。
擁護したいんだが、俺のごときはマンセーな後漢書の伝をネット上でよんだことがあるだけだしな・・・

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 01:53:58 ID:cAm3cVvu0
劉曜←石勒←祖逖←石虎←慕容恪→冉閔

桓温←慕容垂→拓跋珪
      ↓
姚萇←慕容泓

慕容兄弟は十六国の食物連鎖の頂点に居るw
粗探しをしても粗がないのは慕容兄弟と王猛かな?この3人は不動

劉曜、石勒、劉曜、石勒、祖逖、石虎、冉閔、桓温、姚萇はそれぞれ負けてる相手がいる
ケ艾は国力差、陶侃は北伐成績が無い、謝艾は相手がヘタレ麻秋、謝玄は一発屋(北伐が失敗)
李雄は将軍というより政治家(というか成漢って宗教色強いし、一慨に戦強さで成立した国じゃないので比較しづらい)
劉親子はどこまでを本人達の軍功に当てるか
この辺りが各人のスネになるだろう

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 04:37:12 ID:lZUOEAd20
>>80
密かに軍歴は長いけど前半が山越討伐で
後半は対魏戦で目立った戦績が無いので大々的に名将扱いするには抵抗がある。

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 07:47:01 ID:0s53FtN50
>>81
慕容恪も慕容垂に劣らず優れた将だよね。
知勇兼備で政治力に優れた名宰相でもあるし。
>>78
あのさー何度も指摘されてるけど推薦文なり戦績なり挙げればいいじゃん。
入る、入らないはまずそれからだ。

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 11:22:11 ID:OSleyQaN0
>仲達
孟達、公孫淵といった凡夫には異常に強いけど、
孔明や陸遜のような半名将には大した手出しが出来ないというのが何とも…

彼が凄いのは局地戦で勝ちきれないと見るや、兵站を整備して戦略の次元で自軍が負ける要素をゼロにした点。
まあ、大軍になるほどキレが鈍る曹操とは正反対のタイプだろう。
追撃が下手なのもなw

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 14:22:58 ID:igvrdi3iQ
周瑜一票
彼がいなければ三国志が無かった


89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 14:58:17 ID:1uiJCajv0
林彪一票。

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 18:46:19 ID:ZgSZDhZVO
>>88
魯粛が十分代わりを果たすと思うけど。

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 19:03:02 ID:eCqI0NxI0
>>90
魯粛は将軍としては呂岱あたりにも劣る感じですが…

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 19:05:21 ID:hywcihSb0
中国兵法ってサイトは既出?
自選の武将百選もあるみたいだけど。

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 19:14:36 ID:NQChl9IG0
>>92
アレは自選じゃなくて『中国古代百将図説』っていう本を訳したもの
図もそのまんま使ってる

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 19:36:37 ID:Cycs++gc0
周瑜がはいらないのなら
謝安も入らないのかな

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 21:10:40 ID:0s53FtN50
劉曜、慕容垂、慕容恪の確定入りに俺は賛成。
それと桓温も確定でいいじゃないって意見も出てる。。
論争中の慕容恪、桓温を確定入りさせる事にみんなは異論はないのかな?


96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 22:14:29 ID:Epk7T0gJ0
俺は慕容垂、慕容恪、陶侃、謝玄を推したいな。
劉曜は功績すごいけど、死んですぐに前趙が滅びたからなぁ。。。

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 00:09:05 ID:ZDGrm4b1O
謝玄はヒ水の戦い以外になんか具体的な戦功ってあるの?


98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 02:15:56 ID:d1AL/BOVO
>>91
別に将軍として劣っていても周瑜の代わりを果たす分には問題無いと思うけどね。
他の才能はピカ一なんだし。

謝玄はヒ水の戦いしか思い浮かばないね

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 09:21:31 ID:dqBV37+RO
将軍としての才能なんかなくたって魯粛に赤壁その他の指揮が同様に出来たと言いたいのか、
それとも影響力その他将としての資質以外を含めた名将スレと関係なさげな話しなのかは知らないが、
どっちにしても代わりは無理だろう。

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 09:56:11 ID:JW+7VL+i0
周瑜は、新・後漢で議論中なのに、三国〜両晋でも
議論するのか?
どちらかの時代に絞ってから議論した方がよくないか。

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 12:14:47 ID:nSGVJ4+m0
>>99
建安20年の荊州侵攻の時も実際に攻め入ったのは呂蒙で魯粛は関羽とにらみ合って外交してたしね。

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 13:03:42 ID:ZDGrm4b1O
どうやらこのスレでは周瑜は新〜後漢末に区分されるらしいので
三国〜両晋の対象にはならないだろう

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 14:11:14 ID:hZlRKqDj0
そろそろ周瑜ヲタうざい

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 15:05:36 ID:0DolzXKO0
慕容垂・慕容恪・桓温の確定入りに賛成

ところで、劉裕即位以降が南北朝ということは拓跋珪はこの時代になるのか?


105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 15:17:29 ID:R+5ku6yt0
拓跋珪は南北朝の確定組に入ってるんだけどな一応

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 15:22:12 ID:ZDGrm4b1O
あれ?南北朝時代って北魏の統一からじゃなかったっけ?

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 19:48:41 ID:gAvCiJ4B0
>>84
慕容恪はジリ貧の冉閔に何度も撃退されていたわけだが
冉閔を推す声が強いのも、滅亡寸前にもかかわらず慕容部を寄せ付けなかったところが評価されてじゃない?
(でも、名将百選には入るほどではないか)

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 22:58:15 ID:M2mR8P9+O
十一戦十敗一勝だな>恪と閔の対戦成績
最後にキッカリトドメ刺してる以上、慕容恪の戦略勝ちだと思うのは贔屓倒しかね?

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/11(日) 00:03:15 ID:zimrvkQk0
しかし慕容部最高の傑物だしな慕容恪は
俺は強力に後押ししたいぞ慕容恪

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/11(日) 00:08:57 ID:t6cka/Jg0
慕容兄弟と石勒・虎・閔の血で血を洗う継承者達は俺も推したい
だが、これをすると10名中5名が燕と趙になってしまうという諸刃の剣
素人にはお勧めで(ry

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/11(日) 00:20:44 ID:zxHX4yrr0
>>108
いや、慕容恪の十傑入りは確定だと思っている上で、>>84の認識の誤りを正しただけ
慕容恪>冉閔って評価は動かないと思うけど、そこまで力量に差がついているわけでもあるまい
慕容垂は苻丕相手に、ひたすら手こずっていたイメージのせいで、評価落ちるんだよね
(しかも、苻丕を滅ぼしたのは西燕の攻撃と東晋のトドメによるもの)
燕の領土拡大への貢献度も含めれば、慕容恪>慕容垂な感じになるかな?

【確定】
ケ艾、石勒、祖逖、劉曜、慕容恪、桓温、慕容垂、王猛

これに加えるとしたら、やっぱ陶侃、謝玄を推したいな
特に謝玄はヒ水以前から徐州方面で前秦の侵攻を撃退していたし
劉牢之による北伐は失敗だったとは言え、黄河以南の地域を少し回復しているし
一発屋って評価は当てはまらない人物だと思うんだが

112 :84:2007/02/11(日) 00:43:12 ID:t6cka/Jg0
元々ネタにソコまで突っ込まれても困るし、慕容恪と冉閔の戦いを知らないと言うことも無い
慕容垂が符丕とやり合ってるとき、東晋から劉牢之が援軍に来て他と思うが?
劉牢之と言えば東晋きっての猛将だし、そんなにマイナス査定かねぇ?

個人的には
石勒、祖逖、石虎、冉閔、慕容恪、桓温、慕容垂、王猛
が確定ライン、劉曜もまずOKでケ艾と陶侃どっちにしようかな?って気分


113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/11(日) 01:14:20 ID:VT1qa0zoO
苻堅はやっぱ入んないかな…

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/11(日) 01:39:43 ID:tbOoreXg0
五胡十六国って実に狂った時代だな。

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/11(日) 06:21:38 ID:GsUzwaR6O
>>113
ココに挙がってる連中と張り合うのはかなりきついな……

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/11(日) 14:55:14 ID:/fuPV5TF0
陶侃は五十年にわたって地方長官、軍司令官などを務めた東晋の柱石
石虎は傍若無人な殺戮マシーン(あくまで個人的なイメージなんだけどね)
戦の上手さは石勒に引けを取らないと思う
謝玄は有能なのだがヒ水の功績をどう評価するかが焦点
劉曜、桓温は確定入りでいいと思う
個人的には陶侃、石虎に各一票ずつ入れたい


117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/11(日) 21:56:09 ID:m9FT3T8S0
ところで王猛の具体的な戦功ってなんだ?
名宰相・名軍師なのは分かるが、名将と言われてもピンとこない。
誰か具体的に教えてくれないか。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/11(日) 22:32:48 ID:t6cka/Jg0
慕容垂が抜けた後の前燕を滅ぼした

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 00:09:21 ID:XLJvockR0
>>118
それだけじゃ、時代を代表する十人に入れるには、
実績不足じゃないか?
慕容垂のいる前燕を滅ぼしたならともかく。

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 00:15:10 ID:VSgQqZ36O
>>118が示したのは功績の一例だろ

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 00:19:19 ID:410mDf1L0
蜀征伐とか、転戦してた筈

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 14:59:49 ID:Vsejoll10
林則徐は入るだろ。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 20:55:17 ID:Kez+90Og0
【確定は】 中国名将百選 其ノ参 【誰だ!?】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1170812626/
【みんなで】 戦国名将百選 【決めよう】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1166806707/
【ヨーロッパ】西洋名将百選【西洋】
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/whis/1168117287/
【みんなで】日本名将百選【決めよう】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1169589425/
【みんなで】 世界名将百選 【決めよう】
http://etc6.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1171011992/
【みんなで】 中国猛将百選 【決めよう】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167189069/
【みんなで】 中国名相百選 【決めよう】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167909324/
【みんなで】中国愚将百選【決めよう】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1165592836/

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 21:08:22 ID:410mDf1L0
マルチうざいよ

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 21:10:38 ID:T7SiANKl0
>>122
半年ログれ

126 :120:2007/02/12(月) 22:52:09 ID:VSgQqZ36O
符柳が挙兵した際、王猛はこれを鎮圧している。
陝城を落し、符[庚]を捕えて長安に送り内乱を平定。
前涼が前秦に侵攻した際、姚萇と共に涼軍を撃退。
李儼が救援を符堅に請うた際、王猛は各地に兵を派遣して守備を固めさせた上で
楊安と共に枹罕救援に向かい、
迎撃してきた前涼の張天錫を大いに破り、
前涼軍に、戦死者・降伏した兵を合わせて一万七千の打撃を受えた。
これにより絶縁していた前涼は再び前秦に藩属した。
これで少しは王猛の名誉回復できたはず。

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 23:02:36 ID:410mDf1L0
そっか蜀じゃなくて涼だったな
ただ姚萇だって頑張ったんだよと、ヤツは面白い生き方してるんだよなぁ
百選入りは厳しいと思うが


128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/13(火) 21:16:35 ID:bHog/2AB0
前秦の怒涛の征服を指揮していた将軍って誰?
王猛?苻融?それとも苻堅?

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/13(火) 22:46:55 ID:Rx2jG3G0O
王猛あっての前秦だね

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/13(火) 22:56:02 ID:ihkBeGfrO
>>129
同意
符堅は王猛の死後は冴えなよな。
王猛の遺言を守らず東晋を攻めてヒ水で惨敗してるし…

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/13(火) 22:58:19 ID:bHog/2AB0
いや、だから前秦の征服戦争を指揮した将軍を教えて欲しいんだが。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/13(火) 23:22:02 ID:ihkBeGfrO
>>131
王猛、楊安、符融、符丕
符丕は王猛の後釜的存在
で関東を鎮めている。
まあ符堅も親征してることはしてるけどな。

つ これで満足した?

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/13(火) 23:32:14 ID:ihkBeGfrO
スマン 王猛の後釜的存在は符丕じゃなく符融だった。

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/13(火) 23:36:01 ID:bHog/2AB0
>>132
サンクス。質問ばかりで申し訳ないが、
その中で武勲が最大といえるのは誰?

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/13(火) 23:45:20 ID:ihkBeGfrO
王猛
前秦の政策、戦略など殆どが彼の力により、
前秦が勢力を拡大出来たのは彼がいたからと言っても過言ではないはず。
符堅の信頼が厚く、劉備にとっての諸葛亮の様な存在と評された。

つ これで十分に満足した?

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/13(火) 23:54:52 ID:bHog/2AB0
>>135
いや、それ軍師や宰相としての功績じゃん。
純粋に戦場での武勲が最も多い前秦の将軍を知りたいんだが。

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 00:31:54 ID:SIXMw3/l0
王猛だろ
前燕を滅ぼしてるんだし

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 01:33:40 ID:rMwASHSNO
つ まず最初王猛とに答えてる。
>前秦の政策、戦略など殆どが彼の力により
と補足入れただけだけど何かおかしいか?

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 15:47:38 ID:c87tDxIqO
じゃあ王猛は文句なく確定ということでいいかな?

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 21:55:36 ID:hfbVFxXy0
>じゃあ王猛は文句なく確定ということでいいかな?
あれ?王猛っていつ確定から外れたの?
>>119 が早とちりした以外は別に異論が出てないなかったよね?
まあ王猛の確定入りに問題無いと思うよ

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 22:08:01 ID:3K5sckN+0
前秦から王猛ひとりなのは仕方ないかもしれないけど、
国としては3人ぐらい入ってもいい実績だと思う。

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 22:38:00 ID:rMwASHSNO
>>141
符堅、符融、符丕と候補が無いことも無いが
他の面々と張り合うのはかなり厳しいだろうな

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 20:37:44 ID:gxItVOPf0
確定
慕容垂
慕容恪
王猛
桓温
石勒
祖逖

候補
石虎
冉閔
陶侃
謝艾
謝玄
姚萇
拓跋珪

こんなところでいいかな?
さあ、議論を続けよう。

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 21:06:31 ID:z9vhyC8R0
いいんじゃない?
じゃ次は隋唐時代か。
やはり李世民は外せないな。

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 21:09:26 ID:RmTPz1FG0
南北朝は?

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 21:10:53 ID:wouTLgWt0
ケ艾、劉曜がいつ確定から外れたんだ?

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 21:27:54 ID:YE3VGJ3DO
確かに 艾、劉曜が外れてる
それと拓跋珪は南北朝で確定入りしてるけど
拓跋珪はこっちに入れるのか?
それにまだ残り枠決めてないけど次の時代に移るのか?

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 21:45:30 ID:gxItVOPf0
>>146
劉曜・ケ艾を入れ忘れてた。スマソ

>>147
拓跋珪の没年はこのスレの時代区分では、
三国・両晋に入るんだよ。

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 21:52:19 ID:OTyjqmfq0
隋には名将っていないの?

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 21:53:26 ID:RmTPz1FG0
拓跋珪、確定じゃないの?
納得いかない

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 22:02:00 ID:Y11ZyAOl0
拓跋珪をこっちに入れるとなると
ケ艾
劉曜
慕容垂
慕容恪
王猛
桓温
石勒
祖逖
拓跋珪
で九人になるけどここから確定落ちになる人はいるかな

>>149
楊素、韓擒虎、賀若弼、史万歳あたりがいるが

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 22:29:05 ID:yqZEfS88O
謝玄はやっぱ落選か…

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 22:37:23 ID:YE3VGJ3DO
>>148
拓跋珪は三国・両晋じゃないの?と前々から疑問に思ってたんだけど
それについて誰も言わないし、
南北朝に入れるのかと思っていたから一応聞いてみただけ…

>>151
この九人は確定でいいんじゃない
そうなると残り一枠を誰にするか迷うよな

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 22:43:06 ID:wouTLgWt0
あと一人、難しいね。
候補にあげるなら、戦術の巧みさなら冉閔か謝艾、果した功績の大きさなら陶侃か謝玄。

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 22:45:41 ID:gxItVOPf0
>>153
陶侃を推す。他の名将と対戦してないのが痛いが、
戦歴は豊富だし、陶侃がいなければ、
おそらく東晋は地盤を固められずに短期政権で終わっただろうから。

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 23:21:24 ID:20phuMvF0
>>155
俺も陶侃に一票
陶侃は五十年にわたって地方長官、軍司令官などを務めた東晋の柱石だしな。
平時でも戦に備えて瓦を庭に出し入れして、
体を鍛えたというエピソードが残っているぐらいの根っからの武人だしね。

個人的には殺戮マシーン石虎も推したいのだが・・・

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 23:35:07 ID:dEMkXELF0
負けた祖逖が入ってて
勝った石虎が脱落ってのもなぁ・・・

陶侃も捨てがたいし、この時代は迷うな

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 23:54:21 ID:YE3VGJ3DO
>>157
そうだよな。
石虎の暴れっぷりは評価したいし、
確かに陶侃も捨てがたいね。 今回も残りの一枠は持ち越しになるのかな?

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 15:00:18 ID:M0NJi0+u0
>>157
石虎は天王になってからの戦績が振るわないのが減点材料かと。

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 17:15:53 ID:9kljjt400
思ったんだけどさー

なんで田単が候補にすら入ってないの?

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 17:16:27 ID:9kljjt400
楽毅入るなら田単も入るだろ

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 21:10:50 ID:bVTmxrvn0
理由がわからん。別に田単は樂毅に戦場で勝ったわけではないしなあ。
まあ城を落せなかったのと諜報戦でしてやられたってのはあるが。

田単が候補に挙げられないのは、おそらく究極の一発屋だったからだろう。
城の防衛の指揮を任されるようになる前は一介の市場の役人で、勝った後は
栄達はしたがこれという功績もない。
即墨戦の後の軍事的行動というと狄を討とうとして失敗したこと(後に成功)
と趙の兵を率いて燕の城を落としたことくらいしかない。

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 21:19:49 ID:f/WwVciP0
スレの流れ

これ読める?

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 21:27:45 ID:yYY6neoF0
とりあえず151に異論がなければ南北朝に進んでもいいと思うがどうか

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 22:31:53 ID:bVTmxrvn0
いいんじゃないですかね。
残り一枠の候補には冉閔と陶侃を推薦しておきます。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 22:50:41 ID:TLQAXSzqO
>>159
劉曜も後年、石虎と石生に惨敗してし、
石虎も天王になってから破れた相手って慕容恪だろ。
減点するには厳し過ぎないかと言ったら贔屓し過ぎかな?

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 22:53:32 ID:f/WwVciP0
冉閔だって慕容恪に十勝してるし
この時代、アホみたいに戦争しまくってるので、単純には決めづらいだろう

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 23:29:54 ID:bVTmxrvn0
いまさらだが、戦術の巧みさだけで推薦するのなら八王の乱時の司馬乂とかも
凄いんだよな。圧倒的劣勢下で、戦場では不敗だった。
さすがに十傑入りは無理だろうけど。そう考えると、やはり冉閔も外れるかなあ。

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 19:14:06 ID:Ynh5F5kWO
現在の状況はこんな感じか?
三国〜両晋
【確定組】
  艾、石勒、祖逖、王猛劉曜
慕容垂、慕容恪、桓温、拓跋珪
【候補】
陶侃、石虎、謝艾、謝玄、冉閔

陶侃が一歩リードってとこかな。

どうするまだ論議を続ける?
それとも南北朝に移る?

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 20:25:05 ID:rMl3f1A40
いいかんじに次にいってもいいかな

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 20:29:09 ID:hHgYTn5T0
まぁ、これまでも十人確定を出してきたわけでもないんだし、
また、改めて議論もするだろうから、取り敢えず次に移ってもいいんじゃない?

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 20:35:12 ID:oHGca7Iw0
じゃあ南北朝時代に行く?

【確定組】
 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、
 高歓、宇文泰
【候補】
 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、
 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼
 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達
 赫連勃勃、拓跋Z、侯景(宇宙代将軍)
 蕭道成、斛律光、陳覇先

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 20:45:22 ID:Ynh5F5kWO
じゃあ南北朝へと移りますか。
俺は韋叡の好敵手である楊大眼を推しとくよ。

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 21:25:43 ID:pClLuuW80
宇宙大将軍を推したい

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 21:32:53 ID:2AFKOlEu0
斛律光は確定でいいと思う

あとネタ枠として宇宙大将軍を推したい
俺達の永遠のヒーローだろw

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 21:38:44 ID:y65Q0nPv0
侯景は君らの胸の中にしまっておけ

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 21:55:26 ID:h95p/GHrO
素人でいつもロムってる俺に宇宙大将軍について教えてくれ
何がネタなのか

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 22:15:42 ID:Ynh5F5kWO
>>177
侯景 宇宙大将軍でググってみなよ
ちなみに宇宙大将軍は2ちゃんの偉大なるヒーローさw

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 22:42:52 ID:h95p/GHrO
>>178
ごめん、ググってみたけどどのへんが2ちゃん的なのかよくわからない

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 22:47:36 ID:cj4xFKaH0
wikiからの引用だけど、この辺のことでしょ。

武帝の没後、侯景は簡文帝を立て、相国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事を
自称した。

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 22:53:30 ID:hHgYTn5T0
ぶっちゃけると、宇宙大将軍って自称が面白いだけ。

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 23:05:02 ID:2AFKOlEu0
高歓の元で転戦する軍団長

高歓が死にそうになると
「HEYHEY!おいらは高歓のアニキにはついてくが、そのガキの事まではしらねぇぜwwww」
と公言する

高澄(高歓の息子)、政権を引く継ぐと真っ先に不穏分子である侯景を謀殺しようと、高歓の名で招集の手紙を出す

その手紙を見て
「アニキは俺に書状出すときは穴を開けてた筈……こいつはヤベェ!!(←自業自得)」

梁と組んで独立する

高澄、高歓の遺訓に従い慕容紹宗を起用する

「慕容紹宗?あの青二才に何が出来るってんだよ!俺は百戦錬磨の侯景サマだぜ!!」

ボコボコにされる

「何で援軍よこさねぇんだよ!」と八つ当たり気味に建康に進軍

梁の一軍団長になる。その性格その他から危険視される。ついでに梁と東魏の国交が回復し始める

やられる前にやったると建康進軍、権勢を誇った朱イをヌッコロス!と進軍したはいいが、すでに朱イが病死してた

出した刃は引っ込められず、建康で梁武帝を人質に面白籠城劇を繰り広げる

軟禁されてる梁武帝を前に気圧されて汗を流す(自分が軟禁してるのに)

相国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事という喜劇的な将軍位を開発、名乗る

和睦、梁武帝の娘を娶る。この公主に溺れる

結局拗れて皇帝を名乗るも、陳覇先と王荘辯に破れシボンヌ


一時代の梟雄にして、ネタに溢れ、強勢を誇った梁を一人でぶっ壊したという
そのお人柄とネーミングセンスが今尚愛されてるのです


183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 23:07:46 ID:m3yniq2v0
まあ百人には入らないだろ

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 23:55:46 ID:rMl3f1A40
楊大眼よりは元英の方がいいと思う。あとは韋叔裕、斛律光、爾朱栄あたりか。
しかし北に偏ったな。

そういや候補に蔚遅ケイがいないな。まあいても候補どまりな気はするが。

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 23:57:12 ID:96WZcXqg0
宇宙大将軍こと侯景には負けるが南北朝には個性派ぞろいだな
三十六の戦術を持つ、逃げの檀道済
馬に乗るのが下手なとぼけた天才、陳慶之
虚弱体質の名将、韋叡
文盲で愛妻家(戦場でもラブラブ)泣く子も黙る、楊大眼
仮面の貴公子、高長恭(しかもオリジナルミュージック付き)
など全く真面目なんだか不真面目なんだかw


186 : ◆RQdk7scN8s :2007/02/18(日) 00:12:34 ID:uwADlhPn0
哭泣した重臣のヅラがとれて、葬儀中大笑いしたのは、南朝の太子だっけ?

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/18(日) 00:21:08 ID:E0w974GCO
>>186
東昏侯こと蕭宝巻

188 : ◆RQdk7scN8s :2007/02/18(日) 00:32:11 ID:uwADlhPn0
>>187 それそれ。 ヅラじゃなくて頭巾だったかな。
そうか、あの東昏侯だったか。
斉梁革命期近辺だと、義陽で元英との名勝負を謳われる蔡道恭や鍾離を堅守した昌義之とか
防衛線で手腕を発揮したのもいるなぁ。

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/18(日) 01:09:43 ID:E0w974GCO
>>184
【名前】元英
【時代】南北朝 (北魏)
【推薦理由】中山王こと元英は北魏でも屈指の教養人として知られ、玉笛の名手でもあった。
南斉・梁と戦っただけではなく、北方の騎馬民族とも戦っている。
また漢中ではたった三千の兵で二万もの南斉軍を破るなどの武功を重ね、この時代北魏随一の用兵家であった。
楊大眼は副将だし、やっぱ元英の方が上だよな・・・

あと斛律光が確定なら、仮面の貴公子、蘭陵王こと高長恭も確定でいいんじゃないか?

>>188 頭巾だよ。
ちなみに太中大夫の羊闡はみごとな禿頭だったw

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/18(日) 02:27:03 ID:iJs60l6O0
>>182
おいおい、どこから突っ込んだらいいんだw
我らが宇宙大将軍は、他の武将が来たときは強気だったのに、慕容紹宗が来ると聞いてビビったはずだぞ
侯景は高歓の下の時の功績だけなら確定に入れてもいいんだが

高長恭あたりが候補に入ってるのに、高敖曹、賀抜兄弟とかが入ってないのが不思議だ
尉遅ケイも入ってもいいんじゃないか。隋文帝の最後のライバルだし

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/18(日) 07:21:40 ID:dY9oFs7C0
宇文泰が戦闘の才能を絶賛した高洋は候補に入ってないね。
あと尉遅ケイについて誰か詳しく教えてくれませんか?

192 : ◆zxnMrUfNeg :2007/02/18(日) 07:49:47 ID:XjmOOEaw0
数週間ぶりの登場です。ようやく南北朝ですか。

ログなど見て思ったのですが、確定を決めずに先に行くのですか?
春秋戦国であれだけ話し合って確定を決めたのに
確定を決定させず候補を残したまま議論されてるのは少し残念です。

話を戻すようなことを言ってすまんね。

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/18(日) 09:21:27 ID:LNILSB950
>>192

春秋戦国
【確定】
 楽毅、楚の荘王(熊侶)、白起、李牧、王翦、呉起、廉頗、孫武、樗里疾
【候補】
 士会、魏無忌(信陵君)、趙の武霊王  

ご覧の通り、春秋戦国は散々話し合っても十人確定までは至らなかったし、
ど〜せ、一通り各時代を語り尽くしたら、また最初から議論しなおすんだから、
別に、そう確定にこだわらなくてもいいと思うよ。

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/18(日) 09:48:18 ID:OPjVxuI80
○○は候補に入っていないね?という人は、○○の人を
推薦するなり、候補に入って無くてもいいけどとか意思表
示してくださいな。

195 : ◆RQdk7scN8s :2007/02/18(日) 10:51:13 ID:uwADlhPn0
>>192 春秋戦国のときみたいに嵐のような討論が少なくなったから、妥協で進んでいるような気もするかもしれないが
恒例的に最後の一枠は空席にするやり方になってる。
現時点ではそれがベターだと思うな。
(それぞれの時代で、特に詳しい人がここにどれだけいるか、調査してみるのも面白そう)

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/18(日) 12:04:21 ID:E0w974GCO
納得するまで討論はしたいよ、みんなも思ってるはずだ。
でも最後の一枠って決めるのってかなり難しいんだよね。
195の言う様に最後の一枠は空席にするやり方が現時点ではベターだと俺も思う。
            納得するまで討論はしたいよ、みんなも思ってるはずだ。
でも最後の一枠って決めるのってかなり難しいんだよね。
195の言う様に最後の一枠は空席にするやり方が現時点ではベターだと俺も思う。


197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/18(日) 13:15:34 ID:ShNq57gT0
「必ず最後は一枠を残しておかなければならない」ってもんでもないけどね。
すんなり決まるのなら十人決めてもいいのだろうけど。

あと、確定から高歓はずして高洋を入れるべきだと思う。君主としては文句なし
に親父だが、個人の将としての才はこちらが上だと思う。

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 14:48:23 ID:jEimL0780
神武・文襄・文宣の三王に仕え、
二十歳頃から戦に出て数々の功績を挙げた段韶を俺は推したい。
戦績としては西魏の宇文泰と高歡が芒山で戦ったとき、高歡の命が危ういところを救い、
高帰彦の乱を婁叡とともに鎮圧、突厥と北周が晋陽を攻めてくるとこれを撃った。
侯景の乱の際には晋陽を守るなど功績を挙げ、
また陳覇先が攻めてきた際には水上戦ながらこれを撃退し、
北周軍に包囲された洛陽をなかなか救出出来ずにいた斛律光と高長恭のもとへ駆けつけ、
彼らと共にに芒山で北周軍を撃ち破り、洛陽を救い、
国境の定陽郡周辺をめぐっての北周との攻防戦では、病をおして出陣し、定陽城を落としている。


199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 00:29:44 ID:RVq+iqA20
>172の候補者の詳しい解説などみたかったのだが…とまっちゃってるなあ

200 : ◆oOLAqFKRB. :2007/02/21(水) 04:09:12 ID:Typ7OUhy0
とりあえず南朝からももうひとりぐらい、ってことで。
蘭欽(らんきん。?〜西魏の初めあたりまで)《梁書》33巻
 字は休明。剛毅果断にして超人的敏捷性を備える。
 大通元年(527)、魏の蕭城を攻めてこれを抜く。さらに彭城の別将郊仲を破り、擬山城まで進行、
大都督・劉属率いる20万の魏軍を寡兵で潰滅させ、返す刀で籠城を陥とす。
また魏の大将・柴集および襄城太守・高宣、さらにその別将范思年、鄭承宗らの連合軍を撃破する。
彭城の主将・楊目がその子楊孝邕を派遣して蘭欽を攻めると逆撃してこれを破る。
また譙州刺史・劉海游を破り、その帰途で厥固城を抜いた。
楊目は都督・范思年と別将・曹龍牙に数万の兵を与えて援軍としたが、
蘭欽の巧緻な作戦の前に魏軍は潰滅、蘭欽は曹龍牙を斬って京師に戻った。
 假節を与えられ、都督衡州三郡兵を拝して桂陽、陽山、始興の異民族
叛乱をたちまち平定。また天漆に盤踞する蛮族の首領・晩時得を攻め破った。
衡州刺史・元慶和が桂陽の厳容に包囲されるとこれの救援に向かい、
羅渓で厳容を打ち破った。ついで密勅により襄陽に急行、北魏の正将・托跋勝の進行を撃退。
持節を拝し、督南梁、南秦、北秦、沙四州諸軍事、光烈将軍、平西校尉、梁、南秦二州刺史を授かる。
通生行台・元子礼を破り、大将・薛儁、張菩薩を捕らえ、梁州刺史・元羅を投降させて
梁、漢中を平定した。昇進して智武将軍とされた。
 まもなく改めて持節を授かり、都督衡・桂二州諸軍事、衡州刺史に任命される。
直後、魏が都督の董紹、張献を遣わして南鄭を囲むと、梁州刺史・杜懐瑶の救援要請により駆けつけ、
高橋城の戦いで魏の二将を大破、斬首3000を数える。追撃に移り斜谷に入って董紹らを追い立てるも、
西魏の相・宇文黒泰より軍馬2000を送られて追撃を中止、互いに友好を結ぶ。
帰国した蘭欽は詔により散騎常侍を加増され、仁威将軍に昇進した。
 広州を治めていたとき俚の陳文達兄弟が叛いたので、これを攻めて二人をともにとらえた。
功績により平南将軍とされ、改めて曲江県公に封ぜられた。為政者としても有能で仁政を敷き、
民衆は石碑を建てて彼の功徳を称えた。散騎常侍、左衛将軍から改めて散騎常侍、平南将軍、
広州刺史とされるも、前任刺史の南安候に妬まれて毒殺される。
 陳慶之とともに廉頗、李牧、衛青、霍去病らに匹敵する名将と称えられるが、
併伝の陳にインパクトがありすぎるため漢中取りの大功を立てているにもかかわらず影が薄い。
 ・・・先日バカは黙れと言われて以来ROMっとった者ですが、これを手土産ってことで
戻ってきちゃいかんでしょうか。

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 05:06:02 ID:d/gc4DIi0
>>200
>・・・先日バカは黙れ
>これを手土産ってことで戻ってきちゃいかんでしょうか。
だからそんな事は気にするな、2ちゃんなら日常茶飯事だw
出来れば功績をもう少し簡潔に纏めてもらえるといいのだが・・・

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 11:09:39 ID:kkS6C0xQ0
何か最近過疎ってるよな。
他のスレなら過疎っても別に問題ないんだけど、
このスレの場合は後がつかえているんだから、
出きるだけ盛況に話し合って、
出きるだけ速く結果を出してもらいたい。

とにかく頑張ってくれ!南北朝時代に詳しい住人の方々!!

203 : ◆oOLAqFKRB. :2007/02/21(水) 13:37:31 ID:uVbiGNaW0
やったら復帰した俺がリストに挙げ忘れた北周の于謹を。
俺の紹介文は正史からの直訳をまんま載せて
毎度やたらと長くなる癖があるけんが、今回はアジ歴から抜粋。
【名前】于謹
【時代】西魏〜北周
【功績というか紹介文】
 493-568。字は思敬。鮮卑系貴族の名門の出。六鎮の乱のとき大行台・
元纂の鎧曹参軍に召され、爾朱天光が高歓に破られると宇文泰の麾下に
投じた。沙苑・河橋・邙山の戦いに高歓の大軍を防いで功があり、尚書
左僕射から司空となった。梁の岳陽王・蕭詧を補佐して江陵の元帝を滅
ぼし、西魏の官制改革(この改革制度は隋から唐まで受け継がれた)で
大司寇となり、丞相・宇文泰が死ぬと宇文護とともに宇文氏政権を守り、
西魏から宇文覚への禅譲を実現させた。功績により燕国公、太傳、大宗
伯にのぼり、三老の礼を受けた。
 孫子の兵法に通じ将軍として正攻法・奇策ともに優れ、政治家として
も国家の官制制度を一新させるほどの才覚を見せるオールラウンダー。
梁を滅ぼしたときも民に危害を加えることなく、劉宋以来の珍宝を私せ
ずすべて宇文泰に献上した清廉の人。梁討滅から凱旋した彼の家に宇文
泰が家までおしかけ、宴を開いて談笑したという君主と臣下を越えた間
柄。軍事に戦略の韋叔裕に対して軍事に政略の于謹。双璧、ということで一票。

204 : ◆oOLAqFKRB. :2007/02/21(水) 14:26:00 ID:uVbiGNaW0
>>200から余分な要素を削ってみました。
【名前】蘭欽(梁書33巻陳慶之蘭欽伝)
【時代】?〜候景の乱以前
【紹介文】
 字は休明。剛毅果断にして敏捷。 大通元年(527)、北伐して擬山城
まで進行、大都督・劉属率いる20万の兵を潰滅させた。同年、魏の太
守・ 柴集らの連合軍を破る。彭城城主・楊目がその子楊孝邕を派遣、
蘭欽を攻めると逆撃してこれを破った。ついでに譙州刺史・劉海游を破
り、その帰途で厥固城を抜いた。楊目が派遣した数万の援軍も蘭欽はた
やすく破り、別将・曹龍牙を斬って京師に凱旋した。桂陽、陽山、始興
の異民族叛乱もたちまち平定、天漆に盤踞する蛮族の首領・晩時得を攻
め破り、衡州刺史・元慶和が叛将厳容に包囲されるとこれの救援に向か
い、羅渓で厳容を打ち破った。ついで密勅により襄陽に急行、北魏の正
将・托跋勝の侵攻を撃退する。假節を授かり光烈将軍を拝し、通生行台・
元子礼を破る。魏の大将・薛儁らと交戦、勝利して彼らを擒らえ、梁、
漢中を平定。智武将軍とされた。改めて持節を授かる。魏の都督・董紹、
張献が南鄭を囲むと梁州刺史・杜懐瑶の救援要請に応じ、高橋城の戦い
で魏の二将を大破、斬首3000を数える。追撃に移り斜谷に入って董
紹らを追い立てるも、西魏の相、 宇文黒泰より軍馬2000を送られ
て追撃を中止、互いに友好を結ぶ。凱旋して仁威将軍に昇進した。広州・
俚の陳文達兄弟が叛いたので、これを攻めて二人を共に擒らえた。功績
により平南将軍、曲江県公。為政者としても有能で仁政を敷き、民衆は
石碑を建てて彼の功徳を称えた。散騎常侍、平南将軍、広州刺史とされ
るも、前任刺史の南安候に妬まれて毒殺された。
 陳慶之とともに廉頗、李牧、衛青、霍去病らに匹敵する名将と称えら
れるが、併伝の陳にインパクトがありすぎるため漢中取りの大功を立て
ているにもかかわらず影が薄い。とりあえず梁には韋叡と陳慶之の他に
もこんな人もおるよ、ということで一票。
 ・・・これでちっとは読みやすくなったかいな?


205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 15:50:11 ID:cxroJRbA0
ぱっぱと100人決めちゃって
後から入れ替え議論したほうがいいと思うんだけど

206 : ◆RQdk7scN8s :2007/02/21(水) 16:52:09 ID:F0BoUhF+0
その百人がな…
特定の時代に詳しい人とそうでない人の、人口比率が違いすぎる。
今の過疎っぷりは、そういうことだろうと予想するのだが…
自分は南北朝はわからないので、候補決定にまで参与できない。
すると、候補説明のところにツッコミいれるくらいしか策がないなw

>>204 于謹というのは征梁戦のときの総大将?
このスレ的には(今までの流れから)、より戦功が顕著な蘭欽のほうがランクインしそうだ。
重鎮とか戦略家とかいうのは、歓迎されていないように思う、残念ながら。

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 17:24:45 ID:4pXxYmxa0
何せ南北朝(特に北朝)は日本語で手軽に読める史料が皆無な上に
メジャーな人物も少ない(と言うか皆無に近い)からな。
原語の正史でも読めないと人名が出て来ない。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 17:26:21 ID:d/gc4DIi0
では少しでも過疎化打破する為に投下。
◆RQdk7scN8sさんお手柔らかに頼みますよw
【名前】拓跋トオ (太武帝)
【時代】南北朝(北魏)
【推薦理由】明元帝(拓跋嗣)の長男。十六歳のとき、父が崩じて即位。
はじめは宋と修交し、華北の統一に意を注いだ。
北方の柔然がしばしば侵犯したので迎撃してこれを破る。
また親征して高車族三十余万を帰服させた。夏・北燕・北涼を滅ぼして華北を統一した。
劉宋を討つために百万と称した大軍を率いて親征、劉宋を散々に打ち破った。
戦死者は万単位に上ったと伝えられる。
なおこの南征のときに行われた殺戮はすさまじく、北魏軍の通過した郡県は荒涼を極めた。
北魏軍は瓜歩まで進軍したが、結局、長江を渡ることはなく都の平城に凱旋し、
捕虜となった宋民5万余戸は、畿内に分配した。
東西両方面への八面六臂の活躍により、華北の統一に成功し、
五胡十六国時代の終焉させた拓跋トオを強く推したい。


209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 17:27:28 ID:d/gc4DIi0
◆oOLAqFKRBさん別にダメ出ししたわけではないんだよ・・・
余計なお世話かも知れんが字とか為政者としてとか、尚書、左僕射から司空となったとか
生い立ちや戦績以外の武将として余り関係ないような部分を省くのがよかでなかとですか。


210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 19:04:56 ID:EBujPzTb0
自分も拓跋Zを推すよ

小競り合いレベルの戦は省略して戦歴を書き出すと
423年 帝位に即位
424年秋 雲中に侵入した柔然を討つ
     (資治通鑑では拓跋Zが自ら率いて討ったと書かれているが
      魏書では配下の手柄 いずれにしても親征)
424年冬 柔然戦(柔然北遁 諸軍追之 大獲而還)
425年冬 柔然戦(柔然北走)
426年冬 夏戦(夏主出戦而敗 退走入城)
       長安占拠(赫連乙升棄城西走)
427年夏 夏戦
       赫連昌に逃げられるが統万城占拠
430年冬 夏戦 平涼陥落
439年秋 北涼戦、北涼降伏
446年春 蓋呉の乱、平定
449年春 柔然戦、大勝
(蠕蠕渠帥綿他拔等率其部落千餘家來降 蠕蠕吐賀真恐懼遠遁)
450年春 北伐
450年冬〜451年春 南征
452年3月 逝去

上記の戦は全部親征(主語が魏書では「車駕」資治通鑑では「魏主」)
426年夏戦、439年北涼戦では少数意見を選び勝利している
親征ではない戦に
428年春 夏戦 奚斤の指揮下にある丘堆が敗戦
       監軍侍御史の安頡が夏主・赫連昌を捕らえた
      (拓跋Zは平城に帰還していた、敗戦を聞いて激怒)
448年 亀茲戦、亀茲撃破
損害が大きくなりそうだと思えばあっさり引き返す
叩くべき時には諸将の反対を押し切っても叩く(結果的に正しい)
効率が良く判断ミスがないのが売り

211 : ◆RQdk7scN8s :2007/02/21(水) 19:28:21 ID:F0BoUhF+0
>>208 いや、前言撤回w。 知らない時代なんで、ツッコミも無理です。。

拓跋燾といえば、テュルク語でいうところの「狼」を意味した名前の人ですね。
ちょうど崔浩の補佐を得て、勇躍した時代でしたっけね。
しかも、柴栄を含む「三武一宗の法難」の先駆け。名将ということ以上に興味ある人物です。
以上、チラ裏。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 21:36:04 ID:ukcPhd3tO
>>207
>メジャーな人物も少ない(と言うか皆無に近い)からな。
宇宙大将軍こと侯景は別として、
南朝には劉裕、蕭道成(この人は君主としての方が有名だな)
檀道済、韋叡、楊大眼、陳慶之、陳覇先が
北朝なら高長恭、斛律光、、慕容紹宗、爾朱栄、尉遅迥や
高歓、高洋、宇文泰、宇文護(この四人も君主としての方が有名だな)
とかはメジャーじゃないの? それとも上記の人物以外の話してるのか?


213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 21:46:13 ID:RLcmIEVH0
宇文ユウも君主として有名だと思う
ただ、部下の功績か皇帝の功績かの線引きの関係で残れないケド

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 22:14:52 ID:PPUrb9Aa0
【名前】韋孝寛
【時代】北周
【推薦理由】高歓に包囲されたが、五十日の篭城戦の末にこれを撃退。
淮南を経略。尉遅迴の反乱を鎮圧。
そのほかの軍功は数え切れず。
斛律光に敗れているが、その武勲が損なわれることはないだろう。

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 22:15:56 ID:CkUyX/4Z0
楊大眼が南朝に間違えられてしまうほどだからやっぱりメジャーじゃないんだろう

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 22:29:05 ID:ukcPhd3tO
スマン 楊大眼は北朝だったな

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 22:42:01 ID:PPUrb9Aa0
>>189
決して名将とは言えない陳顕達に敗れているのが痛いな。
鐘離でも敗れているし、時代を代表する名将というには足りないかも。

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 23:12:57 ID:RLcmIEVH0
良く北斉の将軍として
斛律光と蘭陵王は並び称されるが
王猛と張賓ぐらい差があるというのが実態

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 23:16:13 ID:4u8xHEFA0
推薦で分けてみましたよ
宇宙大将軍はネタなんでしょ?

【候補1】
 蘭欽、斛律光、慕容紹宗、高長恭、爾朱栄、拓跋Z、段韶、于謹

【候補2】
 柳元景、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、韋孝寛、宇文護、韋叔裕、李弼、
 王勇、沈慶之、陳顕達、赫連勃勃、蕭道成、陳覇先

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 00:21:30 ID:dV2RuS5z0
いや、宇宙大将軍だってそれなりに優秀なんだが

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 01:10:05 ID:1FYEvWnU0
高長恭は>>218のいうとおり。候補にあがるほどの戦功もない

>>219
韋孝寛と韋叔裕は同一人物。前者のほうが通称なので、前者を残しておけばいいと思う
韋孝寛は>>214に追加して、噂を流布させて斛律光を死に至らしめたこと、
北斉の平定の際に武帝に建策したことも挙げられる
尉遅迴の反乱の鎮圧は楊堅が隋を立てる障害を取り除いた点でも大きい

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 01:26:50 ID:4aTkK6Dm0
>>220
優秀だが名将と呼ぶにはネタ臭が強すぎると思うのですよ。

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 01:50:23 ID:dV2RuS5z0
梁に降った後が奮わないんだけど
梁は相当弱兵だったからなぁ・・・

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 02:40:20 ID:56tfdA8U0
叔裕が名で孝寛が字だよな確か
見た限りでは逆な感じがするけど

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 02:49:35 ID:UKmb0iwJ0
それではこれで

【候補1】
 蘭欽、斛律光、慕容紹宗、爾朱栄、拓跋Z、段韶、于謹

【候補2】
 柳元景、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、宇文護、韋叔裕、李弼、
 王勇、沈慶之、陳顕達、赫連勃勃、蕭道成、陳覇先、高長恭、
 宇宙大将軍(侯景)

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 05:04:18 ID:dV2RuS5z0
本名の方が括弧かよw

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 07:44:57 ID:lL5Covtv0
>211
ID変わってるだろうけど210です
そうです。崔浩の補佐が大きいです。
ただ、崔浩が献策する策はほとんど崔浩一人説で
他のめぼしい将(長孫嵩、長孫翰、奚斤ら)は皆反対
読んでいて「またか」と
拓跋Zの字「佛釐」がテュルク語の「狼」だったはず

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 12:50:50 ID:VwslXJjYO
拓跋 と蘭欽、韋叔裕は確定でいいんじゃないかな
あと斛律光か段韶のどちらかを確定にしてもいいと思けど。

斛律光は敵の策略で死を賜った悲運の名将。
段韶の場合は病死だしこの人も悲運の名将と思う。

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 17:34:23 ID:oPmrojV20
>>228
>斛律光は敵の策略で死を賜った悲運の名将。
違うぞ斛律光は後主に粛正されたんだぞ


230 ::2007/02/22(木) 19:34:03 ID:4ql0L8Sq0
【名前】昭奚恤
【時代】戦国
【推薦理由】楚の宣王の下で大軍を率い、
       北方諸国ににらみを利かせた。
       「虎の威を借る狐」の元祖。

231 : ◆oOLAqFKRB. :2007/02/23(金) 16:16:22 ID:Xt8IyYYe0
アジ歴からの引用だけやと落とされそうやし、
えらい過疎状態で書き込んでも邪魔やなかろうし。やっぱ正史からも。
【名前】于謹
【時代】北魏末・西魏〜北周初期
【推薦というか紹介文】
 ものしずかで冷静、見識・度量があり、読書を好み孫子の兵法に通じた。六鎮の乱を避けて隠棲していたが
太宰の元穆から「彼こそ王佐の才である」と見込まれて仕官する。
辺塞で破六汗抜陵が造反し柔然と手を組むとわずか2000人で鎮圧にあたり、寡兵と侮った柔然と郁対原で17戦、
ことごとく勝利を得た。正光4年、破六汗抜陵との対陣においても敵の動きを読み、伏兵をもって大勝、その才を帝に嘉された。
 魏の孝昌2年、梁の曹義宗が国境を侵すと行台尚書・辛纂とともに出陣、数十戦を経るも決着はつかずに終わる。孝荘帝が
即位すると鎮遠将軍とされた。太宰・元天穆に従って葛榮を討ち、刑杲を平定。征虜将軍を拝し爾朱天光について万俟丑奴を
打ち敗った。普泰元年、征北大将軍を拝す。再び爾朱天光に従って勤明達を平定し、夏州の賊・賀遂有伐らを討つも、韓陵山
の戦いで爾朱天光が敗死すると宇文泰に投じた。
 宇文泰に帝位につけと勧めるもこれは実現せず、ただし大統元年に于謹が驃騎大将軍、開府儀同三司に任命されたのは宇文泰
の野心の表れとも見える。同年、東魏に出征、先鋒を務めて盤豆で東魏の将軍・高叔礼を破り、俘虜一千を獲る。さらに弘農に
攻め入って陝州刺史・李徽伯を捕らえた。沙苑で高歓の本軍と戦い、諸将らとともに奮戦してこれを破る。
 また河橋の戦いでは丞相府長史兼大行台尚書として作戦に参与、自らは出陣せず後方を固める。夏州刺史劉平が叛くとこれを
平定した。大統9年、再び宇文泰の東征に従軍、邙山の戦いで西魏軍は大敗を喫すも、部下に偽装投降させてその隙に背後から
攻撃を仕掛けるという于禁の策により東魏軍を混乱に陥とし、結果敗戦ながら大軍を失うことを免れた。
 候景が西魏に従属を求めるとこれを受け入れようとする宇文泰を諌め、候景はともに大事をなす相手ではないと説いたが、宇
文泰は聞き入れず、李弼に兵を与えて候景につけた。まもなく兵を率いて潼関に鎮守した。この年三回昇進して司空となる。
大統15年には柱国大将軍を拝した。
 梁の元帝が候景を倒して即位すると秘密裏に岳陽王・蕭詧を支援、元帝が蕭詧の兄を殺すよう仕向け、蕭詧が西魏に援軍を求め
ると中山公・宇文護、大将軍・楊忠らとともに出撃、長江を渡り、16日の篭城戦を経て京師を陥落させた。梁の皇族は悉く殺した
ものの民衆を害することなく、10余万の俘虜と劉宋以来の珍宝を得て、蕭詧を仮の梁主につけた上で部隊を整頓、凱旋した。珍宝
は私せずすべて宇文泰に献上した。宇文泰は自ら親しく于謹の家まで出迎え、ともに盃を交わし談笑した。
 六官制度を制定、大司徒となる。
 世を去るに当たって世子の幼いことを心配した宇文泰から、宇文護とともに後事を托された。宇文泰死後宇文護とともに野心的な
王侯・大臣らを抑え、宇文氏の政権を揺るがせにしなかった。禅譲により孝閔帝が即位すると燕国公とされ、食邑10000戸を下
賜された。李弼、侯漠陳崇らとともに朝政に参与、賀蘭祥が吐谷渾討伐にてこずると自ら兵を率いて出陣、策略を授けて勝利に導いた。
 周の保定2年、于謹は老齢を理由に致仕を願い出たが、晋国公宇文護、楚国公豆廬寧も現役で国に尽くしているのに于謹だけを引退
させることは出来ない、という理由で却下された。晋国公宇文護の東伐にあたって、病床の于謹は若輩の士卒たちに兵略を教示し、そ
のおかげで周軍は勝利を得た。天和3年没。享年76歳。
 ・・・かなり削ったんやけど、それでも長い。推薦理由は>>203の下半分。
 そーいえば豆廬寧とかもおったね。宇文護とあわせて“三老”といわれたの美形のお人。この人も名将やし、訳そうかいな。

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 16:25:36 ID:aI1KYwKR0
女はバカって決め付ける男って最低だと思う。
女だって読書するし、知性と感性は男とは比べ物にならないぐらい輝いてる。
今の愛読書は吉川英治の三国志、あと月刊同心クオリティ。
三国志は関羽が麦城で籠城して最後死んじゃう所が切なくて泣けちゃう。
つい三国時代の英雄と自分の心情とを重ねちゃうんだよね。
こうして様々な英雄が散っていったと思うとすごく悲しくなる。
やっぱりEIJIは天才だよね。

233 : ◆RQdk7scN8s :2007/02/23(金) 17:00:08 ID:DPdQ5A5i0
>>231
もう、ほんっっっと、しょうもない指摘で悪いですが
「豆廬寧」の廬は「盧」だと思います!
淮南廬州の廬と、見た目ほとんど一緒なんで間違いやすいですが…
苻堅の苻もよく、符に間違えられるし、暗黙の了解でなんとでもなるけどね。
(…少し前まで自分が廬と盧を間違えていて、最近気がついたからだと言うのは内緒にしておこう)

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 18:14:22 ID:tS6v123eO
>>231
于謹は戦上手けど、どちらか言えば策士、政治家としての色合いが濃くないですかね?
それに韋叔裕はともかく段韶、斛律光の戦績の方が上だと思う。


235 : ◆oOLAqFKRB. :2007/02/23(金) 20:15:24 ID:i2hUONey0
【名前】豆盧寧(233氏ありがとう。10年来ずっと間違えとったよ)
【時代】北魏末〜西魏・周
【功績と推薦理由】
 字は永安。本姓は慕容氏。前燕の傍流の末裔。若くして勇猛果敢、志と気節があり、身の丈8尺、
容姿は端麗で、騎射をよくした。永安年間、爾朱天光とともに入関し、万俟丑奴を討つのに功績が
あった。弓技に長け、100歩離れた所で落ちる木の葉に向けて一瞬で7本の矢を射掛け、5本を
命中させるという神業をこなす。爾朱天光敗死後は李弼らとともに宇文泰についた。
 北魏の孝武帝が西遷するとこれをむかえて功があり、伯爵に。大統元年、宇文泰の下で竇泰を捕
らえ、弘農を回復し、沙苑で東魏軍を大破して車騎大将軍とされた。七年には于謹に従い稽胡の総
帥・劉平伏を上郡で打ち破る。友人の梁仚定が叛くと平定を命じられ、内心はともあれ非情に徹し
て友を撃つ。大統九年、邙山の戦いに参加、西魏大敗の中ひとり気を吐き、局地的ながら勝利を得
て、戦後左衛将軍、范陽郡公に昇進する。十六年、大将軍となり、羌族の主帥・傍乞鉄忽と鄭五醜
らの叛乱を平定。恭帝の二年、梁の王琳が候方児、潘純陁らを派遣して江陵を侵すと蔡祐、鄭永ら
を率いてこれを撃破。三年、武興・固道の氐族らが叛乱を起こすと征討、平定する。孝閔帝が即位
すると柱国大将軍を拝し、武成元年、同州の稽胡、郝阿保、劉桑徳らの反乱を伐ってこれを平定す
る。凱旋すると楚国公に封ぜられ、食邑10000戸を下賜される。保定四年、宇文護らの東伐に
病を押して従軍するも、行軍中に没した。
 推薦理由は・・・とりあえず顔、やろーか(笑)。同じ美男将軍でも高長恭よりこっちのほうが
長生きしたぶん武勲多そうやし。宇文護、于謹とあわせて“三老”と呼ばれるからには《周書》に
記載されとー以上の功績がありそうやが、そのへんの記述はないけんよーわからん。

236 : ◆oOLAqFKRB. :2007/02/23(金) 20:37:44 ID:i2hUONey0
于謹の武功の半分くらいは豆盧寧の手柄かもしれん。
参加した戦争がやたら被るし于謹に従っての戦いが多いし。
とすると于謹は帷幕の謀臣・作戦立案者で、
現場で実戦を経験するのは豆盧寧やったりするんやろーか。
となるとこのスレ的には豆盧寧の株が上がって、于謹の株がダウン?

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 23:06:25 ID:B/R6vXIV0
>>236
江陵攻略の総督していた時、長孫倹も于謹に策略を尋ねたてたりするし、
宇文護と楊忠へ精騎を与えて江津を占領させて、
東からの援軍を遮断させたたりしているし、
推測だけど例えたら、于謹は孫呉の周瑜みたいな立場じゃないのかな。


238 :237:2007/02/24(土) 22:18:39 ID:gRAaQU8u0
豆盧寧の功績は宇文泰や于謹の指揮下での戦績や反乱を鎮圧したのが多いよね、
于謹と同様に各地を展戦し功績を挙げている李弼が
有力候補にすら入ってないのを見ると、于謹、豆盧寧の十傑入りは厳しいんじゃないかな。
>>206が言うように重鎮とか戦略家、あと〇〇の指揮下や反乱鎮圧で功績を挙げた武将も
このスレでは歓迎されていないように思う。
于謹、豆盧寧より数人が名前を挙げてる高洋の方が良いような気がするけど如何ですかね。
よかったら高洋の推薦文書こうか?(これ以上北朝の武将を増やすのは躊躇いがあるが)


今日も進展ないんだろうな・・・

239 : ◆oOLAqFKRB. :2007/02/24(土) 22:39:53 ID:lZI7/8Cw0
とりあえず
【確定組】
 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、
 高歓、宇文泰
【候補】
 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、
 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼
 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達
 赫連勃勃、拓跋Z、侯景(宇宙代将軍)
 蕭道成、斛律光、陳覇先
・・・というのが現状。暫定の高歓を高洋に代えて、
同じく暫定の宇文泰を拓跋Zに代えてみてはどーやろ。
あと斛律光、韋叔裕、蘭欽(←個人的嗜好が多分に混ざってます)を推す。
豆盧寧は顔と“三老”の一人って肩書きに惹かれてとりあえず訳しただけやから無視してOK。
于謹はどーやろ? まぁ意地でも執着するってつもりもないし候補落ちでも問題ないです。
・・・本当に、なんでこう過疎なんやろね。


240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 22:40:30 ID:L9vFa+ZB0
お願いします。
私はこの時代は手を出せないので、詳しい人頼みですよ。
無知な私を啓蒙するようなマンセーをお願いしますよ。

241 : ◆RQdk7scN8s :2007/02/24(土) 22:56:51 ID:Q2fDkW120
>>239 ほんと、ゴメン。
唐、五代過ぎたらまた黙りますけどw

242 :237:2007/02/24(土) 23:19:51 ID:gRAaQU8u0
>>239
于謹は先程意見を述べさせて貰ったのが漏れの見解です。
韋叔裕、蘭欽、拓跋 の三名は確定入りでいいと思いますし、
残り枠は斛律光、段韶、高洋から選べばいいかなと思っています。
高歓と宇文泰も無理に外さなくてもいいと思いますよ。
高歓と宇文泰は因縁のライバルだし功績は高洋に決して負けて無いと思いますけど。
(宇文泰は高洋に打ち負かされているけどね)
如何ですかね?

ここ数日の間、殆ど◆oOLAqFKRBさんと◆RQdk7scN8sさんと漏れだけで語り合ってるような希ガス(ry

過疎化なのはやっぱ南北朝がマイナーな時代だからなのかな・・・

243 :237:2007/02/24(土) 23:28:06 ID:gRAaQU8u0
追伸
◆RQdk7scN8sさんの客観的な意見またはツッコミをぜひお願いしますよ。
つーか大歓迎しますよw

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 23:53:56 ID:D6caCvtpO
>>242
おいおい俺も結構話に参加してるんだけど…( `Д´)

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 00:09:20 ID:sMWZRMju0
自分もーときどきね

拓跋Zが入ってればいいよ
と言うか宇文泰が確定で拓跋Zが確定じゃなかったんだ
どうしてなのか…理解できない

246 : ◆oOLAqFKRB. :2007/02/25(日) 00:29:56 ID:oP5k2IGQ0
>>245
叩きの時点で「あ、この人功績凄いけど宦官に殺されとるんやが。除外」
って意識が働いたもんで外したんです。すんません。
そのくせ部下に殺された拓跋珪は入れたという・・・我ながら変な選考基準やね。

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 02:44:14 ID:KdE3R6CP0
北朝でまだ推したい人がいるんだが、偏ってしまうので書きにくい
誰か南朝プリーズ

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 03:50:51 ID:VB/ku5FD0
李靖

戰神、昆沙門天の下世

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 07:54:52 ID:YcJrJNnrO
曾国藩は如何です?元は文官だけど。

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 08:30:12 ID:VB/ku5FD0
曾国藩<李秀成

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 10:22:22 ID:uTBiPFEPO
>>247
南朝は厳しいっしょ!?

陳覇先は王僧弁の遺臣に悩まされてるから候補どまりだと思う。
王琳は時代や王朝が違えば変わると思うが、やはり厳しいし、
その王琳を破った呉明徹も候補に入れるのは躊躇する。

陳朝の章昭達は、こうやって名前が出るだけで充分だし。
簫摩か(漢字が出ない)にしても名将かと言われれば否だし。

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 10:49:24 ID:m7lRrmYZO
>>247
南朝プリーズって言われても推薦したいのいないんだよなぁ〜
取り敢えず挙げるなら曹景宗、王茂、呉明徹ら辺りだな。
でも>>251の言う通り呉明徹は推薦するほどではないし、曹景宗、王茂も俺は推薦しない。
それと北朝に偏るから俺は高洋を推薦するのに躊躇があるな。
これ以上候補者を増やすのはどうなんだろうね。
つーか一応名前挙げてみなよ。

253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 13:27:32 ID:EPr/dfx90
陳覇先は敵だった人物をどんどん配下に入れていく度量は好きなんだけど
この時代十選に入る名将かと言われると微妙なところだ
蕭摩訶は隋の誰かが言ったように「一夫の用のみ」だしな

しかし南朝の人物は確定に四人もいるから別に無理して搾り出さなくてもいいんじゃないか

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 14:25:23 ID:v6A3yq7p0
>>251
呉明徹
秦郡・寿春を陥落させ、王琳を滅ぼし、淮南を獲得。
北周に攻め入るも王軌の計略に填まり大敗。
捕われて長安に連行され、そこで病死。

蕭摩訶
呉明徹の下で北伐に従い、その後も呉明徹の下で転戦し、
明毅将軍、武毅将軍・右衛将軍へ累進しているが
呉明徹の死後たびたび北伐を起すも功績を挙げてないし、
隋の南下に抵抗するも隋の賀若弼に捕われている。
晩年は楊諒の謀反に従い処刑されている。

章昭達
陳の文帝から四帝に仕えた。侍中、車騎大将軍となり、さらには司空までなった。
義勇兵を募って建康にはいり、侯景軍を相手に奮戦。
王僧弁の残党、杜龕との呉興を巡る戦いでは第一等の武功を上げ、
陳のみならず陳覇先の信任も得る。
陳の即位後は、皇帝の股肱として重用され、これに応えるように次々に武功を上げてゆく。
王琳を北斉に駆逐した柵口の戦いでは、蕪湖での水戦で王琳軍を大破、勲第一とされた。
周迪の反乱では呉明徹に代わり討伐軍を指揮。
陳宝応が周迪を保護し一挙に叛乱すると、討伐軍の司令官として周迪、陳宝応を相次いで撃破。
ビン中を平定して陳宝応、留異を捕らえる。
これらの武功をもって鎮前将軍、開府儀同三司に任じられている。
しかし安蜀城を攻めた際、李遷哲と陸騰に撃退されてる。
江陵を水攻めにしようとするも、陸騰が出てきて戦うが章昭達は分が悪くなり、退却している。 

王琳
湘東王に属して侯景討伐に功を挙げるなど軍功によって累進。
滅梁の後は湖南に大勢力をなし、斉と結んで陳と対立し、文帝のとき滅ぼされた。
以上いろんな所から抜粋。

>>253の意見に漏れも同意。
まあどっちみち候補入りは厳しいだろう・・・


255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 16:36:27 ID:sMWZRMju0
>246
謝られるとかえって恐縮です

うるさいこと言って本当にごめん(北魏好きなので)
拓跋珪を殺したのは拓跋紹(拓跋珪の次子、当時16歳)
札付き少年で、怒った拓跋珪が井戸に逆さ吊りにしたこともある
彼が拓跋珪を殺したのは、拓跋珪に殺されそうになった生母(賀夫人)を助ける為

>247
書かないことには始まらないよ

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 17:45:29 ID:uTBiPFEPO
>>253
おそらく、南朝の劉宋、梁と出てるから、
陳からも候補を出したかったんじゃないのかな?

陳覇先、呉明徹、簫摩訶、章昭達に絞られると思うんだけど、
仮に北朝側に使えても高名を得られるのは、陳覇先のみかな?

もはや名前を出す段階じゃなくて、あとは決めるだけでしょ。

257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 18:32:16 ID:v6A3yq7p0
>>265
いや多分、北朝に偏り過ぎるのを考慮して南朝側からも
候補者を挙げて欲しかったんだろうな。きっと。
漏れもバランスを取る為に南朝側から誰か推薦しようかと思ったが諦めたぐらいだし。         まあ>>247が推したい武将がいるみたいだし、挙げてもらうぐらいはいいんじゃない。

258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 18:36:09 ID:v6A3yq7p0
>>256とアンカー打ち間違えた。スマン

259 :247:2007/02/25(日) 19:46:20 ID:KdE3R6CP0
>>257の言うとおり、北朝、それも後期に偏るので南朝に詳しい人にもっと出して欲しかった
もう決める段階ということなので、名前だけ投下して消える
宇文憲(斉王憲)、王琳、賀抜勝、高敖曹

260 : ◆oOLAqFKRB. :2007/02/25(日) 21:27:43 ID:pqSt5D8y0
【劉宋】
 臧貭、魯宗之、沈攸之、柳元景、薛安都(?)、沈慶之、劉誕、劉秀之、
宗越、譚金、呉喜、王宜興、殷孝祖、沈文秀、杜彗度、陳憲。
【南斉】
 柳世隆、垣崇祖、張敬児、陳顕達、王玄載、呂安国、周山図、周盤龍、
王広之、載僧静、焦度、曹虎、蕭景先、王融、張沖、裴叔業、王洪範。
・・・南朝初期の名将・・・というには不足かもしれんがまぁそんな感じの
人たち。梁、陳はあらかた既出なので調べません。つーか余力ないです。まぁ
どいつもこいつも10選に入る器とは違うやろーけど、一応名前だけ紹介。

261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 22:36:00 ID:v6A3yq7p0
>>260
そうなんだよね。
漏れが南朝側から誰か推薦しようかと思ったが諦めた理由は
既に候補に挙がっている人物以外は名将と呼べる程の人物がいないからなんだよな。
それよりもう確定の残り枠を決めていこうか。

262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 23:00:38 ID:v6A3yq7p0
【名前】高洋
【時代】南北朝
【推薦理由】侯景の乱に乗じて梁に出兵し、淮南を奪い、郢州で勝利した。
また西魏と争って江陵を奪った。北伐して、契丹・突厥・柔然など諸民族を破り、宇文泰を撃退してるし、その宇文泰に戦闘の才を褒めそやされた位の人物
また楊[小音]ら学者を任用するなど内外に対して国制を整えた。
酒を好んで奇行が多く淫虐を好み、
非常に才能のある人で、戦闘に強く、落ち着き払って大度ある君主で
『資治通鑑』には、高洋のころ周人つねに斉兵の西出を恐れて冬に河を守って氷を砕いたが、
高湛のとき却って斉人氷を砕いて周兵に備うる」と記される。

高洋の推薦文を挙げてなかったので念のため挙げておくよ。


263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/26(月) 18:53:15 ID:PsqbDDaI0
蘭欽、拓跋 、韋叔裕は確定でいいんじゃないかな
俺は高洋と段ショウに一票

264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/26(月) 23:29:15 ID:ABU0aJ6b0
>>259
宇文憲(斉王憲)
564年北周の尉遅迥と共に洛陽に迫ったが、斛律光に打ち破られている。
570年宇文憲の軍は斛律光に潰滅させられている。
賀抜勝
懐朔鎮を守り、葛栄討伐や北海王元 の平定に従い、
また都督三荊二郢南襄南雍七州諸軍事として梁軍を破っているが
高歓が爾朱氏討伐した時に爾朱仲遠に従って参戦するも高歓に敗れているし

北魏の孝武帝が関中に逃れた際、高歓に対抗しようとして侯景に敗れているし、
後に北還の兵を挙げるも侯景に迎撃され敗退している。
高敖曹
高歓に帰順して爾朱兆を滅ぼした時と
侯景と共に荊州を攻撃、独弧信を敗走させた以外戦績がイマイチ
538年に北周の達奚武に討ち取られているし。
王琳を含め十傑入りは厳しいと思う。

265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 22:05:58 ID:q1p5m1xyO
>>263
韋叔裕は斛律光が確定でないなら、候補以下だろ。

266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:01:44 ID:bMMRctAy0
>>265
斛律光は確定でいいんじゃないのか?
韋叔裕を破っているし。

267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:03:30 ID:M+mKbIQiO
劉裕、
檀道済
韋叡
陳慶之
拓跋 
高歓
宇文泰
蘭欽
段韶
高洋
個人的にはこんなかんじかな
段韶を斛律光に代えてもいいけど


268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:12:43 ID:q21jvMQF0
それを言ったら高歓は韋孝寛に勝てていないし
韋孝寛は策謀で斛律光を殺させている

269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 02:23:59 ID:04g/9RR60
>>268
>策謀で斛律光を殺させている
これは戦績にカウントするの?

270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 02:25:09 ID:fKtxzfX60
普通はされない
斛律光が外れる要因もさっぱり判らない
彼こそ南北朝時代の代表的名将なのに

271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 02:56:06 ID:04g/9RR60
策謀により殺されたのがノーカウントなら
斛律光の確定入りには問題無く決定ということで
まあ>>270の指摘どうり外される要因も見当たらない訳だし

劉裕
檀道済
韋叡
陳慶之
拓跋 
高歓
宇文泰
蘭欽
斛律光
高洋
確定は以上の十人でいいかな?

272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 15:01:21 ID:+3uepBVG0
>>271
高歓の代わりに韋孝寛を入れたらどうか。
高歓、結構負け多いし。
韋孝寛にも負けてる。

273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 20:26:30 ID:3fcOmC6GO
俺も高歓は外したいと思う。
ただ、この時代を象徴する――ということを考えたら入るのかな?とは思った。

274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 21:13:12 ID:01zQ5ORz0
象徴するというのは、その意味によっては宇宙大償軍が欠かせなくなるので、
深く気にしない方がよいのではないでしょうか。

275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 22:25:01 ID:KzlNdH0r0
これは冗談で言うのだが、いっそ選外というか番外で宇宙大将軍枠というのを作って
そこに侯景を入れてしまいましょう。

真面目な話しをすると、>271だったら高歓と宇文泰は外しません?この二人、君主と
してはともかく将帥としては配下の方が上のヤツらが揃っているでしょう。
推薦は、宇文泰の代わりに韋叔裕、高歓の代わりに慕容紹宗か段韶で。
ところで、拓跋って拓跋Zのことでいいのよね?

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 22:40:27 ID:xbugPRMBO
>>275
じゃあ高歓と宇文泰を外し空いた枠は韋叔裕と段韶がいいと思う
慕容紹宗は韋叔裕、段韶より戦績が劣ると思うし
あと俺の場合拓跋 のトウの漢字が変換できないんだ

277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 23:43:32 ID:04g/9RR60
>>275
では宇文泰の代わりに韋叔裕、高歓の代わりに段韶で
漏れも慕容紹宗より段韶の方がいいかと思いますし
>ところで、拓跋って拓跋籌のことでいいのよね?
その通りで漏れはさっき調べるまで字が分からなかったのでそのままコピペしましたw
その上変換も出来ませんでした
だから当て字でご勘弁を・・・

278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 23:56:43 ID:KzlNdH0r0
>>276>>277
えー、別に責めたりしてるわけでなく単に確認のつもりでした。
御気に触ったらすいません。

では現状で
【確定】
劉裕
檀道済
韋叡
陳慶之
拓跋Z
蘭欽
斛律光
高洋

で候補というか確定入りの案として
「高歓・宇文泰」か「韋叔裕・段韶」のどちらか。現在後者が一歩リード
ということでよろし?

279 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/01(木) 00:21:52 ID:QUoF+NEA0
拓跋燾→&#29182;。
&を半角&にしてコピペ。

280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 00:26:16 ID:gn/agLaYO
宇文泰よりか息子の宇文ヨウの方が名将じゃない?

281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 15:26:31 ID:dw40jr3C0
太武帝でいいじゃないか

282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 16:52:12 ID:pAyLpTYCO
>>281
そりゃそうなんだけどそんなこと言うんだったら
劉裕、高歓、宇文泰、高洋も帝号で書いてないじゃん
拓跋燾も名前で書いてあげてもいいだろ?

まあ別に識別付くならどっちでもいいけど

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 21:30:14 ID:f45QL7ME0
>278さん逆に気を使わせて仕舞い恐縮です
◆RQdk7scN8sさん親切にお教えていただきありがとう

>>280
宇文泰と宇文ヨウの置かれた状況が違うので
どちらが将として優っているかは安易に判断出来ないと思う

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 22:46:26 ID:6uCi8qQb0
また動きが停まった?

だいたい二日たって反論異論がほぼ無いということは、>278で
【確定】
劉裕
檀道済
韋叡
陳慶之
拓跋Z
蘭欽
斛律光
高洋
韋叔裕
段韶

でよろしいということで、次の時代へいってよしということでしょうか?

285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 23:08:00 ID:4DSUpOV5O
>>284
俺は異論ないよ
たぶん明日まで待ってても反論異論はないと思うし、次の時代に移ってもいいんと思うよ

286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 23:18:23 ID:scz/XHN9O
難民板の百選スレでも結構中国史の人物について語られてるね

287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 23:20:20 ID:4PzOFmBl0
>284
いいよ

288 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/02(金) 23:20:46 ID:burmEGiJ0
とうとう唐ですか。
あ、しょうもないこと言ったw
とりあえず今日は寝るです。おやすみ。

289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 23:24:37 ID:24u7bz1/0
南北朝は珍しく十人決まったな

隋・唐
【確定組】
 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用
【候補】
 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥
 李孝恭、薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢
 李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬

ここは大体決まってて、あと二人

290 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 23:27:49 ID:Db5pa5BL0
玄奘を推すぞ。
孫悟空等、人外の妖怪どもを見事に束ねる統率力は相当なものw

291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 23:34:54 ID:wQSlDchu0
李孝恭が二人いる件

292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 23:48:04 ID:4DSUpOV5O
唐の時代を二分割にするのはどうだと今更言ったらやっぱ怒られる?
例えば安禄山の乱までを前半、安禄山の乱以後を後半とかこの案ってどうだろ

>>290とっとと消えな

293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 23:58:08 ID:24u7bz1/0
>>291
貼ったあとで気づいた
薛仁貴も二人いるな

294 :290:2007/03/03(土) 00:02:38 ID:Q30jS8ho0
>>292
>>290は軽い冗談。
これぐらいのネタが容認できんようじゃ2ch向きじゃないよ。

それと、君の提案は受け入れられないと思うよ。
今更時代区分を話し合おうとか言うのは、荒らし扱いを受けるだけだろうし。
それと、隋唐は318年間と確かに他に比べて期間は長めではあるけど、
これを2分割するとなると、他に比べて極端に短い期間になるし、
その分のツケが他の時代に回ってくるから、今のままが無難だね。

295 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 00:20:07 ID:FZddzMuM0
しかしつまらん冗談だ

296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 00:29:17 ID:wXoh3GKrO
>>294
冗談なら別にいいんだけどw
いやー南北朝があまりに過疎ってたから思わずキツイ言い方になっちゃった
気を悪くしたらゴメンね


俺の提案は別に却下されてもいいんだけどね
ちょっと聞いてみただけだし

297 :nekoman:2007/03/03(土) 00:30:27 ID:aXgCKWnA0
裏情報アリ

http://www.geocities.jp/ijyuuin3/

298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 04:04:13 ID:QqeTWAqp0
>>279
そういう文字をまとめて辞書に入れられるファイルってどこかにありますか?

299 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/03(土) 15:52:07 ID:Fcn9qi5g0
あれ? すると李孝恭は確定、候補どっちなんだろう…
彼の軍歴は今更言うまでもないと思うけど、簡略にまとめてみようか。

唐国公李淵が長安で即位してより、第一線を二子李世民に政治中枢である中原(河南〜河北)の平定を委ねた。
その一方で、甥である李孝恭を山南道招慰大使として山南道(おおまかに言って蜀の地方)平定に向かわせた。

李孝恭は巴蜀30余州を平定し、次は江陵に拠った南朝梁の末裔を名乗る蕭銑の討伐を上奏し容れられると
趙郡王として水陸12軍を統率してこれを討滅した。
輔公祐の乱が起きると、李靖、李勣らを指揮下に置き討伐に向かった。
後、揚州大都督となり貞観年間に入って礼部尚書、河間王に封じられた。

禁欲的な従兄弟である李世民に比べ、豪奢で派手好み、性格は磊落、女好きで屋敷には100人ほどの歌姫を囲ったとか。
それでいて功績を誇らず、李世民に深く信頼された。

つまり、李世民が北で暴れていた頃、南の経略に走っていたという感じ。

300 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 17:18:57 ID:82O9Tjv20
江南の蕭銑平定は実質李靖がやったようなもんじゃないのかな
李靖のいうこと聞かずに大敗したりしてるし

隋が陳平定したとき楊広が総司令官だったような感じとは違うの?

301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 18:48:09 ID:AFhWOMPC0
>>300のカキコからすると李孝恭は確定というより、候補に入れて
検討した方がよさげですね。

302 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/03(土) 20:26:52 ID:Fcn9qi5g0
いや… たしかに李靖の慎重論を聞かず大敗してはいるが、それで手詰まりになったわけじゃなく、局地的な敗北だと思う。
そのあと、李靖を第一陣に投入して勝ってはいるが、それは司令官と前線との連携がなせる業だと思うけどな。
つまり、李孝恭は本陣で傍観していたわけじゃなく、積極的に戦局の操作をしていたと思える。
李靖はたまたま自身が独立しても、戦局全体を見渡せる才能を持っち、前線にいても視野が広い傑物だったから、我らとしてもその功績をクローズアップしてしまうけどね。
《旧唐書》李靖伝などをみると、李靖一人で勝ったように見えるけど、実際司令官でない以上、動かせる兵力は局地的なものだったとみるな。
李孝恭は自身も用兵に通じ、また諸将を統御できた名将だと考える。

303 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 20:45:45 ID:3sMv+TcS0
李孝恭って前スレじゃ確定組のl流れじゃなかったけ?

304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 21:15:31 ID:snM/lvq60
>>302
局地戦というけど、このスレでは戦術的な手腕が第一でしょ
冉肇則がキ州に来たときも李孝恭は勝てなかったし(李靖が来て勝った)
司令官としてはともかく、単独の指揮官としては疑問が残るんだが

「三軍之任、一以委靖(旧唐書)」とか「軍政一委焉(新唐書)」とあるし、
そもそも蕭銑を討伐する戦略自体も李靖が提出した案だし、
司令官は李孝恭だけど実際は李靖の功績だと見るのも
あながち無理があるわけではないだろう

305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 21:26:58 ID:gcDFhizL0
>>302
李孝恭を名将ではないとは言っていないと思います。
私も、少なくとも候補に挙げられている人物はみなそれぞれ名将と呼ばれるに相応しい
だけの功績と才を持っていると思います。ただ、どこの時代にもいえますがその時代の
十選に挙げられるかどうかとなるとやはり李孝恭は難しいのではないかと。

特に隋末唐初のこの時代は、李世民・李靖・李勣が揃っているからなおさら。

306 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/03(土) 21:51:09 ID:Fcn9qi5g0
>>そもそも蕭銑を討伐する戦略自体も李靖が提出した案

李孝恭伝には「孝恭、蕭銑を平定する策を献じる」とあるけど、李靖伝では李靖が戦略を披露しているみたいね。
これは思うに、作戦会議みたいな感じでの記録じゃないのかな。
李孝恭の提案に李靖が色をつけて、李淵が、それなら二人に任す、という感じで。

あと、「三軍之任、一以委靖」はどう読めばいいのでしょうか?
三軍のうちのひとつを任せた状態なのか、「李靖をもっていっさいを委ねる」なのかで意味も違うのだけど…

李靖はそもそも10人に絞っても残る名将なんで、それにケチつける気はさらさらないから、李孝恭は候補どまりでいいですよ。

>>戦術的な手腕が第一
あと、その戦術手腕で領土の拡大に貢献している、とかでしたっけ?だから張須陀が候補に落ちたんでしたっけ。


307 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 20:07:32 ID:q6rdJn940
李靖が凄いのは分かるけど、どう凄いの?

308 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 20:28:07 ID:7f+9JYtQ0
曹操は1000年に一人の傑物と評されてるのは間違いだってこと?

309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 20:49:44 ID:UDfv5+Cv0
王玄策は候補に入りませんか

310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 21:43:47 ID:GmgU+Z2QO
>>308
曹操ってそんな評価されてんの?

311 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/04(日) 21:45:27 ID:qKnmk28C0
隋・唐
【確定組】
楊素、李世民、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用

この線でいくと、あと3人枠ありますね。
叛将・安録山を推しておきましょうか。
雜胡ですが、唐の将として北に鎮しましたから、中国武将でいいはずですよね。

唐の范陽節度使張守珪の将校となり武勲を重ね、范陽、平廬、河東の三節度使を兼務しやがて楊国忠討伐を大義名分として兵を挙げた。

安録山は契丹や奚ら遊牧騎馬民をよく統御し、河北の平原を疾駆したが、唐側の軍隊はそれに比べると醜態というしかなかった。
西域で武勲のある将、封常清や高仙之らが迎撃として出たが、名将の誉れ高い両者をしても、安録山の神速には対応できず、ついには潼関まで戦線を後退させてしまった。
潼関に安録山でも一目を置く歴戦の将、哥舒翰が出てくると、一時膠着はした。しかし安録山の挑発と楊国忠の催促で歩騎8万で出撃した哥舒翰が、大敗を喫することになり、これをもって唐と安録山のパワーバランスは大きく傾いた。
この時点で、河北の回復に走っていた郭子儀や李光弼らも、これといった戦果を得られぬまま軍を退かざるを得なかった。
安録山は彼の軍が長安を占拠した時点で、洛陽で息子に殺されるに至る。

この後安録山軍は安慶緒によって安陽で陣を立て直し、史思明の強襲によって郭子儀率いる20万の唐軍を撃滅した。
史思明の戦勝は、唐帝国から河朔の三鎮という独立国を現出させるに至る歴史的契機でもあった。

312 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 23:23:32 ID:QnjamvcD0
安録山ではなく、安禄山な。
確定組の決定には賛成。
隋・唐は少し期間が長いので、次点を少し多めに出した方がいいと思うけど。
ただ、自分は安禄山は不適格だと思う。
理由は@契丹との戦いで確認できる限り、三度敗北している。
   A唐軍との戦いで自分で指揮していない。また、戦略ミスも何度も犯している
要領の良さで出世した面が多く、名将とはいえないような。

それよりも、安禄山軍を実質的に指揮し、勝利を重ね、李光弼との敗北から立ち直り、
五万で、郭子儀率いる二十万(六十万とも)を安陽城北で破った史思明を推す。
その後も唐軍を何度も破り、洛陽をとり、李光弼らを破り、再び潼関に迫ったところで
息子に殺された。野戦においては当代最強だったと思う。

313 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/04(日) 23:50:00 ID:qKnmk28C0
ふむ。
完全に間違えて単語登録してましたorz
自分もしばしば他人の間違いを指摘しているのに、かっこの悪いことで。
訂正さんくす。

>>史思明を推す

それ。ただ、安禄山の武勲が先に光ったということで、そっちに重きを置いただけ。
>>311の文章は、安禄山を推すのか、史思明を推すのかわからん文章になってると自分でも思うところ。

314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 01:43:01 ID:C5+C6SWF0
前前スレが見られないから、確定組が確定されてる理由が分からんです
誰かdatうpしてくれるとありがたい

315 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 04:54:40 ID:lMj5u9670
ttp://mimizun.com:81/log/2ch/chinahero/hobby8.2ch.net/chinahero/kako/1163/11634/1163478374.dat

これでよければ
630あたりから

316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 05:00:13 ID:lMj5u9670
↑うまく見れないときはブラウザにurlコピペしてみてくれ

317 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 06:10:11 ID:Lc3zvo3uO
史思明を入れると、郭子儀じゃなくて李光弼じゃないか?って気もしてくる。

318 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 21:39:48 ID:qEKiXqb70
>>307
南でも北でも勝った。というか、どこでも勝った



319 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 21:52:56 ID:K1MTzoEcO
参考程度に歴史難民板より、中国人が考えたらしい中国の名将十傑


489:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/03/05(月) 20:27:01 [sage] >>488
いくつかあるよ
いろんな人が考えてるみたいだし

孫武、呉起、白起、韓信、衛青、霍去病、曹操、李靖、岳飛、徐達とか
孫ピン、李牧、項羽、衛青、霍去病、班超、周瑜、韋叡、郭子儀、徐達とか

衛青や霍去病が入ってないのもある
田単、廉頗、韓信、李広、霍去病、李靖、郭子儀、狄青、岳飛、戚継光とか
孫武、項羽、曹操、陳慶之、李靖、岳飛、郭侃、鄭成功、劉永福、林彪とか
孫武、呉起、韓信、劉秀、曹操、陳慶之、李靖、李世民、柴栄、岳飛とか

まあ中国といっても選者によってまちまちだと言うことだな

320 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/05(月) 22:09:39 ID:8NrPkVKk0
>>319 う〜ん、本場といってもウチらのとそう変わらんね。
もっと、「誰やねんそれ!?」みたいなのを期待したけど…
もしやこっちの電波が向こうに飛んだか…?

中国の英雄(名将じゃなく)で、よく李元覇と宇文成都が出てくるけど、これこそ誰それ?状態。

321 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 00:05:22 ID:seVIsd5G0
>>319
下から2番めの後半はハァ?だけど、それ以外はまあ妥当かなぁ。
曹操って向こうでも結構評価高いんだな。

322 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 00:47:29 ID:Dd/qPYlQ0
純漢民族しか居ないのな

323 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 14:37:49 ID:BySVCrkn0
李世民は拓跋系じゃなかったっけ?
異民族が中原で活躍した五胡十六国〜南北朝は、内政がドロドロなんで避けるのは分かるがね。

324 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 17:31:42 ID:XbZvOGhd0
中国の人でも五胡十六国とかよく知らないんじゃないだろうか

325 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 19:30:39 ID:i4hyI6LN0
しかしこの時代は名将が多いな。さすがは大唐帝国。
李密や劉黒闥、薛仁貴、蘇烈、高仙芝、黄巣すら落選の可能性が高いとは
次点を4〜6人ほど選んだ方がいいと思う。たぶん、他の時代の十位や論争中の連中を
喰ってしまうだろうから

326 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/06(火) 20:03:25 ID:cveWfxUt0
>>325
でも、難民板の世界名将スレで、唐の建国期が評価低いのには驚いた。
西漢や東漢、北宋、明とかに比べると、恵まれた状況だった… をいをい。

隋末の煬帝によるポイ捨て政治のせいで、どれほどの群盗が世を覆ったかを知る必要があるでしょうにね。
記録的な賊集団が発生したわけで、いかに貴族筋の李家といえども恵まれたとは言えにくい。
まぁ、群盗の大半を張須陀が篩いにかけたのは、ラッキーだったかも知れん…(裏を返せば弱いのが淘汰されて強いのが残ったということだけど)

327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 20:04:31 ID:isX8FWzD0
候補に挙がってる武将達をみても。そうそうたるメンツが揃ってるね
この時代は10選に絞ろうとすると、荒れるだけになりそうだ

328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 20:18:00 ID:isX8FWzD0
>>326
唐が恵まれてると主張してる方は
宋が恵まれてるという主張に反発して、意固地になっただけかと


329 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 20:24:37 ID:tbffO1UbO
李孝恭が確定ならずって、どんだけレベルが高いんだよ!?って話だよ。
本来なら確定で良いはずなのに、それだと10人じゃ収まらない。

330 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/06(火) 20:28:15 ID:cveWfxUt0
>>328 うん… それも読み取れたけど、趙匡胤はともかく「宋」は勢いに乗れたのは間違いないと思う。
趙匡胤自身は彼の個性で問題を解決したからすごいんだと思う。
恵まれているとすれば、実質的な建国者である弟・趙匡義の方だろうか…

って、今は唐の話をしないとね。

331 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 20:56:32 ID:Dd/qPYlQ0
お前、アッチはアッチ、コッチはコッチだろ

332 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 21:54:02 ID:hgMTZV850
>>325さんに同意
自分も劉黒闥、高仙芝、黄巣やあと賀若弼も落選のさせるには惜しいと思うし
次点を4〜6人ほど選んだ方がいいと思いますが…
>>327さんや>>329さんの様な意見も出てるしダメなんですかねこの提案って?

つーか李靖 、李勣、李克用が何げに凄すぎ…

333 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 21:58:52 ID:omxTkcs30
隋だとやっぱり楊素の次は賀若弼になるのかね
隋初四大名将は楊素>賀若弼≧韓擒虎>史万歳って感じなのかな

334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 22:12:36 ID:Dd/qPYlQ0
アレも入れたいコレも入れたいは別に隋唐に限った事じゃないから
大人しく10人選んだ方がいいと思うけどね
この時代が人気あるのは判るけど

335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 22:12:50 ID:RDq2SjdX0
次点を出すのは別にいいけれど。それを他の時代で枠があいたからその分をここ
から補充しよう、なんて言いださなければ。

つか、「外すには惜しい名将」はこれまでにもいたのだがそれはどうするんだ?
戻って次点のメンバー選出からやり直すのか?どうしてこの時代だけそう特別
扱いにするんだ?(時期が他と比べて長いというのはたしかにあるが)

336 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/06(火) 22:38:01 ID:cveWfxUt0
>>どうしてこの時代だけそう特別 扱いにするんだ?

南北朝期に比べて、まだ拠り所とできる日本語の資料が多いからでしょ。
だからこそ、辛い選考でいく必要があるのだろうが…

今、候補というのが次点のような役割しているようだし、今までどおり10人あるいは一枠空けで選出するほうが公平だわな。
確定以外の将を語るのも別に構わんし、候補内での格付けをやっても面白いだろうなぁ。

337 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 22:47:06 ID:2nAue8SaO
>>326
前王朝の暴政と群盗大量発生なんて
大抵の王朝建設期のデフォルトで唐を特別扱いする理由にはならんだろう
同じように李孝存や黄巣みたいな建国の功臣や賊ってのは
他の時代にも居て、彼らも十選に当確したり漏れたりしてる
何をもって唐だけ特別扱いするのだろうか?
日本語資料の多さと世界帝国っていう看板かしらねぇ

338 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 22:59:21 ID:hgMTZV850
>>336
さすがは隋唐の重鎮◆RQdk7scN8sさんの意見は説得力あるなぁ〜
(ほかの諸兄が説得力無いという意味ではないですよ念のため)
>>332で述べた意見は戯言だと聞き流してくれればいいです…

339 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/06(火) 23:24:58 ID:cveWfxUt0
>>337 記録的に200の群盗というのは尋常ではないのだが…
言いたいのは、太原李氏が劉邦や劉秀、趙匡胤、朱元璋などより楽をしたなどとは思えない、ということ。
別に特別扱いする気はない、他の人も含めて理解度が深いだけだろうと思うが。


340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 23:33:51 ID:2nAue8SaO
趙匡胤は勢いに乗った
って言ったくせに矛盾してない?

341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 23:36:11 ID:tbffO1UbO
劉黒闥は外しても良いかなと思う。
智と勇では勇に傾き、知勇兼備の名将足り得ず――と思うんだが。

李世民に敗れており、可能性があるだけとはいえ、
確定組と等しく比べるのはおこがましいと思う。

史臣曰く
(劉)黒闥は勇猛なれど知謀に欠け、その作戦のあとを見ると、ただの凶賊にすぎない。
言いえて妙だと思うんだが。

劉黒闥より李孝恭じゃない?

この時代を隋末唐初、安史の乱、黄巣の乱に分けるのなら、
隋末唐初の群雄を代表して、劉黒闥を入れるのはやぶさかではないが。

342 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/07(水) 00:02:14 ID:e3GpkCVY0
>>340 趙匡胤個人でなく、宋という国、民衆、世論といったものが、柴栄の作り出した流れに乗っているといったのだけど。
矛盾とは、何を指してかな? ちょっと自分で気づいていないかもしれん…

>>341 ツガンですか。司馬さんは辛口ですねw
後漢のときと一緒で、唐建国期には名将が多かった。それは下手をすると光武二十八将より質がいいかもしれないくらい。
李世民自身も光武帝のことは意識しているし。
選定が唐建国功臣よりになるのも仕方ない部分もあったりして。

343 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 00:06:52 ID:7F5gjT7c0
つーか唐宋の比較論はスレ違いだからいいって
よそはよそ、うちはうちってさっきから言ってるだろうが

344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 00:12:45 ID:1v8394Wz0
>>どうしてこの時代だけそう特別 扱いにするんだ?

そうは言うけどね。
春秋戦国の候補   士会、魏無忌(信陵君)、趙の武霊王  
統一秦〜前漢の候補 章邯(確定・実質九位)、劉邦、曹参、彭越、鄭吉
新・後漢の候補   岑彭、周瑜

時代が違うとはいえ、 李密、薛仁貴、蘇烈、高仙芝、黄巣を比較したら、後者の方に
入れる人は多くと思う。上記で比較的評価の高い岑彭、周瑜ですら、高仙芝と比較した
らかなり迷う。章邯となら、高仙芝を間違いなく推す。
その高仙芝はこの時代では十五位すら怪しいのにこれでは不公平と感じる。
年数も長いこの時代。戦争ばかりしていた三国・両晋や南北朝はともかく、
最後に百人に絞る際に落ちるであろう決定打に欠ける上記の時代の人物よりも
この時代からその枠をもらった方がよいのではという提案。
日本語資料も多いのに、長い論争で決着できなかった上記の人物たち。
その真の理由は彼らが真の『名将』かという疑問だろう。
これからの時代は名将は絞られる作業になると思われる。さすがに枠はもらえないだろう
どんぐりの背比べで論争するよりも、一層、全員を外し、この時代から選んだ方が
かえって公平な気がするのだが。


345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 00:17:20 ID:7F5gjT7c0
高仙芝、二回も負けてるし、パミール越えは凄いけどそこまで強く推すのは贔屓が過ぎると思うが

346 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/07(水) 00:45:55 ID:e3GpkCVY0
高仙之って、どっちかって言うと「歴史的敗北」で有名だから、そもそも慮外だった。
統率力もあり、唐朝廷が頼りにもしたけど、郭子儀や李光弼らに比べると落ちる。
周瑜との比較で迷う点と、章邯なら上を行くというあたりが、どうしてそう思うのかそこをちょいと説明くれるとありがたいのだけど。

347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 06:57:00 ID:PND51no80
>>346 同意
>周瑜との比較で迷う点と、章邯なら上を行くというあたりが、
どうしてそう思うのかそこをちょいと説明くれるとありがたいのだけど。
自分もその根拠はぜひ伺いたい

>高仙芝はこの時代では十五位すら怪しい、>章邯(確定・実質九位)
序列なんてあったの?知らんかった…


348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 06:58:06 ID:pYcAyDbx0
元から時代の枠ごとに10人と決めてるのだから、今更変更もできないでしょ。
統一秦〜前漢や新・後漢なんかは、枠の人数を減らしても良いかと思って
いたけど、そういう前提で選定したわけでもない。

349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 07:05:11 ID:Lrq96hFX0
>>344
時代が違いすぎると比較は難しい。何を持って上下を決めるかといえば、それはもう
選者の印象でしかなくなるだろう。そして印象を左右するのは史料の質量による。

逆にいえば、単に唐以降は史料が多いから古代よりも強い印象が残っているという
だけかもしれない。

仮に枠がいくつか空いたとして、どうして他の宋や明や清の時代で惜しくも外れた
名将を持ってこずに、この時代からもってくるべきだと主張するんだ?それがもう
すでにひいきというか特別扱いになっていることを自覚して欲しい。
その意味で
>どんぐりの背比べで論争するよりも、一層、全員を外し、この時代から選んだ方がかえって公平な気がするのだが。
むしろこの方が不公平だよ。

350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 01:10:52 ID:5geVca4R0
とりあえず話進めようぜ

351 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 10:41:50 ID:olYGJQXK0
そうですね「この時代で10人」ということで。

納得いかない人は「隋唐の名将を語るスレ」とか新しくたててそちらでどうぞ。

隋からはやはり楊素。もうひとり入れるなら功績で賀若弼、戦術能力で張須陀。
唐建国期は李世民、李靖、李勣でほぼ確定。もう一人入れるならいっそ李建成。
対異民族戦では裴行倹と蘇定方。安史の乱では乱側で史思明、朝廷側で郭子儀。
末期は李克用。黄巣はかなり負けが多くて戦術能力は疑問。

自分の推薦する十選はこんな感じですね。

352 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 11:08:42 ID:v59T0RMR0
支那は総人口数千万規模の文明圏。
で兵役人口の寄生割合は1〜3%(アジアでは3%が最大らしい)で、
支那の場合は十万〜百万の間で変動することになる。
士官、下士官、兵隊の割合を1:100:400とすると、
十万規模の軍隊では士官200、下士官2万、兵隊8万となる。

マトモに考えると、士官のほぼ全てが士大夫のみで構成されるだろう。
戦功だけで下士官から士官に叩き上げされるには余程の猛者でないと有り得ない。
そのうち、士官200が司令官候補な訳であるが、
登用には派閥の論理が絡むので、士大夫出身の士官でもなるだけで大変だと言える。
そこから奇功を建てて青史に名を残すなどちょっとした奇跡ではなかろうか?

353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 11:46:30 ID:UkrcJ53E0
>>352
それは平時のことであって、
このすれで多く語られる戦乱期では
下克上とか身分を越えた出世とか結構出てくるもんじゃないか?
劉邦や朱元璋なんてその典型だろ。

354 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/08(木) 11:55:59 ID:IrKClpye0
>>351
「隋唐の名将を語るスレ」
いいなぁ、ソレ。需要があるかどうかは微妙だが。

李建成はもちろん悪いわけはないんだが、記録が抹消(w)されている上に、どちらかというと(皇太子ということで)重鎮的な立場がより強いと考えますよ。
それはこのスレ的には選定基準外になるわけで。
あと分裂したとは言え、李世民(遠征軍指揮官は李靖)が突厥を滅ぼしちゃったもんだから、相対的に見るとね。
政治的手腕、統治能力、はそれぞれ高いだろうとは思うが…

>>352 府兵制で得た最大兵数は全国で60万とか。
士大夫、というか貴族、官僚の子弟であり、恩蔭での抜擢を除く科挙生らはあまり要職にはつけなかった。
ただし、下級士官クラスなら府兵制による徴兵で兵士となった良民でも、手柄を挙げれば昇進できる可能性はあったのじゃないかと言われている。

>>奇功を建てて青史に名を残すなどちょっとした奇跡
唐人でそういうのは少なかろう(すぐに確認できないけど、いたら教えてください)。
しかし、中唐から末にかけて、やたら元外国籍の人らが活躍する。
それは、一面において彼らの勇猛さが桁違いだったからということなのだろう。

そこいくと、史思明は確定入りとしようか。
自分では安禄山と史思明はセット的な見方だったが。

355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 14:18:46 ID:ULab5LN50
◆RQdk7scN8sさん「隋唐の名将を語るスレ」ですが
需要があるかどうかは微妙でも思い切って立ててみたら?
あとは自分でてこ入れすれば人気ある時代だし盛り上ると思いますけどね


356 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 15:16:27 ID:cpCNYKEi0
□ □大唐英雄列伝□ □
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1161817972/l50

隋唐時代を深く掘り下げて語りたい人は上記のスレをどうぞ。

357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 18:39:16 ID:+IEhbuKi0
344だが。
自分の意見は多くの賛同を得られなかったみたいだね。327,329、332
など声は小さいけれど、同意見の人もいたので主張してみたのだが。
これ以上言うと荒らしになるのでもう論議は不要だけども
自分が主張した根拠は
1 隋唐は世界帝国なので戦線が広く、異民族との戦いが多い。平時でも戦争が多く、
  名将が生まれやすい。中華文明が狭かった春秋戦国、北方以外は比較的平和が
  続いた前漢・後漢、比較的戦線が狭い宋よりも名将が多くなると解釈
2 よく言われるがこの時代がとりわけ年数が多い。1もあいまって目立つ。

 贔屓はあるかも知れないが、けっして日本語資料が多いからだけではない。



358 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 18:40:55 ID:QbrBLsBo0
春秋戦国時代の候補に孫武が入ってるのは何故?
具体的にどのような活躍をしたのかって記録が他の候補並に残ってた?
「孫子」が有名だけど将軍としての具体的な実績は不詳、だと思ってたんだけど。
同時代、あるいは戦国時代の人々に名将扱いされているから、ということでもないだろうし。
候補入りの理由が「孫子」の作者だから、というのもおかしいし。
優れた理論家=優れた将軍では無いだろうから。

359 :357:2007/03/08(木) 18:45:24 ID:+IEhbuKi0
高仙芝の件は確かに比較は困難なのだが、パミール越えはある意味、岑彭のエピソード
に似ていると思った。前者は電撃作戦で戦わずして勝ち、後者は勝利をあげ続けた。
高仙芝は確かにタラス川に負けたが、功を全てに失ったわけではない。タラスまで
唐の支配地域を伸ばしただけでもすごいと思う。岑彭も暗殺されたが功を失ったわけでは
ない。だから、似ていると思ったし、『迷う』と言った。
章邯に勝ると見たのは章邯は項羽に破れた後、色々あったがあっさり降伏している。
高仙芝は安禄山軍手強しとみて戦略的撤退を行っている。その後、処刑されたが
潼関を安禄山軍に明け渡していない。目的達成能力では高仙芝が上と見た。
あくまで唐の将として最善を尽くした。章邯はそうではない。

ただ、自分は高仙芝をそこまで買ってはいない。タラス川はやはり痛い。
この時代確定の7人はもちろん、賀若弼、李密、劉黒闥、薛仁貴、黄巣、
蘇烈、李光弼、史思明とあがっていないが王忠嗣、李晟、王世充を
高仙芝より先にあげる。
(十五位というのはそういう意味、あくまで優先順位)
これはあまりにあまりと思ったから提案してみた。だめなら仕方ない。

360 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 19:58:28 ID:ULab5LN50
>>359
高仙芝と岑彭は似ていても立ち置かれた状況とかが違うんだし
どっちが勝りどっちが劣るって決めることなど不可能に近いと思うが…
(これはあくまで俺の持論なのだが)
>章邯に勝ると見たのは章邯は項羽に破れた後、色々あったがあっさり降伏している。
章邯は正規の兵も与えられず、自力で軍を素人から育て上げ
項羽たちと渡り合ったんだし、要請したにも関わらず援軍を送って貰えなかったから
部下の命を救う為に止むなく降ったのは同じ負けでも評価に値する行動だと思うけど
君は高仙芝はあくまで唐の将として最善を尽くした。章邯はそうではない。
と言ってるが君は章邯のことをちゃんと知っているのか?
失礼だがとてもそうは見えないけど…

>>356
ありゃー既に適切なスレ立っていたのか・・・orz


361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 20:25:49 ID:olYGJQXK0
>>357
期間はともかく、領域でいったら清を超える王朝はない。国内が平和でも戦線では
戦いは続いていたのだからそれだけ名将もたくさんいる。
というわけで、清の時代で次点を4〜6人だして、他の時代で余り枠がでたらここ
から補充しましょう。

―こう主張したら、あなた納得して受け入れますか?同じように候補者も多くでる
ことが予想できるので外れる将もまた多くでてくるであろう、宋や元や明の時代の
ファンの人たちも納得しますかね?

362 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 20:46:42 ID:jWrkowGM0
まぁ今のままだと南北朝が極端に優遇されてるなw

363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 21:38:36 ID:+IEhbuKi0
このまま大人しく引き下がろうと思ったが。
360と361の言い方、なんか腹立つな。
その件はいいって言っているのに。
大体、結論からやりこめようとしているだろ?
361だが、自分がいいたいのは根本は期間の差だ。自分以外にも期間に不満を持つもの
がいたろ? 
また、もし、そういう意見をいうものがいたら、少なくとも耳を傾ける価値はある。
余り枠は決定打のない武将になりがちだと自分は思ったから言っただけだ。

360だが、君こそ章邯のことを知っているのか? その兵士を項羽に殺されても
のうのうとその部下に収まり、項羽の先駆となった。
元は秦の将でありながら、項羽の略奪を止められず、秦人を守れなかった。
援軍を要請したとあるが、その秦は劉邦に本拠地をとられるほど弱っていたのだ。
様々な要因があるとはいえ、その秦が援軍など送れるはずもない。
それに武門・王離配下は秦直属部隊であったのではないか。(王離は趙に派遣されたとある)
国運を託され、破れ、秦をつけねらう敵に自らの兵力を提供する。
そしてその兵を守れず、民も守れず、項羽の犬となり、秦に比較的善政をひいた
劉邦に命をかけて敵対する。なにが兵のためだ。この時の兵こそ犬死ではないか
別に章邯の人格をどうこういう気はない。歴史書にない事情もあるだろう。
だが、章邯が受けた命令はなんだ? 「秦を守れ」だろ? 国も兵も民も秦だ。
この実行に全力を尽くさず、何が名将か。
対して高仙芝はどうだ。別に高句麗人である彼はそこまで唐に義理はなかったはずだ。
安禄山軍に降伏する選択肢もあったはず。
彼の率いた兵はあのときは訓練をされていなかった兵だ。章邯とそう変わらない。
撤退すれば敗北ととられる可能性も知らなかったはずはない。
だが、いたずらに戦わず兵を無駄死にさせず、処刑が決まった時でも使者を
切り安禄山軍に降伏しなかった。
これも様々な要因があるだろう。自分もただ誉めることはしない。
だが、彼は「唐を守った」。兵も殺していない、潼関を守れば長安を危険に
さらすことはない。民と国を守った。

この考えのどこが愚かだ。360。簡単に人を無知と決めつけるな。自分より愚かと
思い、侮辱するな。これ以上はこの話はしない。
高仙芝と岑彭は上下をつけようがあるまい。当たり前だ。だが、それならこの企画は
成り立たないだろう。勝手に我々が決めているだけだ。
ただ、 高仙芝と岑彭の最期に歴史書は悲嘆し、章邯の最期には字数を割かない。それだけだ。


364 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 21:51:00 ID:ULab5LN50
なんだよせっかく>>351が流れを元に戻してくれて論議再開してたのに
>>357が話を蒸し返す様なことするからまたおかしな流れになってるじゃないか!!!
いい加減空気嫁!!!
その上>>358みたいなトンチンカンな奴まで現われて来たじゃないかよ


>>358は前スレをちゃんと確認しろ推薦文も挙がってるし確定の経緯も分かるはず
孫武は呉の兵法指南役兼呉の将軍だ
理論家としての顔はあくまで孫武の一面に過ぎない、
優れた将軍としてもしっかりと功績を残している。
優れた理論家=優れた将軍だとは君以外に誰も思ってなどいないはず
章邯や孫武のこと詳しく知りもしないのに知ったか振りしないでほしい…

365 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 22:27:13 ID:FEueH56+0
どこ縦読み?

366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 22:51:06 ID:QbrBLsBo0
>>364
前スレのログが見れないから聞いたんだよ。
具体的なレス部分をコピペしてくれると嬉しい。

367 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 23:42:28 ID:+IEhbuKi0
>>366
ほれよ。2スレ目からだぞ

547 : ◆oOLAqFKRB. :2007/01/21(日) 06:45:58 ID:OFEn38vU0
これまで伍子胥を推してたわけだが、
孫武と伍子胥はどっちかに一本化したほうが有利かも分からんね。
俺はエピソード的に伍子胥の肩持ちなんだけど、総じてみると自ら軍事理論を構築し、
実戦でそれを証明して見せた孫武に託したほうがいい気がしてきた。
伍子胥は夫差を諌めすぎて自刎させられてるし、孫武はその辺どうなんやろ? 身を全うしたのかな?

549 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/21(日) 09:46:12 ID:QYD6D4jYO
>>547
>孫武は〜身を全うしたのかな?
孫武は空気を読み、平和的に隠遁し、太湖のほとりあたりで静かな余生を送り、
兵法書を纏め上げたのだろうと推測してる専門家もいるけどね!!
俺もそうじゃないかなと思うな。
史記には「呉が、西方の雄、楚を破り、北は斉や晋を脅かし、
天下に名をとどろかせたのは、孫武の働きによるところが大きい」と記されてるし、
事実、江陵にあった楚の都を陥落させてる。
それを考慮して俺も伍子胥より孫武を推すよ。
あの情勢を読む鋭さ、優れた統率力と戦略戦術は侮れないものがあるし。

550 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/21(日) 10:25:32 ID:xxt+W++A0
孫武と伍子胥について補足
楚の荘王が、近隣の小勢力を吸収して確立した
版図を(その勢力から云っても凄い功績ではある)
それまで歴史上で名前すら出てこなかった小国が
滅亡寸前まで追い込んだわけで、楚の荘王より
功績で上回ると思う。

553 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/21(日) 12:53:07 ID:HsOq6oJZ0
孫武は確定でいいんじゃない?
あとは楚の荘王(熊侶)樗里疾、武霊王、王賁、蒙武、
李信、魏ゼン、秦の繆公、士会を推す人がいるし、審議中という感じか?
魏無忌(信陵君)、趙奢は一発屋だという意見も出てる。
俺も魏無忌(信陵君)が名将?と前スレから思ってた、任侠を貫いた人物としては高く評価するが・・・

555 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/21(日) 14:13:18 ID:xxt+W++A0
墨子は、個人的には軍を率いた将っていう気がしないなあ。

孫武が確定で、残り3名だとして、中では、楚の荘王が一番、有力
だと思う。
それと秦将を推薦してる人は、候補に挙がってる秦将の功績を
格付け(というか順位づけ)してくれないだろうか。


368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 00:08:48 ID:inH4ZC020
で、流れを変えた戦犯にはされたくないので、残り三人をあげる。
(とりあえずこの時代10名選出には納得した。侮辱に我慢ならないだけだ
 章邯のことを話したいならそちらこそ他スレにしてくれ)

自分は群雄代表で李密。(王世充は与えられた兵力が大きい。劉黒闥は戦略性で疑問)
安史の乱で史思明(局地戦は李光弼の勝ちだが、最終的に河北を平定。
圧倒的大軍の郭子儀に勝利して、洛陽攻略。その後、李光弼と僕固懐恩も破っている。
総合的に李光弼より上と判断)
後は、時代ごとのバランスで玄宗期の王忠嗣、もしくは中唐の人物をあげたい。
まあこんなところか。

369 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 00:17:57 ID:Qh73rxWv0
368さんは2ちゃんには向かない気がする・・・
自分で別スレ立てるか、ブログでも立ち上げるかして
思想の近い人とだけ会話してる方がいいんじゃないかね

370 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 00:38:13 ID:CBALEPjR0
前スレでも似たような流れになったよな
やっぱ世界史板から流れてきた人も多いから2ch耐性弱い人も
中英板には多いんだろうか

371 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/09(金) 00:39:49 ID:M0sjbDro0
>>360 提案、感謝ですが、その「大唐」スレにも出入中でして…
「五代」スレもあるし。 どっちも閑散としてますので、これ以上似たスレ立てるのはマズイでしょうねぇ。

ええと、高仙芝のことで紛糾したみたいですが、その人物比較は自由討論ということで、見守るとして。
時代区分にしても、異論はあれど今はこれがより公平であろうと考えますので、以下続行で。

>>368 もう納得済みということだけど、言いたいことはよくわかる。期間が長い方が将の密度が多いということなのではないでしょうか?

李密は前スレでもいろいろあったけど、結局確定は見送りになったはずです(自分は好きなんですがねぇ。ログ持ってる人に任せます)。
中唐では李愬でしょうね。いちいち数え上げるのがめんどくさくなる討伐に奔走して過労死状態ではありますが、中興の勲臣でしょう。

372 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 00:47:17 ID:SWHjEcoY0
期間の話は、これ以上いじらないと前提で、前スレから各時代の名将を
選定してるわけだから、全時代で一区切り付くまで、その話は凍結してお
いた方がよかろう。
大体において春秋戦国時代は期間が長いぞ。

まあ、それはさておいて随唐時代の選定作業ドゾー



373 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 01:53:49 ID:MUFo0Lw40
>>360が自分で侮辱するような言葉吐いて>>357を挑発しておきながら
>>364の発言

すげえなw

374 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 09:29:55 ID:kkBurQQ90
ID:inH4ZC020氏の選定における信念は>>363の解説で理解できた。
その主張も妥当なものだと思われる。
しかし、それほど見識の深いお方が、
このような場末のスレの小僧に少々煽られただけで、憤色を露わにするのは如何なものかと思う。
世間の隅々までを良識で満たすことは出来ないのだ。

375 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 11:29:03 ID:CJCKqNxR0
>>367
thx
個人的にはそのレスだけだとやっぱり当確までには至らないんだけどな。

>「呉が、西方の雄、楚を破り、北は斉や晋を脅かし、
>天下に名をとどろかせたのは、孫武の働きによるところが大きい」
少なくともこの一文だけでは判断し難い。具体的にどれくらいのことをやったわけ?と。
あやふやだけど凄そうって人物よりは、それよりちょっと小粒だけど確定してる人物を優先したい、と考える。

>あの情勢を読む鋭さ、優れた統率力と戦略戦術は侮れないものがあるし。
ここがいま一つ分からない。そんなに具体的に能力が推し量れるエピソードが有ったっけ?


とはいえ、このレスがされた当時強い反発も無く
スムーズに当確扱いされたんだったら今更ケチをつけてもしょうがないんだけどもね。

あとなんで章邯の話が出てるのかは分からない。

376 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 18:48:36 ID:yOqJb11G0
>>374
場末ってw
一応、中英板では一番需要のあるスレですよw
最近はちょい過疎気味で、スレが荒れてはいるが。

嗚呼、春秋戦国を語っていたころの勢いが今は懐かしい・・・

377 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 19:34:36 ID:iML0zlPXO
>>376
>最近はちょい過疎気味で、スレが荒れてはいるが。
>嗚呼、春秋戦国を語っていたころの勢いが今は懐かしい・・・
わかりますよその気持ち・・・
でも隋唐のみなさんは熱く語っているようにと思います

あと◆oOLAqFKRB氏がいないと盛り上がりに欠けると思うのは俺だけか?


378 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 20:29:08 ID:Ltm5+/9aO
過疎ってるとは思えんが……

379 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 20:38:24 ID:CBALEPjR0
対立候補でそれぞれ推し合う展開になれば勢いが出るけど
それは同一人物が沢山レスしてるからで
人口自体は変わってないだろう

380 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/09(金) 21:39:25 ID:M0sjbDro0
ええと…
岩城氏にはご出陣願いたいものです。忙しいのだろうか?

隋・唐
【確定組】
楊素、李世民、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用

で行くとして、史思明、および李愬あたりを確定に入れようと思うんだが。

李愬は父・李晟が北衙禁軍の将としての功臣ということもあり、名門および武門の子として、中唐以降反乱の激しかった節度使討伐の大将となった。
蔡州が乱を起こし、朝廷の派遣した討伐軍が敗れたので、李愬が起用され、蔡州討伐にのりだした。
負け続きだった兵士たちはすっかり士気を落としていたが、李愬は兵を大事にすることでその士気を鼓舞した。
蔡州討伐に向かい、敵の部将を投降させ内情を探った上で、豪雪のなかを強行軍して陥落させた。
功績により鳳翔節度使を任されるが、青州平廬軍の反乱に際し、その討伐軍の大将となることを上奏し徐州に移鎮した。
徐州から討伐軍を出動させ、青州に至るまで、反乱軍と11戦しことごとく勝利、50の将帥を擒え、青州を平定した。
のち、魏博の田氏が移鎮を命じられると、李愬が魏博を任されることとなった。
しかし李愬は、これから河朔三鎮の仕置きに向かうというところで病没してしまう。

ちなみに…
蔡州淮西節度使と青州平廬軍節度使は、安史の乱よりの独立国であり、唐の徳宗のおり朱泚の乱などで朝廷が揺らいだとき、反唐を表明していた。
李愬は唐憲宗の中興時代に、この河南にあって指折りの問題児たる両藩鎮を討伐し
それによって汴州の帰順の契機ともなったので、ほぼ順地化させることに成功している。
春秋時代でいうところの、蔡国と斉国を平定したに近い(←オーバーか)。

381 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 21:52:28 ID:aQdV8vtb0
曹操は?

382 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 22:12:56 ID:SWHjEcoY0
誰か張須陀の史実上の功績を教えてくれないだろうか。
確定に入れたいわけじゃないけど、演義ベースで個人的に
好きだからという理由なんだけれどもね。

383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 23:30:05 ID:S1GLs9BS0
横槍で申し訳ないが>>375への回答
孫武は兵法の手腕を発揮して3万の軍を率いて20万の楚軍を破り、
ついに楚の首都郢を陥落させた。(柏挙の戦)
闔閭に請われ自ら軍を率いて出陣し楚軍を六回撃破している
水上戦でも自ら指揮し兵法の手腕を発揮している
また孫武は北方で斉や晋を脅かした。
たしか呉越春秋などより抜粋されたこの様な推薦文が挙げられて
孫武は確定入りとなったんだよ
(俺の記憶なので多少のちがいはあるかもしれない。あと一部補足))
章邯については>>344辺りから読んで貰えば何故そう言う話になったかわかるかと・・・

>>380
>岩城氏にはご出陣願いたいものです。
同感です。五代までROMってるつもりなのかな?


384 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/10(土) 06:16:43 ID:8n30PRYX0
ちょいと久しぶりに覗いてみたらまさか俺を呼ぶ声があるとは。
得意の南宋まで雌伏しとくつもりやったんやが、そんじゃ復帰します。
つーても最近ちょっと多忙で南北朝あたりまでみたいにバンバンは書き込めんのやが。
とりあえず復帰一発目。李孝恭を外すなら蘇定方、劉仁軌をおさえてこの人を推す。

薛仁貴
 遼東遠征に応募して士卒となる。その勇戦ぶりは『賊皆懾伏』。精強で鳴る遼東の兵が彼一人を恐れ投降し、
これによって薛仁貴の威名は軍中に轟いた。更に進軍して高麗の高延寿らが二十五万の大軍を率いて唐軍を迎
え撃ったときには白衣を身にまとって敵中に身を躍らせ、向かうところ敵なし。自軍の陣に戻るときには白衣
が真紅に染まっていたという。
 顕慶二年、程名振の副将として遼東経略に参加、貴端城の大戦で大勝利を博し、首級三千を挙げる。翌年遼
東の梁建方、高麗の大将・温沙門の同盟軍と横山で戦い、弓の名手某を擒えた。まもなく契丹王・阿朴固の軍
と戦い阿朴固を擒える。
 ついで九姓突厥の軍と天山で交戦、突厥は十万余の大軍を擁したが薛仁貴は三箭を放ち、一度に三人を射殺
して敵軍の気を奪い、後禍を恐れて俘虜十万を生き埋めにして殺した。(←結構残酷)
 乾封初年、高麗の大将・泉男生が唐に降った。高麗は将軍・龐同善らを遣わしてこれを撃たしめ、泉男生も
弟らを率いてこれに応戦した。薛仁貴は勅命により泉男生の救援に向かい、龐同善らが新城に夜襲をかけると
精鋭を選抜して現地に急行、敵兵数百の首級を挙げる。龐同善らが金山の戦いで泉男生を破ると、勝ちに乗じ
て進軍する高麗軍の腹背から突撃、五万以上の首級を挙げ、ついでに南蘇、木底、蒼巌の三城を抜く。今度は
薛仁貴が逆撃し、殺したもの、俘虜合わせて一万余を獲、扶餘城を抜いた。ついでに扶餘川沿いの四十余城を
ことごとく降す。李勣の下に入って平壌を降し、高麗を降伏させ、劉仁軌とともに平壌の留守を守った。
功績により右威衛大将軍。新城に遷って孤児や老人を賑恤し、才幹のあるものを抜擢し忠孝節義を顕彰したので、
高麗人でありながら彼の下に帰順するものが頗る多かった。
 咸享元年、吐蕃軍の侵攻に対して阿史那道真、郭待封らを率いて迎撃するも、郭待封の命令違反により大敗、
吐蕃の大将・論欽陵を通じて講和に持ち込むも、責任を負って官籍を剥奪、庶民に落とされた。のち大赦により
復官、雲州に侵攻する突厥元珍らの軍を大いに破り、斬首一万以上、俘虜二万以上を獲る。この時期になると
唐軍の指揮官が薛仁貴だと知るだけで、異民族は恐れて唐軍を避けたという。七十歳で病死、左驍衛将軍を追贈された。

 武勲は申し分ないと思うんやが、知略はどーやろ? って気がする。突厥の捕虜十万人を生き埋めとかしとるしこれは
賢明なのかただの蛮行なのか分からん。蘇定方と比べるとギリギリで上を行くかなと思うけど、理由はともあれ吐蕃に
大敗しとるし。西域で勝ち続けた裴行倹には負けるかなーとも思う。
ちなみに俺的十選は
楊素(平陳戦最大功労者。韓擒虎、賀若弼の戦功も込みで)
張須陀(斜陽の隋帝国の象徴みたいな人やから)
李世民(一族、部下に錚々たる面子が揃っているとはいえやっぱ凄い)
李靖(この人と韓信は100選から10人に絞っても入るやろ。あと個人的に南宋の孟珙も入って欲しいところ)
李勣(李靖には及ばんながら高句麗平定戦を成功させた功績は大きい。太宗死後の身の処し方も見事)
薛仁貴(裴行倹といい勝負ができると思うが、どうか)
史思明(息子に殺されんかったら文句なしに名将なんやけど。人身掌握が下手やったのが難)
李光弼(郭子儀を入れるべき枠やろーが、野戦の戦術手腕に限ればこっちが上かと。実は唐朝に叛心があったってのもアクが強くていい感じ)
李晟(息子より親父のほうが苦労しとるんやないかと。史思明の真逆で部下に慕われた名将)
李克用(五代十国への魁。しかも本人はあくまで唐の臣としてのスタンスを貫いた忠臣)
 とこんな感じ。あんまし面白みがあるラインナップやないね。

385 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 08:01:52 ID:9gFGMNZA0
最近、色々言われているものだが、ちょっと苦言を呈していいか。
373氏や374氏のように自分を味方してくれるものもいたが、
>>357
>>359の自分の文は
>>346
>>347への回答だからおかしくないはず
なのに、373氏の指摘どおり
>>364のようなレスに対して苦言を誰もいわず、
>>369
>>370のようにこっちの方にばかり矛先を向けるのはどうしてか?
また、
>>360にある
>部下の命を救う為に止むなく降ったのは
とあるが、史記を読み返したら、そんなことは全く記述されていない。
司馬欣や陳余から『どうせ勝っても負けても処刑だから降伏した方がいい』
と言われ、降伏しただけだ。また、兵士からは
『章将軍は我々をだまして降伏した』と言われている。
どうしてそういう解釈になるのだ。基本的に史記の記述に従うべきで360の言っている
ことはでたらめと言っていい。そのくせ
>君は章邯のことをちゃんと知っているのか?
とまで言っている。
ここにいる諸氏ならばこの間違いは即座に指摘できるはずだ。なぜしなかった?
それは人数の議論で自分が孤立しているのは明白だったから、スレの空気を維持するために
あえてスルーしたのではないか。
いつからこのスレはなれ合いになった? 匿名掲示板の意味合いを忘れているのはどっちだ?
これでは小学生のいじめと変わらないぞ。諸氏の意識の変化を促したい。

386 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 08:07:53 ID:9gFGMNZA0
まあ、今日はそんなことを言いにきたのではない。
推薦文を書いてきたのだ。王忠嗣。まさに名将。武人のかがみといえる男だ。

王忠嗣

 唐・玄宗期の武将。父が吐蕃との戦いで戦死したため、宮中で育てられる。
若くして武勇と勇敢さで知られ、吐蕃の大軍を前に、先陣として数百人を殺し、
唐軍を勝利に導いたこともあった。
功を重ね、朔方節度使となり、突厥に反間をしかけ、
ウイグルらを離反させ、突厥を滅亡寸前に追い込み、降伏させる。
北方はこれにて戦が止み、功で河東節度使を兼ねる。
この時期に、北方民族との互市の際、馬を高額で買い、北方民族を弱め、唐軍を強くする。
結果、唐の支配地域を数千里にわたって増やす。
 節度使になってから、常に『太平の将はただ兵士をなだめ、訓練するだけが使命である。
国家を疲れさせてまで、功名を求めてはいけない』と言い、積極的に出撃することはなかったという。
若い頃は武勇をたのんでいたが、百五十斤ある弓を常に袋にいれ、使わないことを示した。
諜報を使い、敵の隙を伺い、勝機を見いだした後、軍を起こしたので戦いに全勝した。
 その後、河西隴右節度使に就任。攻めてきた吐蕃の大軍を度々破る。
騎兵を使ったこの時の戦いの見事さは『百戦奇略』の戦事例にあげられている。
さらに、吐谷渾軍を全滅させる。また、安禄山の支配地域を見学し、
『安禄山は必ず謀反を起こす』と上言した。
だが、このころ、名声の余り、宰相の李林甫に目をつけられ始める。
 玄宗に吐蕃の石堡城攻略を命じられるが、『兵士数万人を失って得る価値はない。
隙を見て奪う』と返事する。焦った玄宗は董延光に石堡城攻略を命じ、
王忠嗣に援護を命じるが、『自分の地位一つと兵士数万の命を引き替えにはできぬ』と拒否。
そのためと李林甫の策謀に陥れられ、漢陽の太守に左遷され、間もなく死亡する。
 同時代に名将として知られた哥舒翰・李光弼は彼の部下であった。


387 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 08:09:14 ID:C11jn4Tn0
>>384
◆oOLAqFKRBさんお久です
お忙しとは思いますがたまに顔を見せていただけるとうれしいです

自分も薛仁貴をあとは張須陀より賀若弼と史思明を強くプュッシュします
(韓擒虎とセット扱いされるのは個人的にはどうも納得できない。)
農民出身で太宗の高句麗遠征に応募して従軍し、高麗国に出征
645に唐国の太宗が洛陽から出発し、高麗国を征伐した際
安市にて、高麗国の援軍を大破、20万人の敵兵を撃滅
この戦闘中にて、薛仁貴は先鋒として敵陣を壊滅させ、勇気と知略を発揮しました。
とありますので知略は十分あるかと思います
太宗はこの人を指して、「わしの旧将は皆老いた。
外事に驍勇の者を抜擢しようと思っても卿のような 者がいなかった。
わしは遼東を得ることを喜ばないが、卿のような猛将を得たことを喜ぶ。」
と言わしめた人物
大敗もあるが高麗戦・吐蕃戦・突厥戦等で活躍し
周辺諸族はその名を聞いただけで恐れ慄かせた薛仁貴を特に強くプュッシュしたい


388 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 08:11:00 ID:9gFGMNZA0
ポイント
・歴史書を見る限り敗北はない。また、平時の武将として識見も鋭い。
 戦術・武勇・策謀どれも高いレベルにある。
 名将であることは疑いない。
・安禄山の反乱を見破り、しかもそれを君主に伝えている。先見の明と主君の怒りを怖れず、
 正しいことを進言できる勇気。
 まさに理想の部下である。
・無益な出兵は断じて行わない。君主の怒りをかえば、地位どころか下手すれば処刑である。
 自分の地位と命を盾に、兵士を守る。
 さらに部下を名将として育てている(もしくは抜擢している)。
 まさに理想の上司である。

 確かに実績という点では他の確定組には劣るかも知れんが、理想の軍人像を体言化したような人物だ。
正直、なんとか十人枠にいれさせてやりたい。
 名将とは、自分を信任してくれた主君に応え、国家を守り、
民を生活をたてられるようにする存在という要素もあるはずだ。
 土地侵略能力や軍事能力だけで計れるものではないと思う。
 自分には色々あるかも知れぬが、諸君らの公平な裁断を願う。


389 :369:2007/03/10(土) 08:26:09 ID:Tk9K10Ro0
煽られたり矛先を向けられる理由がわからないですかね?

このスレが立ち上がった当初から、みんなで話し合って1時代10人という大前提を決めて、
各時代、色々不満もある中で議論して、もう半ばくらいまで進んできているわけです。
そんなときになって、今更10人枠を外すとか、スレが収拾つかなくなって
崩壊するのがわかりきっているようなことを言い出すからですよ。
364のような煽りを食らっていても、とても擁護する気にはなれません。

2ちゃんとはいっても「みんなで決める」ことにこのスレの意義があると思うので最低限のマナーは守るべきだし、
スレの流れへの配慮はするべきじゃないかと。それは決して馴れ合いではないです。
それに自分の意見を聞いてもらいたいならば、もう少し文体を柔らかくするとかも少し考えた方がよいんでは。
2ちゃんだから個人の自由ではあるけども、相手がどう受け取るかもやっぱり自由だし。

390 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 09:39:44 ID:HkXsm79OO
>>385
俺は隋唐は専門外なのでロムってるが端から見てる限りでは
>>332は提案をすぐに却下してるし 少なくとも>>327>>329もいつまでも意見を通そうと
してない様に見えるけどどうだろうか?
いつまでもその話にしつこく粘着していたのはアナタだけだと思うぞ!!
2ちゃんなんだから煽られたりキツイこと言われる事に腹立ってもしかたないし
あとは勝手にH.Pかブログで好きにやってくれととか
2ちゃんに向いてないと言われてもそら仕方ないと思うよ
俺は春秋戦国・統一秦〜前漢・新・後漢 と参加しているんだけど
折角みんなで論議し決めた確定組を外せ、若しくは論議中の残り一枠に
唐から代わりに入れろと言われたら気分はよくないし
アナタじゃないけど憤慨したいのはコッチのほうだよ
そこらへんは考えた事ある?
アナタの気持ちはわかるがそこらへんを考慮して貰えると嬉しいのだが…

391 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 10:24:23 ID:eZKUKf9C0
ID:9gFGMNZA0氏の我の強さを俺のように面白いと思うのもいれば不愉快に思う人もいるだろう。
妥当な解決案としては既定路線の基準でさっさと百選を決めてしまうことだ。
その後で氏が納得し得る新基準の検討をすればよいだろう。
匿名掲示板で熱くなるメリットはまったく無い。
ボーダーライン連中の議論が荒れるのが相場だが。

392 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 10:34:49 ID:5KbsiA+C0
>>384,386
推薦分は、簡潔にまとめてくれると、ロム専門としては、ありがたいです
10選は自分も>>384とほぼ同じですね。
薛仁貴を特に推します

>>385
もう少しおおらかになるべきかと
自分のように、知識がたいしてなく、各推薦者の文を読んで
知識を得たいって人もいるので。(勿論>385の文も参考にしてます)


393 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 10:35:43 ID:85zzoDX7O
>>387
> 太宗はこの人を指して、「わしの旧将は皆老いた。
> 外事に驍勇の者を抜擢しようと思っても卿のような 者がいなかった。
> わしは遼東を得ることを喜ばないが、卿のような猛将を得たことを喜ぶ。」
> と言わしめた人物



太宗に猛将を得たと云わしめたんなら、驍将、勇将たりえても名将足りえず。

394 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/10(土) 10:39:32 ID:4kGIK0o50
ちょっと落ち着いてみたらどうだい?
>>385 の腑に落ちない点は、もはや人数のことじゃないようだ。
人数については前スレでも、「なんで唐だけ、そんなに多い。 なら南北朝や五胡でも、もっと入れさせてもらうぞ」
ということで、一時荒れたことがある。
その流れで、より公平をとっての案だから、異論があり、より公平な別案があるなら、一旦今の選定が終了してから後の、別ルールとして始めるといい。
だが今は、現状がベターとして決定しているわけだから、別案は後のために暖めておいて欲しい。

>>385の怒りの矛先は、今「馴れ合い」となっている(と見える)ことに向いているようだ。
しかしすまん。
自分は章邯についてなんにも知らないし、どういう経緯で降ったかということは指摘するもなにもなかった。
決して馴れ合いを求めているわけではないのだが…
そもそも自分は他時代との比較というのは、政治的思想的ならともかく、戦いの勝利のみをもっての比較はあまり意味がないと考えている。

それに厳しいことを言うようだけど、反論するときに言葉が乱暴になったのは>>385のほうだった。
>>385=>>363でしょ?
>>363以前の人数の件は、上記のとおりで、今は無理にでも納得していただかないと困る。
だがそれは「もういい」と言っているので、今は置く。
相手の言葉に間違いを発見したなら、普通に指摘すればいいのであって、罵詈に対して悪口で臨んでいたら、他人からみれば「勝手にやってろ」ということになってしまう。
史書も読み、識見もあるんだから、史書中の一文をもって指摘し、相手の間違いを正せば少なくとも、そう過剰な反論はされないだろう。
>>364もどちらかと言うと、>>363の言葉の強さに反発しているだけのようだし。
>>389の指摘するところが正しいように思う。

あと、2chに向くとか向かないとか、そういう論理は好きではないな。
そこまで2chを特別扱いする気はないし、匿名である以上いろんな個性が集まるのは自由なわけだし。
ただし、礼節と節度は最後まで持っていたい。


395 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 11:31:11 ID:HkXsm79OO
ID:9gFGMNZA0は>>394の言うように史書も読み、識見もあるんだから、
相手の間違いを正せばいいだけだと俺は思う
俺的な思想で申し訳ないないのだが
確かに司馬遷の史記は公平な視点で書かれているとは思うよ
でもそれだけを判断材料にしてそこに書かれている人物の考えまで
果たして一つの結論に位置付けられるだろうか?
読む人間に因っては受けとめ方が多少は異なると思いいますよ
また記載されていないからそんな事実はないと決め付けるのも如何なものかと…>司馬欣や陳余から『どうせ勝っても負けても処刑だから降伏した方がいい』
これは秦の為に尽くしている章邯が秦に失望したからではないからではないだろうか?
>兵士からは『章将軍は我々をだまして降伏した』と言われている。
これは結果論ではないかい?
俺は項羽に章邯は騙されたのでは?と捉えている

俺は資料第一主義はあまり好きではないのでお叱り受けるかもしれないが…
勘違いしないでほしいのは資料を判断材料にするのがダメとは言ってないと言うことこれだけは念を押しとくよ


396 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 12:02:10 ID:o27aRqR80
まぁ、今は現状の枠組みで、話し合うのがベストとして、
>>385さんの言うように取り敢えず現段階の議論が一段落したら、
また別の区分法で、例えば名相百選で使われている
以下の時代区分で改めて話し合うのがいいんじゃないだろうか?
そして、これでも不満がある方が現れれば、
またこの二代目区分法が一段落した後に、三代目の区分法を考えればよい。
んで、初代で決まった百選や二代目で決まった百選とかを
区分法と共にテンプレにしていけばいいだろう。

ときどき時々時代区分議論でスレが荒れることがあるけど、
これは名将選定のみではなく時代区分議論自体にも需要があることの表れだと思う。
区分法は既に決まっているからという理由でこの意見を斬って捨てるのは
あまりに理不尽だと思うので以上のような提案をさせていただきました。

春秋(周の東遷〜晋の分裂) BC770年〜BC403年 367年間
戦国・秦・楚(晋の分裂〜前漢の統一) BC403年〜BC202年 201年間
前漢・新(前漢の統一〜後漢の全国統一) BC202年〜36年 238年間
後漢・三国・西晋(後漢の全国統一〜西晋の滅亡) 36年〜316年 280年間
東晋・五胡十六国〜隋(東晋の建国〜隋の滅亡) 317年〜618年 301年間
唐(唐の建国〜唐の滅亡) 618年〜907年 289年間
五代・北宋・遼(唐の滅亡〜南宋の建国) 907年〜1127年 220年間
南宋・金〜元(南宋の建国〜元の北走) 1127年〜1368年 241年間
明(元の北走〜清の入関) 1368年〜1644年 276年間
清(清の入関〜清の滅亡) 1644年〜1912年 268年間

397 :385:2007/03/10(土) 12:55:59 ID:9gFGMNZA0
そうか。それは悪かった。せっかく流れが動いているのに自分のせいで止め、
◆RQdk7scN8s氏や391氏、392氏に迷惑をかけ、395氏や396氏に手間をかけさせてしまった。
ただ、自分としては問われたことに対する誠意ある回答をしたつもりなのに、
(もう人数議論はその段階であきらめているのだから、357、359のレスはスレの流れを悪くするし、
 こちらも無駄な手間なだけだ。ただ、質問されたので返さねばと思ったのだ)
そして、それで納得して終えようと思ったのに、
360のようにわかりきったことをくだくだ言われ、(しかも自分が清に優秀な武将が
多いと思えるなら、その人が主張しても悪くはないという考えを持っている
ピントもずれていた)
361のように侮辱をされ、(しかもあまり具体性のない反論つきで)
反論すると
369氏らからは一方的にこっちが悪いと決めつけられたように思えた。
自分にも正直、武人として失格(と思う)章邯が選ばれ、
(人格ではなく、目的達成能力の問題ね。だから、史思明はいいです)
李密、王忠嗣や李光弼らが外れる可能性が高いことへの不満はあった。
(なお、自分は前漢・後漢ともに論議に加わっている)

しかし、これ以上はこのことは別にいわない。人数も別にいい。迷惑をかけてことを謝りたい
ただ、386と388の推薦文は間に387氏のレスが入り分かりづらくなった。これは私のミスだ。
少し訂正してまた書き込みさせてもらう。了承をお願いしたい。
自分のせいで荒らしや煽りが増えるようだったら、立ち去るのでこれからも
活発な議論をお願いしたい。

398 :385:2007/03/10(土) 13:02:28 ID:9gFGMNZA0
王忠嗣

 唐・玄宗期の武将。父が吐蕃との戦いで戦死したため、宮中で育てられる。若くして
 武勇と勇敢さで知られ、吐蕃の大軍を前に、先陣として数百人を殺し、唐軍を勝利に
導いたこともあった。
 功を重ね、朔方節度使となり、突厥に反間をしかけ、ウイグルらを離反させ、突厥を
滅亡寸前に追い込み、降伏させる。北方はこれにて戦が止み、功で河東節度使を兼ねる。
 この時期に、北方民族との互市の際、馬を高額で買い、北方民族を弱め、唐軍を強くす
る。結果、唐の支配地域を数千里にわたって増やす。
 節度使になってから、常に『太平の将はただ兵士をなだめ、訓練するだけが使命である。
国家を疲れさせてまで、功名を求めてはいけない』と言い、積極的に出撃することは
なかったという。若い頃は武勇をたのんでいたが、百五十斤ある弓を常に袋にいれ、
使わないことを示した。諜報を使い、敵の隙を伺い、勝機を見いだした後、軍を起こした
ので戦いに全勝した。
 その後、河西隴右節度使に就任。攻めてきた吐蕃の大軍を度々破る。騎兵を使った
この時の戦いの見事さは『百戦奇略』の戦事例にあげられている。さらに、吐谷渾軍を
全滅させる。また、安禄山の支配地域を見学し、『安禄山は必ず謀反を起こす』と上言した。
だが、このころ、名声の余り、宰相の李林甫に目をつけられ始める。
 玄宗に吐蕃の石堡城攻略を命じられるが、『兵士数万人を失って得る価値はない。
隙を見て奪う』と返事する。焦った玄宗は董延光に石堡城攻略を命じ、王忠嗣に援護を命じるが、
『自分の地位一つと兵士数万の命を引き替えにはできぬ』と拒否。
そのため李林甫の策謀に陥れられ、漢陽の太守に左遷され、間もなく死亡する。
 同時代に名将として知られた哥舒翰・李光弼は彼の部下であった。


399 :385:2007/03/10(土) 13:03:39 ID:9gFGMNZA0
ポイント
・歴史書を見る限り敗北はない。また、平時の武将として識見も鋭い。戦術・武勇・策謀
どれも高いレベルにある。名将であることは疑いない。
・安禄山の反乱を見破り、しかもそれを君主に伝えている。先見の明と主君の怒りを怖れず、
正しいことを進言できる勇気。
まさに理想の部下である。
・無益な出兵は断じて行わない。君主の怒りをかえば、地位どころか下手すれば処刑である。
自分の地位と命を盾に、兵士を守る。さらに部下を名将として育てている
(もしくは抜擢している)。まさに理想の上司である。

 確かに実績という点では他の確定組には劣るかも知れんが、理想の軍人像を体言化
したような人物である。正直、なんとか十人枠にいれさせてやりたい。
名将とは、自分を信任してくれた主君に応え、国家を守り、民を安全な暮らしのために戦う
存在という要素もあるはずだ。土地侵略能力や軍事能力だけで計れるものではないと思う。

400 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 14:17:50 ID:TzEUltlF0
>>385
王忠嗣は名将だと思います。ただ、このスレでは「名将のなかからさらに優れた10人を選ぶ」
というものであり、そのポイントは実績・功績を基本とするという前提で行っています。
ですので「実績という点では他の確定組には劣るかも知れんが」とご自分でも認識している
のであれば、やはり確定は難しいと思います。

>399
・先見の明と主君の怒りを怖れず、正しいことを進言できる勇気。
・ 君主の怒りをかえば、地位どころか下手すれば処刑である。自分の地位と命を盾に、
兵士を守る。さらに部下を名将として育てている(もしくは抜擢している)。まさに理想の上司である。
これらは軍事能力、戦術指揮能力というよりは人格ないし教育者としての能力ではないですかね?
高潔な人格であったことは推薦文から伺えます。しかしこのスレは人格は無視されてます。
これまでの確定者にも、この後の候補者にも人格面では誉められたものじゃあない将たちも
挙げられています。それらを人格を理由に外せはしないでしょう。

401 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 14:55:38 ID:ndFhKQzA0
>>395
嫌みでも、叩きでもない意図でいうのだが、取りあえず過去ログを
読んで、どのような経緯を経て、現行のルールで選定してるかを
見直してきた方が良いです。

402 :401:2007/03/10(土) 14:56:20 ID:ndFhKQzA0
アンカミスッた。
>>395 じゃなくて>>385宛です。

403 :387:2007/03/10(土) 16:18:55 ID:C11jn4Tn0
9gFGMNZA0さん>>387ですが
寧ろこちらの方が推薦文を分断する恰好になって仕舞い申し訳ないです 
それと済んだことは気にせず、これからもどんどん議論に参加してくださいよ
みんな同じ目的を持った仲間なんですからマターリいきましょうよ あとアンカーを付けていただけると有り難いのですが・・・

>>393
太宗は薛仁貴が驍将、勇将でなおかつ戦場での勇猛さを讃える意味で猛将と言ったと捉えるのが自然では?
Wikiに猛将(もうしょう)とは、物語記述などにおいて戦乱の時代に勇猛で
名高かいと評される歴史的人物の事を指す。勇将。
とありますし、太宗は薛仁貴を俗にいう猪武者と言う意味で
猛将と言ったとは思えないのですが如何ですかね?
猛将を得たの一文だけを見て名将ではないと断言するのは軽率ではないでしょうか?


404 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 17:40:11 ID:9gFGMNZA0
>>400
「実績という点では他の確定組には劣るかも知れんが」
これはすでに確定に決まった七人を指す。基本的には実績・軍事能力重視なのは
知っているよ。別に異論はない。ただ、自分は王忠嗣の実績は薛仁貴らに劣らない
と思っている。おされ気味の唐王朝で版図を奪われなかったのは立派だ。
薛仁貴のような大敗もないし。
また、ここで自分が述べているのは、人格ではなくて、(だったら、史思明、李密を推さないでしょう)
王忠嗣の言に従い、安禄山を殺していれば、安史の乱もなかったかも知れないし、
「戦わずして勝つ」を実践できたかも知れない。そういう要素も名将としての
プラス要素に含めてもいいだろう、ってこと。
兵士を守ったことはこのスレの議論じゃおまけみたいなものだろうけど、
後継者を見いだしたのは指揮官として重要な要素だろう。
実績・軍事能力で甲乙つけがたい時はこれも考慮にいれて欲しいだけ。
>>403
薛仁貴の猛将とはそういう意味でしょうね。当時は戦陣を駆け回っていたから
そう誉められたのでは。まだ、名将といわれるほどの実績をあげていなかったから。
猛将は現代ではあまりいい意味ではないのは残念。
上で薛仁貴を批判しているけど、結果、王忠嗣より薛仁貴が上と判断されて薛仁貴が
確定になれば異論はないです。迷惑をおかけしました。それではよろしく

405 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 20:57:29 ID:85zzoDX7O
>>403
9gFGMNZA0さんがほぼ言い当てるのでクドクド言わないが、
その功績がいち武人の範疇を出てないと思うんだが。
自身のミスではないとしても敗北があり、それは将としての限界を垣間見せている。

406 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 21:51:18 ID:C11jn4Tn0
>>404
9gFGMNZA0さん サンクス >猛将は現代ではあまりいい意味ではないのは残念。そうですね確かに本来の意味とは違う解釈されていますよね
特にあの場合は自分が説明した意味に解釈するのが妥当かと
しかも薛仁貴が只の猪武者なら自分は十傑に推薦しません

9gFGMNZA0さんの今日のレスを拝見して思ったのですが
かなり真面目な方で武将に対して強いこだわりがあるみたいですが
もう少し肩の力を抜いて参加しては如何ですかね?
(偉そうなこと言ってごめんなさい)
>>405
クドクド言わないがと仰ってるのでカキコするのにためらいがあったのですが
そんなに薛仁貴は他の武将より功績が見劣りしますかね?

407 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 22:14:37 ID:5KbsiA+C0
王忠嗣の推薦文を読むと
名将でなおかつ、名臣という気がする
名将の定義の>>385のような条件は、自分に非常に近いんだけど
例えば杜預とかね。かなり好みなんだけど
基本的にこのスレの名将選出基準として
創業の確立に多大な貢献する・対外戦争に勝利をする
の2点が占めてるウエイトが大きい(と自分は思う)ので選出は難しいかなと


408 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 22:26:37 ID:85zzoDX7O
>>406
功績は認めるよ。
あと何名入れられるか分からないが、1名なら李愬か父の李セイを押す。

409 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 00:48:46 ID:kXwMWEc60
これまでをまとめると

 ○…確定入り
隋朝:○楊素、賀若弼、張須陀、李密
唐建国期:○李世民、○李靖、○李勣、李孝恭
対外戦争:○裴行倹、蘇定方、薛仁貴、王忠嗣
安史の乱:○郭子儀、李光弼、史思明
国内平定戦:李晟、李愬
(対反乱・藩鎮)
末期:○李克用、李存孝、黄巣
(黄巣の乱以降)

こんな感じでいいですか?

ここから三人。自分だったらバランスを考慮して
隋朝というか末期の群雄の代表で李密
対外戦争から蘇定方か薛仁貴
安史の乱から史思明
国内平定戦から李愬
いかんそれでも四人だ。

410 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 07:28:48 ID:xgLV7u570
李密は前スレでもいろいろあったけど、結局確定は見送りになったはずですと
>>371で◆RQdk7scN8sさんが述べている様に李密はやっぱり落選?
(自分も推薦しようかと思っていたんだが諦めた)
で一応、李密に関しての前々スレからのコピペ参考までにドウゾ
650 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/15(金) 13:17:10 ID:LmEchPU60 李密や竇建徳って百人のなかに入るほどとは思えん・・・
この二人が入るなら三国の劉備や孫策あたりもってことにならんか?
653 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/15(金) 19:49:23 ID:r0Tdw8/l0
>>631
隋初に楊素がいないのは納得できん。
あと、李密と竇建徳は外していいのでは?
654 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/15(金) 19:58:57 ID:1gq8m8gw0
>>650
じゃあ竇建徳に代えて代理人の楊義臣を入れるってのはどう?

李密に代える人材は今んトコわからん。保留。

658 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/15(金) 21:58:29 ID:/cSZNafN0
李密を下げる必要はないと思うけどな。
自身は八柱国の貴族階級でも、それを背景にせず、
無数にある群盗勢力のひとつに身を置き、
それこそ曹操を凌ぐ才覚でもって隋朝の動脈を得る位置に割拠し得たわけだから。
当時最強だった張須陀に勝ったという点でもかなり高いレベルの将だったと言えると考える。
ただ、マイナス面があるとすれば、王世充に敗れたこと。
ここは、自身の力量を野心・矜持が上回っていたことが根本にありそうで、
ナンバー2として一歩下がっていれば大成もしたかもしれない。
660 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/15(金) 23:47:51 ID:kvazzbFB0>658
李密は武将というより軍師という気が
配下に徐世勣(李勣)とかいたからその分は差し引いてもいいのでは
戦術では張須陀を討ち取ったりしたけど
戦略では長安取り損ねたり、興洛倉にこだわり過ぎたりして失敗している

もし楊玄感が李密の策を採っていれば別の歴史があったかも
661 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 00:00:11 ID:/cSZNafN0
>>660
>>もし楊玄感が李密の策を一流になり損ねた陳宮みたいなもんか。
それで終わらなかったからすごいわけだけど。
たしかに軍師。というか、官僚として軍事権を掌握する最高位にいる、
という図式がすごく似合う。
李世民のように先陣に身を置くのではなく、帷幄(本陣)にいる感じか…
それにしても、自分はあまり李勣を評価してないので
(重要なときに負けている。李密敗退のときも逃げ出したっけ)
その分、李密をヨイショするのかもしれん。
662 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 00:04:26 ID:LNtR5yVA0
>>660
李密は策が多いわりに陣頭指揮を好む武将だったので、
配下に徐世勣が居た分は差し引かなくても良いかと。
徐世勣とは途中から別行動をとっているし。
663 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 11:00:05 ID:kz89ZwRj0
李密は混乱期に良く出る梟雄タイプの人間で、名将って感じでは無いような・・・。


411 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 08:18:34 ID:R0Nass720
>>409
おつかれ。
史思明は残り三人を選んだほぼ選んだ全員が推しているので確定入りでいいんじゃないか
逆に、李存孝、黄巣は今回は推している人はいないようなので落選でいいような気がする。
また、李建成をあげていた人もいたはず。

李密はどうかな。項羽、樊崇も選ばれているし、その代で滅んだ梟雄というだけで終わらない
ような気がする。曹操との違いは大敗した規模とその後の対処の差だけという見方もあるし。
選ばれるどうかはともかく、条件は李密の方が悪くて、張須陀に勝っているから
自分は李密>張須陀の構図は変わらないと思う。項羽>章邯なのと一緒ではなのでは

>戦略では長安取り損ねたり、興洛倉にこだわり過ぎたりして失敗している
これは擁護できるよ。配下の柴孝和から長安を衝くように進言されると、その正しさ
を認めながらも、
『部下は山東人ばかり、洛陽も落とさないうちに、長安まで来るはずがない。
 また、行っても、今度は留守に残された群盗出身の彼らは互いに争うだろう』
と言って却下している。戦略性はあったが、実行に移せぬ事情があったのが実体みたい

それと、議論で追加した方がいいのは、
・郭子儀と李光弼はどちらを選ぶべきか? を提案した人がいる。
 さすがに二人とも確定入りになる余裕はないと思うのでこの議論もよろしく

個人的には勲功第一は郭子儀だし、総大将として戦略部門の重圧をかなりになった
野戦で敗北もあるが、多くは宦官に足を引っ張られたものだし、さらにはウイグルを
単身赴き、吐蕃から切り離し、味方につけた功は大きいので郭子儀の方を推すが。

412 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 14:50:11 ID:w6cUKxoVO
>>382
張須陀の戦績
王薄・郭方預・左孝友・盧明月ら諸叛乱の討伐に転戦して連勝。
河南討捕大使となる。
常勝将軍として畏敬されるも、官軍との合同作戦で張須陀は統制を乱され、
李密率いる瓦崗軍に敗死。

413 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 21:57:41 ID:xgLV7u570
>>409 乙です
楊素、李世民、李靖、李勣 裴行倹 李克用
と史思明この7人は確定でいいと思います
あとは郭子儀と李光弼はどちらを選ぶべきか?と
李密についての議論をみんなでして行きましょうか
(李密を推薦するの諦めた本人が言うのもアレなのですが)
ウイグルの援兵を得て長安奪回
僕固懐恩が叛乱を起こし、太原に進攻したのを撃退
吐蕃・ウイグルの叛乱を平定したなど
郭子儀の方が李光弼より功績が上だと思いますし
あと代宗の信任の厚さ、李光弼の才能を見抜いた慧眼をプラスα要素として付け加え
自分は郭子儀のことを推します

残り枠に個人的には隋朝から賀若弼を
対外戦争からは蘇烈(蘇定方)か薛仁貴これはかなり迷うが自分はやはり薛仁貴を推す
国内平定戦から李愬
李愬は良いのですがそうすると一人あぶれちゃうし
うーん候補の誰を削るか迷うな…

李建成についてですが >>354で意見が述べられているのと
>>206で◆RQdk7scN8sさんが仰ってる様に
このスレでは重鎮とか戦略家な人物は敬遠される傾向にあり
実際、南北朝の議論の時に于謹が落選していますし
李建成は外される可能性大だと思いますよ


414 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 22:00:11 ID:vn5JNX7DO
>>411
李光弼と郭子儀とで、どちらが戦上手かを較べたら、李光弼の方が上だと思う。
だが、この状況だと郭子儀を選ばざるをえない。

郭子儀が入らず、李密が入る百選ってなんだよ。
歴史好き集めて百人決めさたら、李密より郭子義を選ぶ割合が多いと思う。
でも、このスレの主旨に則るなら郭子儀より李光弼が選ばれるべきだ。
だが、郭子儀がいない百選は俺には考えられない。

415 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/12(月) 01:25:49 ID:B4tzLeba0
復帰宣言したわりに深夜か早朝しか書き込めんのです。すんません。
薛仁貴の功績を挙げて裴行倹の功績を挙げとらんかったので、彼の功績を。
そーせんとなんで無条件に裴行倹なんや、ということにもなりかねんし。

裴行倹
 元来文人を目指したが大将軍・蘇定方に軍事の才能を認められ
(「こいつほど賢明なやつは見たことがない、といわれた」)、兵法を仕込まれた。
 一応文官となり書の大家として名をなすが、硬骨な性格から武昭儀が朝廷を私物化するのを憂い、
しばしば高宗に上奏して諌めた。しかし逆に則天武后(もうこの名で呼んでいいやろ)に睨まれ、
西域大都護とされて西域の最前線に流されてしまう。西域の異民族に対してむやみに武力を用いず、
おもに仁義をもって彼らを招撫したので異民族たちも彼を慕うこと大であった。李敬玄とともに
当代きっての名将と称えられ、人々は裴・李の二人を厚く尊敬した。
 吐蕃が叛くと詔を受けて現地に急行、元帥周王のもと勇戦する。儀鳳四年、十姓突厥の
可汗・阿史那匐延都支らが吐蕃を扇動して李敬玄らを殺させると吐蕃の帷幕に赴いて彼らを説得、
後顧の憂いを截つ。同年イスラムの台頭により居場所を失ったペルシャの皇子を護衛し、イスラム軍を
撃退しつつ長安まで送り届けた。このころから異民族の師弟の多くが裴行倹の部下になりたいと望み、
裴行倹はそれを利して吐蕃ら諸民族と唐朝の結束を深める。高宗からも「卿は戦陣にあって自ら敵中に
突撃する勇気を持ちながら、あえて無駄な戦いに血を流すことなく、才略をもって凶敵を手懐けて
しまう。叛乱討伐に赴けば見事に安撫して帰る卿は、まさに朕の意にかなう名将である。文武を兼ねた
卿に、今二職を授けよう」と激賞され、礼部尚書、検校右衛大将軍に任命された。
 調露元年、突厥が再び叛く。24州を自軍に引き入れて唐軍を迎え撃つ単于は蕭嗣業らの討伐軍を撃退、
そこで朝廷は薛仁貴を起用した。薛仁貴は他の将軍たちを従え、盛唐が誇る30万の軍勢を率いて突厥と対決する。
蕭嗣業配下の兵が飢えを申し出ると突厥の輜重車を襲い、食糧問題を解決、黒山に拠して唐軍を拒む突厥軍を
攻めに攻めて数えきれぬほどの敵を倒し、降伏を受け入れ、大将・奉職を擒らえ24州を回復して軍を還す。
 翌年突厥の指導者の間に流言をまき内訌を起こさせ、そこを攻めて突厥軍をことごとく覆滅する。高宗から
「その功は晋の王濬に匹敵する」と讃えられた。永淳元年、十姓突厥の叛乱を平定するも軍を還す途上で病死した。
享年64歳。謚は獻。
 彼は陰陽道と算術に長け、人物鑑識も得意とした。しばしば戦場にありながら常に「謀をもって敵を制すを最上とすべし」として無用の戦を避けた。

 うん・・・対外戦の枠が1つとすると、やっぱ薛仁貴より裴行倹な気がする。殺した敵の数で言えば(あと俺の個人的好みでは)薛仁貴かも知れんが、
才略と度量では裴行倹やろかと。10万人生き埋めにした薛仁貴みたいな蛮行もないし。

 ついでに李密について。この人については前スレで散々検討を重ねた結果、謀略家ではあるが名将の
趣旨からは外れる、ということで決着したわけやし、戻す必要はないんではないかと。張須陀に勝ったのも
張須陀軍は現場指揮官の苦労を知らん上司から無意味な烏合の衆を押し付けられて統制が乱れとったというのがあるし。
でもこの時期に彼以上の名将がおったらチェンジしても抵抗はないです。
 郭子儀・李光弼はねぇ。純粋に戦術手腕によって選ぶのがこのスレの趣旨やから(安禄山を外して史思明にしたのもそれが理由やし)
そういう意味で李光弼を推したんやが、郭子儀は全責任を押し付けられながらそれに応えてみせたし、大唐帝国最大の元勲でもあるしね。
この二人は迷うわ。

416 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/12(月) 01:33:53 ID:B4tzLeba0
また改行すべきところでしとらんな、俺は。
怒られる前に謝っときます。引き伸ばしすぎてごめんなさい。
あと、『この時期に彼以上の』の彼は李密じゃなくて張須陀のことです。
なんかわかりにくくてこれまたすまん。

417 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 07:09:08 ID:k/bi6yoM0
<秦漢時代>
呂秦(BC246〜〜BC206)
西漢(BC206〜8)―新(8〜23)―東漢(25〜220)―蜀漢(221〜263)

<魏晋南北朝時代>
<北朝>
三国魏(220〜265)―西晋(265〜316)
前秦(351〜349)
北魏(386〜534)
東魏(534〜550)―北斉(550〜577)
西魏(535〜556)―北周(556〜581)―隋(581〜619)
<南朝>
三国呉(222〜280)
東晋(317〜420)―劉宋(420〜479)―南朝斉(479〜502)―南朝梁(502〜557)―南朝陳(557〜589)

<五胡十六国時代>
<河東>
前趙(304〜329)―後趙(319〜351)―冉魏(350〜352)
五胡代(315〜376)―北魏(386〜534)
<関東>
前燕(337〜370)―西燕(384〜394)、後燕(384〜409)、北燕(409〜436)、南燕(400〜410)
<関中>
前秦(351〜349)―後秦(384〜417)、西秦(385〜431)―五胡夏(407〜431)
<河西>
前涼(376―386)―後涼(389〜403)、南涼(397〜414)、北涼(397〜439)、西涼(400〜421)
<四川>
成漢(304〜347)―五胡後蜀(405〜413)


418 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 07:09:56 ID:k/bi6yoM0
<唐宋時代>
唐(618〜690−705〜907)
武周(690〜705)
大燕(756〜759)
<五代>
後梁(907〜923)―後唐(923〜936)―後晋(936〜946)―後漢(947〜950)―後周(951〜960)―趙宋(960〜1279)
<十国>
桀燕(895〜913)
岐(901〜924)
五代前蜀(907〜925)―五代後蜀(934〜965)
十国呉(902〜937)―南唐(937〜975)
荊南(907〜963)
呉越(907〜978)
閩(909〜945)
十国楚(907〜951)
南漢(909〜971)
北漢(951〜979)
<宋代>
北宋(960〜1127)―南宋(1127〜1279)
遼(916〜1125)
西夏(1038〜1227)
金(1115〜1234)

<元明清時代>
大元(1271〜1368)―北元(1368〜1634)
大明(1368〜1644)―南明(1644〜1661)
大順(1644)
後金-大清(1617〜1636−1636〜1912)
大周(1678〜1681)
太平天国(1851〜1864)

<国共時代>
支那民国(1912〜)
支那人民共和国(1949〜)

419 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 10:57:02 ID:rBdPDT5E0
>対外戦の枠が1つとすると
これは>>409さんのあくまで暫定じゃないの?
自分は薛仁貴は裴行倹に負けず劣らずだと思ってるから薛仁貴は入れたいなぁ〜
(あくまで個人的にだから落選しても異論はないけど)

420 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 12:29:56 ID:rBdPDT5E0
>>419ですが早とちりしてましたすいません

421 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 21:23:09 ID:5YsENlrNO
隋末唐初から1名で張須陀、李密から選ぶのか、隋からあと1名選ぶのか。
隋からと考えるなら、賀若弼と韓檎虎がその2名より下とは思えない。

でも、唐を含めた隋末唐初には、太宗と李靖、李勣しか名将がいない――というのは違うよね。


張須陀の敗戦が上司の問題とするなら、李密の場合も、梟雄としての限界であって、
将としてのミスではないと言えそうだ。

この両名は、戦績で優劣は付けられないと思う。
あとは好みじゃない?

422 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 21:34:36 ID:LFmNEybI0
>>421
このスレでは無視される要素だが、人格面を考慮すれば張須陀の方が
上だな。まあ、俺の好みに過ぎないだろうけどね。

423 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 22:56:47 ID:LAFdD6gNO
無理して郭子儀と李光弼のどちらか選ぶより
候補入りに異論のある李密を外した方が良いと思うのは俺だけか?
どうしてもバランス重要視で隋からあと1名選ぶなら
張須陀か賀若弼のどちらから選ぶ方が良いと思うが…

424 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 23:52:32 ID:LFmNEybI0
その時代を代表する10人を選ぶわけだし、年代の枠内でなら、
バランスはとる必要ないと思うぞ。
賀若弼が、明らかに上だというなら確定入りでしょ。

425 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 23:58:07 ID:5YsENlrNO
よくよく吟味してみると、李密に関しては、情状酌量の余地があると思う。
曰わく、李密は謀臣なれども将軍にあらず。
されど李密の失策は、梟雄である故の器量不足なれど、将としての技量不足にあらず。

確かに将の将たる器ではない。李密は梟雄であり、いつの時代に生まれても
青史に名を残すも終わりを全うできそうもない。

張須陀の最大のマイナス面は、張須陀を選んだならば、
隋末唐初を代表してる感が薄れることだろう。
隋将だと考えるなら、その貢献度は賀若弼に遥かに劣り、薛世雄にも及ばない。
張須陀は李密を外すための方便だと個人的には思う。
張須陀は過剰評価されすぎてないか?某作家の身贔屓目に毒されてない?
その貢献度はそれほど高くないし、隋朝を代表する名将だとも思えない。
隋朝枠なら賀若弼、韓檎虎。隋末唐初の群雄割拠の時代からなら李密。
そう考えるが如何?

426 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 06:55:26 ID:YPnJKWN60
>>425
>曰わく、李密は謀臣なれども将軍にあらず。
ご自身がそう述べるように李密は謀略家ではあるが
名将の趣旨からは外れる、ということで決着がついてますし
根拠となる前々スレも提示しました
やはり外した方がいいと思いますよ
あと張須陀は李密を外すための方便だと個人的には思うのなら
郭子儀と李光弼のどちらか選べというのも李密を入れる為の方便に
なっちゃいますが如何ですかね?

史思明が確定入りなら李光弼も確定入りになるでしょうし
またそれなら郭子儀が落選する理由が今度は見当たらない様な気がします。
この意見についてはおかしいですかね?


427 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 09:25:14 ID:KBQ7hwKc0
粛宗≒高祖
郭子儀≒韓信
李光弼≒曹参

428 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 11:38:10 ID:O2E8LRtIO
>>426
> あと張須陀は李密を外すための方便だと個人的には思うのなら
> 郭子儀と李光弼のどちらか選べというのも李密を入れる為の方便に
> なっちゃいますが如何ですかね?


何故そうなるのかさっぱり分からない。
まず李光弼を確定にし、郭子儀を外したとしても確定は以下の8名。
隋朝:楊素
唐建国期:李世民、李靖、李勣
対外戦争:裴行倹
安史の乱:李光弼、史思明
国内平定戦:該当なし
末期:李克用

なぜ李密が入ると郭子儀が外れるのか聞きたい。
あと2名入れるはずだが。
李密が入るのは時期的な問題。だから話し合ってるんだと思ってた。

それがないのなら薛仁貴と郭子儀が入って終了では?
話し合う必要性すらないと思うんだが。

429 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 12:51:58 ID:Ma2Q8n6j0
とりあえず史思明までの八人は確定でいいですかね。(郭子儀か李光弼かというのはあるが)
で、あと二人枠をどうするかと。
候補としてはこれまでをみると
隋朝:賀若弼
対外戦争:蘇定方、薛仁貴
国内平定戦:李愬

隋末の群雄からとして李密、張須陀、王世充、竇建徳などが挙げられているけど、この辺って
結局は唐建国期とかぶって、しかもその三人にやられるから難しいねえ。


430 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 14:24:47 ID:u34hSyyw0
李密軍閥の将軍が李勣、と個人的には理解してるから李密は外しても問題ないと思うな。
李密は計画力や行動力はすごいけど詰めが甘いように思う。(王世充に追い出されたりとか)

431 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 20:04:53 ID:YPnJKWN60
>>428
別に張須陀は李密を外すための方便だと思わないし、
なぜ李密にそんなにこだわるかも分からないし
李密を入れる時期は隋でいいと思っていたから、わざわざ迷うのかが分からなかったんですよ
すでに前々スレで選外となってるけど、揉めたら悪いと思ったから過去のレスも提示されてますよね?
なのに李密を入れる為にバランス重視でいきませんかと言ってる様に単純に思ったんだけど・・・
(あくまでも個人的にね)
国内平定戦:該当なしとなってますが個人的には李愬が確定かなと思っていたし
(実際何人かが推していますよね)
そうすると残り一枠ですよね?しかもバランス重視で選ぶなら
郭子儀は落選するんじゃないかなと思っただけなんだけど・・・
これで分かっていただけました?
>>421より前で李密の入る時期について話合いしてたっけ?
李密を復帰させるかさせないかの話じゃなかったの?

432 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 21:55:42 ID:O2E8LRtIO
>>431
李密と郭子儀の話はスレの流れから。
実際、>>423-424もバランスを考慮してるんだなと判断しての書き込みになってるよ。
時期的なもの、バランスを考えず、純粋に10名決めるなら、郭子儀を外す理由が分からない。
郭子儀は間違いなく名将だよ。
唐朝から1名しか選べないとして、それが郭子儀だという人がいてもおかしいと思わない。
定員は余ってる。なのにどちらか一方を落とす理由はナニ?
バランスだろ?

>>429でもわざわざ時期を入れてるのは何故?バランスを考えてだろ?

それ以外の解釈の仕方があるのなら教えてくれ。

ちなみに薛仁貴じゃなく李晟、李晟の親子を押し。
李密が入るなら、李光弼より郭子儀といってたのが俺。
だから、なおさら郭子儀を落とそうとしてると思われたのか、皆目見当がつかない。

433 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 22:27:43 ID:O2E8LRtIO
>>428
で薛仁貴を入れてるのは、

@その後、薛仁貴を押す人間が李愬、李晟よりいたから
A李愬と李晟で、これまたどちらが名将か、優劣をつけるのが困難だと思ったから。

この親子の場合も、どちらを選ぶかは好みの問題で、これまた厄介だ。

だったら人気もあるし、実績もあるから薛仁貴で良いかなと。

張須陀のように、あきらかに過剰評価されてるとは、思わないし、
このスレの主旨には名臣である必要性はないし。

バランスを考えないなら郭子儀は入るだろうし、バランスを考慮したら
李愬、李晟のいずれかは入りそうだし。

まずまず無難な選定になるんじゃない?

434 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 22:59:58 ID:YPnJKWN60
O2E8LRtIOさん
スマン正直言うとあの時は自分でも、何が何だか混乱していたみたいで
>>426の>郭子儀と李光弼のどちらか選べというのも李密を入れる為の方便に〜
はおかしな書き方になっちゃってますが別に
貴方を責めるつもりで書いたのではないんですよ
話がおかしくなってしまったのは謝ります申し訳ない
それはともかくバランス重視はいいのだがそれにこだわる故に
郭子儀と李光弼はどちらを選ばなきゃならないのがどうも個人的にはちょっと
納得できないんだよな・・・・          両方とも確定入りでは駄目なのだろうか?
そして残り一枠を賀若弼、薛仁貴、李愬、李晟から
選んだほうが>>433での提案も入りすっきりすると思うのだが
O2E8LRtIOさん、諸兄どうだろうか?


435 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 23:28:45 ID:mBL5m75c0
k

436 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 22:37:35 ID:kBAm/VYJ0
李愬と李晟親子のどちらを選ぶかは好みの問題とかよくカキコされていますが
素人なため全く知識がないので
どなたか李晟について戦績など詳しく教えて貰えないでしょうか?

437 :乱文雑文でスマソ:2007/03/15(木) 21:35:08 ID:9gCtAO1HO
783年、有力藩鎮の乱を討伐に向かうケイ原藩鎮の兵が、処遇問題により
朱スイを奉じて反乱に加わり、皇帝を称して廬竜節度使と連携。
難を逃れた徳宗のいる奉天に兵を進めると、李晟がこれを破り朱セイを逃亡させる。
翌年、李懐光が背くと力戦し、長安を収復に成功。
西平郡王に封じられ、中書令にもなる。
死後、太師を贈られる。
民を愛護し、唐が保てたのは李晟の功と激賞される。

外出中で手元に資料がないうえ、文才もなし。

イメージとしては、張須陀が李密に敗れず長安を奪回し、
安心した煬帝が建康から戻ってきました――みたいな感じ。

文章おかしいね。
ゴメン。

438 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 22:47:13 ID:XbOSZ9sn0
>>437さん レスd!!
李晟のことがすごく気になってしかたなかったんてすよ
しかも解説付きとは、なんともお手間取らせて申し訳ないです

439 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/15(木) 22:55:09 ID:9SYizXpo0
う〜ん。
今、李晟の原文を、な が め て い る のだけど、どうも自分は李晟と李愬をごっちゃにしていたようです。
李愬は、まぁ前にも書いたような戦功で、それは重要な戦功なんだけど
どうも父親のほうが、インパクト強いかも。

まず、李晟はかの河西節度使王忠嗣の指揮下にあり、隴西方面の戦いで武名を挙げていた。
吐蕃の驍将を一射のもとに葬り去り、軍中が歓声で沸いた。
王忠嗣は李晟を「此万人敵也」と絶賛したことから、この人の人生が始まっている。
性、雄烈にして才有り。騎射をよくし、勇敢絶倫。
この辺は、名将猛将を讃える最高級のものですね。
李愬はどちらかというと、策略の多い知将の側面が強い感じ。

詳細は、伝があまりにも長くてすぐにはわからんので、ざっとザルでいきますと…
隴西方面や西川で他国との攻防戦で、吐蕃やタングート等と戦い、これをよく撃破した。
そのあと皇帝の親軍として再編成された神策軍将として、例の河朔三鎮で代表される反乱が常態化している河北の討伐に乗り出す。
魏、邢、洺などを平らげたあと、力をつけすぎた神策軍は一旦、皇帝から冷遇されますが
朱泚が長安を乗っ取り、皇帝が奉天へと蒙塵したとき、これを助けたのが李晟。
このときの功績をもって、神策軍は皇帝禁軍の最有力部隊となった。
ちなみに、神策軍をはじめとする禁軍の総司令官は、宦官が就任した。
唐末における宦官の増長は、実は禁軍の指揮権という強い切り札があったからでした。

で、李晟は徳宗が長安に帰ってくるまで長安付近を慰撫し、略奪などの蛮行はいっさい許さなかったので、長安住民たちは涙を流して感謝したといいます。
それで李晟は鳳翔節度使となって吐蕃らへの備えとなったのですが、その功績の巨大さを危険視されて兵権は剥奪されたもよう。
ただし、左遷等ではなく兵権のない上位職まつりあげられたようです。



440 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 23:11:41 ID:XbOSZ9sn0
◆RQdk7scN8sさん レスd!!

李晟はそんなにすごい武将なんですか?
例えたら五代か春秋戦国時代の誰あたりに相当するんですか?

質問ばかりですみません

441 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/16(金) 00:05:48 ID:9gCtAO1HO
>>439
フォロー、dクス
李晟は単なる一発屋ではないからね。あえていっておくんだけど…

李晟が鳳翔節度使時代、吐藩が大挙してケイ、ロウを一帯に攻め入り、長安を落とし入れようとしていた。
李晟は三千の兵をケン城に潜ませ、通過する吐蕃に奇襲をかけて撃退とかしてる。

桶狭間の戦いで信長が、本陣を襲撃してるんだけど、一説には意図してなかった
偶発的奇襲だったとか。
その説の真贋はともかく、李晟はそれを意図的に行い成功している。

王忠嗣の流れを組む名将だね。王忠嗣を押したら、やたらと責められてたが、
王忠嗣は唐以後の、藩鎮を押さえる為に禁軍を強くし、その禁軍を押さえるために
権限を弱めないとダメだっていう流れに、間接的に影響を与えた人物。
李愬、李晟は直接的に影響を与えた。

蛇足だけど一言コメントしておく。

なんとなく王忠嗣を押した人の気持ちが分かるでしょ?

442 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/16(金) 15:19:46 ID:DpDmY7ot0
>長安を落とし入れようとしていた。 ×
長安を陥落させようとした。      ○

>王忠嗣を押した人。 ×
王忠嗣を推した人。  ○

443 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/16(金) 19:08:15 ID:ghVCf9/z0
>>440 分裂時代と内乱時代とでは、十分な対比はどうかな?
後漢末の分裂と、唐末の分裂は、分裂の深度に多少の差はあれど、同じようなちからがかかっているので
五代の英雄は、ときたま三国の英雄に比せられている。
三国志の物語が大人気を得た時代に書かれた、というのもあるだろうけど。
(そういえば、李靖でさえ、諸葛亮が南征で孟獲を七回捕らえた、という故事を引っ張り出して絶賛している『李衛公問対』)

李晟がどういう毛色の人物と比せられるか、よくわかりません。
五代でいうなら、後梁の康壊貞とか寇彦卿とかにあたるのかなぁ…

>>441

わたしゃ基本的に王忠嗣的な将が好きですよ。ただ、ここでの尺度は基本戦功などになりますので…
王忠嗣がおkなら、五代後晋の桑維翰などを推すのだけどなぁ。

444 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/16(金) 19:40:01 ID:SC2FWitS0
李衛公問対は李靖に仮託した北宋の本じゃなかった?

445 ::2007/03/16(金) 20:49:21 ID:eEEHovKi0
薛礼は「白装束の将軍」として
後々も人気を得た方ですから、
十傑に入れるのが当然でしょう。
また、尉遅恭・秦瓊の「門神コンビ」も
絶対に外せないところですね。

446 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/16(金) 21:17:32 ID:limbYjiOO
>>443
いくらなんでも王忠嗣は無しだよ。
無意味な武力を誇らず、戦わずに相手を屈服させ、
良識や、高い見識をもって王朝を支えたた人物より
薛仁貴みたいに大軍率いて、ドッカン、ドッカン派手にやらかした方が、
ダイナミックで良いよ。

ただ、このての武将にも何らかのフォローや、声を拾ってあげる機会すらないのなら、
それはそれで可哀想だなと思っただけ。

447 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/16(金) 22:54:46 ID:fJOsQJkiO
>>443 レスd!!
◆RQdk7scN8sさん
李晟について色々とお教えいただき有難うございました
李衛公問対は唐末宋初に李靖に仮託して書かれた著者不明の偽書だそうで
問答自体も有ったかどうか疑わしいみたいです

>諸葛亮が南征で孟獲を七回捕らえたという故事
これは三国志演義の中の作り話と考えるのが妥当だと思います


448 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 01:58:23 ID:F/eFGnm60
>>446
このスレ的にはどうかしらないが
王忠嗣のような人物の方が、国・民のためには良い人材だと思う
わかってて書いてるとは思うけど、一応ね
>>385の評伝を読む限りでは、名将という範囲に留まらない人物だと推測できる

自分は、他に挙げられてる武将達について知識薄いから比較はできないから
リスト入りできるかどうかまではわかりませんが



449 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 07:36:09 ID:+2DawTIGO
>>448
違うんだって。
皆が皆、最高レベルの知識を有してる訳じゃないでしょ?

実際オレは、>>443にある康壊貞や寇彦卿、桑維翰って誰?って状態。
そういった人物を紹介する雑談が、混じっても良いんじゃないの?って話。
王忠嗣が出てきただけで、やれ別スレ立てろだの、個人サイト作ってやれだの、
2chに向いてないだの、やいのやいの言わなくても良いだろ?

このスレの選考基準はかなり面白。
安史の乱から名将を1人選ぶとしたら、郭子儀が外れる可能性が高いんだよ!?
凄くないか?じゃ、各時代から1人しか選べないとしたら、
皆誰を選ぶんだろうか?個人的に興味があるし、そんなこと妄想してるとかなり楽しい。

判断基準を変える、変えないの話じゃないし、王忠嗣を入れるって話じゃなくて、
あまり知られてない人物の話題をするぐらい、良いんじゃないかな?って思っただけ。

それすらも許されないって言うなら、それはそれでしようがない。

450 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 09:39:58 ID:hQB+suKQ0
>>449
ん?>>448氏はやれ別スレ立てろだの、個人サイト作ってやれだの、
2chに向いてないだのそんな事について言ってないと思うよ
王忠嗣はこのスレでの選考基準では名将として他の候補と争うのは
厳しいだろうと言ってるだけじゃないの?
それとあまり知られてない人物の話題は寧ろ良いと思いますよ
確かに康壊貞や寇彦卿、桑維翰って誰?って状態だし、逆に教えてほしいのし
雑談が、混じっても別におKじゃないの
つーかそれを許されないって誰が言ってるの?


451 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 10:03:24 ID:+2DawTIGO
>>450
>>344からしばらくの流れ
別スレ立てろは>>351、2ch向いてないは>>369より。

351や369読んだら誰かを推薦したくなくなる。
王忠嗣を推した人がその後も書き込んでるか、はなはだ疑問。

452 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 10:31:58 ID:pJBruhX20
別スレをたてろ云々は、王忠嗣がマイナーだからどうこうというのではなくて、
王忠嗣を推した人の言動に対して「オマエ出てけよ」となったのだと思うが。

まあどちらにも問題はあったと思いますが、これはもう終わったことです。
当人でもない人(おそらく)が、なぜいまさら蒸し返すのか。

453 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/17(土) 11:02:45 ID:pajd0Pms0
2chは排他的な言動が多いから、出て行けとかよくあるなぁ。
自分も三戦ではけっこう喰らった。

歴史の流れに少なからず影響を与える重鎮タイプの名将は、今まででも幾人か出ていた。
でも、司令塔より現場で戦果をあげた実戦指揮官をクローズアップされている。
むろん、ある程度の兵権を委ねられ、方面軍司令官としてその方面の戦略と陣頭指揮していれば文句はないところでしょう。

康壊貞やら3人は五代の武将や文官なので、紹介文等は控えました。

454 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 17:13:18 ID:U1ChqfuK0
似たようなことやってる人発見。

ttp://www.geocities.jp/fukura1234/rekisi/100/100.html

455 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 17:28:41 ID:lzhE9aYw0
>>454
だからそれは中国の本『中国古代百将図説』の引き写し&翻訳

456 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 17:38:47 ID:QIQsI06yO
>>454
おや?韓信スレでハンニバルを熱く語ってる方じゃないですかw


ところで隋・唐の十傑決めるの止ってるけどもう決めないの?

457 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 22:15:13 ID:7NVRVWjb0
他の時代の人からしたら、隋・唐の論議が長引いてるから、
雑談は挟まないで決定して欲しいという風に思っていても
おかしくないだろうなと推測するぜ。

458 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 23:03:31 ID:hQB+suKQ0
 隋・唐
【確定組】
楊素、李世民、李靖、李勣 裴行倹 郭子儀 李克用 史思明
で残り枠は対外戦争から薛仁貴(薛礼)、国内平定戦から李晟の以上10名
バランスを考慮してみましたがいかがでこんな感じでしょうか?


459 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 23:04:50 ID:pJBruhX20
確定は
楊素、李世民、李靖、李勣、裴行倹、史思明、李克用
残っている議題は、
・郭子儀と李光弼をどうするか。二人入れるのか片方にするのか。
・残り一〜二枠を誰にするか
候補は
隋朝:賀若弼
対外戦争:蘇定方、薛仁貴
国内平定戦:李晟、李愬

こんなものですかね?個人的には、どうするにせよ李晟か李愬のどちらかは
確定扱いでいいと思います。

460 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 00:29:25 ID:37K0hFpe0
李晟か李愬を入れて、1枠空けたまま次の時代にいくのはどうでしょう?
スレの流れも、かなりここで止まってますし

461 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 10:45:26 ID:ytr0wd65O
李晟、李愬なんぞ徳宗期の武将だから、戦果的には劣るわけだが。
華北の三鎮は残ったままだし、このスレの定義的には外れると思う。
この二人を入れたら何でもありになるよ。

462 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/18(日) 12:01:08 ID:HFLU/GYp0
>>461 それを言うと、郭子儀も李光弼もはずれると思うが…
河朔三鎮の仕置きなんぞ、150年近くからの問題であり、そうそう武力だけでカタがつくほど生易しいものではなかった。
河朔三鎮を手本として我も我もと独立しては反抗した、河南以南の反乱に一旦終止符を打てたこの親子の功績は大きい。
しかしそれは強化された神策軍の威力だ、というなら特別反対もしない。
そうなれば、曲がりなりにも河朔三鎮の頭を押さえつけることに成功した(河南藩鎮の要衝を平定した李愬の功績が大)、憲宗を推す(盧龍軍、成徳軍を従属せしめたのは穆宗の代だが、憲宗の偉業の継承とみる)。
でも憲宗は司令塔であって、前線指揮官ではなかった。
英主、あるいは大戦略家の下で将たちが各方面で戦功がある場合、平均化されて矮小に映ってしまう。留意すべきところと思う。


463 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 12:36:22 ID:V3m1GGPX0
>>461
国家の絶頂期に国外遠征で活躍した人と衰退期に国内安定の為に奔走した人を
比べて前者の方が上だなんて言っているようなものですよそれ。

それじゃあ李克用も外しますか?あと>462も言っているように李光弼も確実に
外れますね。あとは最後は敗者に終わった史思明も。
他の時期でも、王朝後半期以降の武将は軒並み対象外になってしまいますなあ。

464 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 13:54:08 ID:ytr0wd65O
李克用はその時の最大の懸案事項に対処してる。
李晟、李愬は?

中興の土台づくりをしたが、順地化をはたし、節度使の力を弱めた功労者は
やはり憲宗にあるのでは?

ある出来事の象徴的な人物と、それを支えた人物とでは、有利不利が出てくる。
揚げ足取り、あら探しまでして無理に上下を決めないとズルズル長引くよ。

じゃ、李晟と李愬でどちらが上か決めれるのかい?
ほとんどの人が李晟のことを知らず、その業績についでの質問が出たぐらいなのに
よく知らないけど名将にしましょうって、それはちょっとおかしくない?

いったん幕を引いた方が良いと思うんだ。それとも何か決定打的なものがあり、
それを聞いたら即決出来るものがある?いま膠着してるよ。

465 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 14:15:40 ID:7IgtWm+rO
いっそのことバランス取るの止めたらいいのでは?
新・後漢でも無理にバランスを重視した為(個人的にはそう感じた)
その方がややこしいことにならないと思うけど…
結局ああでもないこうでもないと言い合うだけで前に進んでないじゃん(ry

466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 15:32:08 ID:AxkmtOFW0
>>465に同意

467 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/18(日) 16:16:27 ID:HFLU/GYp0
>>463
李克用に関して、誰もなにも言わないけど、安史の乱以上に唐朝を叩きのめした黄巣軍に連戦連勝したことが、とりあえずランキングする最大の理由でしょう。
それは国内の内乱平定に類するものだろうけど、この頃の朝廷はすでに一地方勢力程度で、「唐帝国」の象徴的なものでしかなかった。
憲宗の中興も、実に短い期間だけの偉業でしかなかったのは
節度使という使職の権限がいかに巨大で手ごわいか、という証拠なわけだけど(戦国期の独立王国と比定して無理はない)
その落ちぶれた唐の権威を一時なりでも取り戻した、李克用の軍事的功績は大きい。

ただし、李克用は連戦連勝とはいかない。いくらか敗退して、戦略的条件を満たすことができなかったこともあるし、朱全忠には滅亡寸前まで追い込まれてもいた。
と言って、朱全忠は黄巣軍には手を焼いたりもしたので、単純なる用兵手腕の上下優劣はできない。
朱全忠は戦場で李克用に負ける以上に、戦場の外で勝っている。
李克用の性格を利用して激発するかたちに持っていき、その立場を弱め、幽州や雲州軍閥らと語らって
なおかつ朝廷から朝敵認定の判を押さしめ、長大な包囲網を敷いた手腕は、間違いなく朱全忠ならではのものであり
それは政略・謀略の類だった。
(ちなみに、岐州の李茂貞が同じように朝廷の忌避を買い、朝敵とされるけど、朱全忠主導の李克用包囲のときと比べ、参加する軍閥はほとんどおらず、うやむやになった)
この反李克用包囲網は、李克用と義子・李存孝らの阿修羅の活躍で一方的敗退で終った。

そしてその後、李克用陣営で最大の用兵手腕と勇猛を誇る李存孝が内部確執のあげく反乱したので、李克用の兵勢は一気に落ちることになった。
あるいは、李存信と李存孝の不和を見て取った朱全忠の謀略だろうか? とするのは読みすぎだろうか。

まぁ、唐の最末期、つまり朱全忠による洛陽遷都までなら、李克用は朱全忠に滅亡寸前まで押し込められていても、戦場では最強の部類に入っていた。
ので、象徴的な立場からしても、また河北の重鎮という意味からも、外す理由は少ないと思う。

>>465
バランスにこだわりすぎる必要はたしかにないね。
とは言え、じゃあ何を持って判断材料とするか、が難しい。
象徴的な立場をとるのか、戦略への貢献度をとって多少の敗退は軽視するか、知名度を重視するか…

李晟・李愬に関しては、たしかにバランス重視のためもあったけど、その軍事功績は大きいと思ったので、推した。
どっちが上か? と言われると、寝たふりするしかないが、他の、特に優秀な司令塔の下で戦功のある将と比べても、下であるとも思われない。
まぁそういう場合、功績はその優秀な司令塔に帰されるべきものではありますが…

468 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 16:58:26 ID:7IgtWm+rO
 隋・唐
【確定組】
 楊素、李世民、李靖 、李勣、裴行倹、薛仁貴、郭子儀、李光弼、李克用、史思明
判断材料とか今更ややこしいこと言わなくても
この十名でいいと思いますけど…
(知名度、貢献度、推薦する人の多さなど十分満たしていると思うし)
李晟・李愬は次点と言うことで納得して頂くしかないのでは?
諸兄及び◆RQdk7scN8sさんいかがですか?
これで揉めるなら前には進まないと思いますけど…

469 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/18(日) 17:12:45 ID:HFLU/GYp0
>>468
>>判断材料とか今更ややこしいこと言わなくても
あ、すみません。ついです。
大勢には従います。

470 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 17:24:38 ID:V3m1GGPX0
>>464
李愬・李晟はその時代の「最大の懸案事項」に対処して、成功してますよ。
政治的な業績、功績としては最終的に憲宗のものになるでしょうが、その
ために実際に戦場で指揮を執った軍事的な功績・業績は現場司令官のもの
としていいでしょう。少なくとも、このスレでは。

そんなこと言ったら前漢期は劉邦や潅嬰をはずして張良となってしまう。

471 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 17:27:27 ID:V3m1GGPX0
追加
李光弼よりは李晟・李愬のどちらかを推します。どちらかと言われたら、
首都と皇帝を救った功績の大きさで李晟かな。

472 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 18:41:56 ID:ytr0wd65O
>>470
俺、以前に薛仁貴より李愬、李晟を推してたんだよ。
でも今は薛仁貴を入れるべきだと思ってる。

まず、李愬・李晟に対しての資料が不足している。
李晟の業績に関しての質問がでたぐらいで、メジャーとは言い難い。
李愬のほうがいくらかマシっぽいが、俺、李愬が徳宗期の武将みたいなこと書いたけど、
李愬は憲宗期の武将の間違いだよね。

たぶん、薛仁貴は建国の功臣と書いたら、ツッコミが入ったと思うんだ。
でも、李愬のときは入らなかった。
それを思うと、もう少し資料がそろってから、改めて議論してはどうだろう?


あと、李晟に関してはたいてい、唐の力が弱く、大勢は変えられなかったと云うコメントつく。
このスレ的には減点になると思うよ。
朱セイの件にしても、李懐光にしても、その敗因は、李晟だけの功績じゃないけど、
その辺はどう評価してるの?

473 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 22:13:00 ID:ytr0wd65O
V3m1GGPX0さんに謝ります。
私の意見、反論は暴言です。撤回できるなら撤回したいです。

李晟は徳宗より早く死んでおり、李晟が動員できた兵力では、
近代兵器を使用しない限り無理です。

薛仁貴がいなくても唐は唐たりえるも、李晟なくば唐は滅んでたと思います。

純粋な功績ではなく、それ以外のもので判断するのは間違ってます。
バランスを考えなくても、李晟が入ってもおかしくないです。

なぜ私が李愬、李晟を評価し、薛仁貴より上と判断したかは、
後日かならず資料を明記します。
自分で買ったり、図書館で調べたものなので、まこと僭越ながら
判断材料、基準になると自負しています。

本心を言えばV3m1GGPX0さんの意見に賛同してるだけに、
こんな暴言を吐き、不当に辱めたことを恥じています。

本当にゴメンナサイ。

474 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/19(月) 02:11:58 ID:tON47iFI0
詳しい事情を知らず愚かな質問をかもしれないが李世民は違うのではないだろうか。
隋唐の十傑と比較すると李世民個人の武勲は劣ると思いますので。

475 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/20(火) 16:50:32 ID:bnRJMOjS0
え〜。
とりあえず、>>468さんの

隋・唐
【確定組】
 楊素、李世民、李靖 、李勣、裴行倹、薛仁貴、郭子儀、李光弼、李克用、史思明

【候補】
 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥
 李孝恭、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、安録山、
 劉方、蘇烈、劉仁軌、李晟、李愬、黄巣、高駢 、李存孝


と、いうあたりで、暫定決定としましょう。
まぁ、郭子儀か李光弼をはずして、李晟か李愬を入れるか、は隅に置いておきましょうか。
で、次の時代へと…

テンプレより。

五代〜北宋・遼
【確定組】
 朱温、李存勗、郭威、柴栄、趙匡胤、曹彬、楊業、狄青
【候補】
 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、符存審、
 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、
 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊
【論争中】
 耶律休哥


さて、ここで。
前スレで「遼」についての処遇を、自分は「外す」と結論しました。
この件については論争中であり、より意見の多い方をとるという民主的な手法によってもいいかな、とか思っています。

で、確定から「朱温」なんですが、コレ、どうも自分が思うに、戦術的手腕は今ひとつかと。
というのも、上にも書いたように、黄巣の残党にも結構手を焼いており、李克用がはるばる救援に駆けつけてくると一気に平らげてしまったという事実があります。
(梟雄の度量として、李克用の兵勢を利用したという見方もむろんできる。恐ろしいヤツよ)
で、淮西に起こった秦宗権の乱にも、少し手を焼いていました。
(このとき秦宗権は洛陽まで陥とし二十余州を得るという、なかなかの勢力を誇ったのだけど
汴州が無事だったのは陳州の刺史・趙犨の奮戦によるところが大。
陳州は秦宗権の本拠、蔡州の隣で汴州の南に位置していた。朱温はこれを喜び姻戚とした)

朱温は秦宗権を駆逐するのに、天平軍(鄆州)の朱宣、泰寧軍(兗州)の朱瑾従兄弟に援助を求め、供に撃破した。
(朱宣・朱瑾従兄弟の兵勢はすこぶる強盛だったし、朱瑾は槊の名手として鳴り、後に淮南の楊行密から篤く遇された)
だけど、その直後朱従兄弟の陣営に難癖をつけて激発させ向こうから開戦させるようしむけた。

上記の二鎮に加え、徐州を含んだ一連の東征では、朱珍や猛将の葛従周、また龐師古などの諸将が活躍した。
しかも、康壊貞、賀懐という後梁期を担う将帥を得るに至っている。

…というようなわけで、戦術的な冴えというよりも、政略・謀略が非常に辛辣な、まさに乱世の梟雄といった感じなので、ちょっとこのスレとはそぐわないかな? と思っている。

476 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/20(火) 18:36:52 ID:lrQDmITa0
>>475
薛仁貴を入れることや郭子儀と李光弼を二人ともいれることはいつのまに決まったの?

477 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/20(火) 19:40:55 ID:bnRJMOjS0
>>476
決まっていない。
停滞しているよりは、先へ進もうかと。
だから暫定としたのです。異論ありなら、論拠もついでにいただけると助かりますが。

478 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/20(火) 19:44:28 ID:/Vy+AIyJ0
2週間以上スレが、この時代で止まってるわけだし>>475の案に賛成
根拠をだせば、同程度の根拠をもった論が出されるだけで
堂々巡りになってしまうよ


479 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/20(火) 20:11:44 ID:xsHWcaih0
朱温以外の七人は確定かな?
これで趙匡胤まで外されたら俺泣くわ

480 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/20(火) 20:15:10 ID:bnRJMOjS0
>>479
いや、元朗どのは確定でしょうが…
国華さんには難癖つけようかと、たくらみ中…

481 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/20(火) 20:55:21 ID:Dtul5wsf0
前からずっと気になってたんだけど、范仲淹は北宋だと思う

482 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/20(火) 23:23:53 ID:lrQDmITa0
>>477
だったら、確定に入れるのはやめときましょうよ。でないと私のように誤解する
人が出ますよ。

【確定】
楊素、李世民、李靖 、李勣、裴行倹、(郭子儀 or、and 李光弼)、李克用、史思明
【候補】
賀若弼、薛仁貴、(李晟 or 李愬)

こんな感じで暫定で次へというのなら賛成。

五代〜北宋・遼については、確定は朱温と郭威以外は賛成。
あと遼の扱いについては、外すで賛成。あの辺りは現在の中国の範囲内であっても、
シナではないと思う。特に前スレででていた、「現在の中華人民共和国の領土内」という
範囲は無理がありすぎ。

483 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/21(水) 15:06:12 ID:nqZJ3bEG0
李晟の事跡(李晟列伝は長いんで苦闘してた。しかし読めば読むほど名将やね)
を捜してたらいつの間にやら五代〜北宋ですか。俺は遼は入れる方向に一票。
元の時代に(漢化した)契丹人が「俺らも中国人やんか!!」と騒いで国史が
編まれたわけやし、俺のスタンスは「契丹やろーが女真やろーが蒙古やろーが、
中国の史書に書かれとけば中国武将」やから。(中国の人にいきなり「アンタ
モンゴル人と同じやけん」って言ったら殺されそーやが)。それに「泣く子も
黙る」耶律休哥ほどの名将を排するのが勿体無い。おまけにここで異民族容認
を主張しとかんと次の時代で蒙古が外れる可能性大やん。そしたら南宋・金・
元では10人出せんってことになりかねんのよ、あの時代。宗沢・岳飛がおれば
韓世忠・呉兄弟・劉リはまず出番ないし、南宋晩期になると孟珙が突出しすぎ
やから劉整とか李庭芝とか呂文煥あたりはどーしても霞む。張世傑とか論外やし。
現在の候補から孟珙と同格の存在を捜すとしたら史天沢ぐらいしかおらんが、
史天沢が中国本土で戦っとるんかどーか俺はよく知らん。
 ま、その議論はちょっと先送りにするとして、
 遼朝を認めてもらうべく《遼史》から戦功顕著な人物をいくつか挙げます。
蕭継先・・・遼軍の先鋒。統和2年の戦いで宋軍を叩きのめし、北府宰相となる。
韓徳威・・・タングートを破ったり西夏を降したり。ついでに楊業にも勝ってる。
耶律斜軫・・・休哥と並ぶ遼朝の双璧。高梁河の戦いで宋軍を大破。楊業を捕まえたのもこいつ。
耶律沙・・・白馬嶺で宋の将軍五人を殺す。高梁河の戦いでも休哥、斜軫とともに大活躍。
蕭孝穆・・・術烈の叛乱鎮圧に活躍。遼東を平定し“国宝臣”と呼ばれる。
耶律鋒軫・・・宋伐戦、西夏討伐に活躍。“勤国の忠君、挙は世に双ぶなし”だそうな。
 あと皇帝で耶律阿保機、耶律徳光、耶律隆順あたりは名将と呼んでいいかと。
しかし金と同じで、晩期の遼には名将たりえる人物がおらんね。名将は初期に
集中。遼にも抗金の名将がおらんか捜してみたんやけど、見つからんかった。
 ついでに。叩きに挙げといてなんやけど、曹彬は遼軍にかなり負けとるから、
外すとしたらまずこの人になるかね。入れ替え候補は韓g、范仲淹、チュウ師道
あたりから? この三人、何故か南宋の候補になっとるけど、北宋です。多分
俺のミスです、ごめんなさい。

484 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/21(水) 16:43:11 ID:QAVBllUN0
>>483
おひさしです。
五代〜北宋まで進めちゃいました。
(李晟伝について、自分は早々にギブアップでした。理由は長いからw ああ、でも細かいところはアップしてくださいね。頼みました)

ああ、それで「遼」についてだけど
たしかに中国の歴史において無視できない存在には違いない。だけど…
まず、絶対的な中国内地での戦いが少ない。
また占領で得た領土は維持できていない(中国内地での話。汴州、恒州などの主要地はすぐ放棄した)。
さらに初期はあくまで「契丹国」であって、漢風に国号を変えるとき、反対も多数あり
すぐもとに戻してみたり独自の文字もあるとか、ちょっと他とは色彩が異なるかと。
と、いうあたりで外そうかと。

あくまでこのスレの定義として、に限りますがね。
自説は、中国の偉大なる北朝政権というふうに捉えています。
事実、北宋は遼のことを「北朝」と呼んでいるわけだし(後晋以降そうだが)。

>>曹彬は遼軍にかなり負けとる

つうかですね、この人、あんまり戦術に輝かしいものがなくって。
なんというか、信頼される二番手、という感じで前線での戦闘指揮というより、統率者的な手腕のタイプ。
むろん、名将とは衆をうまく率いることが第一義であって、戦術など枝葉なのですが、ここでは戦術の洗練がメインです。
後蜀討伐のときも、王全斌ら主将連中が略奪に走っているときも、部下を抑えそれを為さなかったり
江南平定戦も、略奪などをさせないということでの起用という感じだった(江南国には長期的に宋を防ぐだけの軍事力は既になかった)。

ついでに。
朱温の抜ける穴には、後唐の符存審を入れたいと思います。
理由はちょっと待ってください。

さらにもう一つ。
郭威どうしようか…
名将には違いないが、柴栄や趙匡胤ほどのインパクトはないので、落とそうかと…
(歴史的意義からいえば、プロト趙匡胤ではあるけど)
官僚天国北宋の中期以降で、もちょっとなんかいないのかなぁ?

485 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/21(水) 18:41:14 ID:8Q4bMCOh0
1:土着王朝期 先秦〜秦⇒西漢⇒新⇒東漢
2:浸透王朝期 魏晋南北朝〜残唐五代
3:征服王朝期 遼vs北宋⇒金vs南宋⇒元⇒北元vs明⇒清

土着王朝期:支那≦夷狄
浸透王朝期:支那(と言っても実態は半夷狄)≧夷狄
征服王朝期:支那の文弱化が著しく、比較にならない。

遼:玄関に何時の間にか入りこむ。
金:↑をぶっ殺して居間に上がりこむ。
元:↑をぶっ殺して家中で暴れる。本格的にレイープするも飽きて出てく。
北元:家の周りをうろつく。討伐に出てきたアホを拉致したり、自室の扉をノックしまくって嫌がらせをする。
後金:↑をぶっ殺し、討伐に来たアホを八つ裂きにする。玄関に押し入ろうとした瞬間に最新型のセキュリティーシステムで爆殺される。
清:正式に結婚。変態的な髪型を強要するものの、最初は円満な関係を築く。途中から↓にボコボコにされ、リスペクトを失い一家崩壊。
洋夷:↑を阿片漬けにして夫婦共々輪姦。

486 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/21(水) 20:49:08 ID:G6CLZcIJ0
少々時代の流れに逆らうけど、やっと形になったんで投下。
・・・これでも削りまくりの飛ばしまくりなんやが、二つに分けんといかんね、これは。

李晟(727−793。字は良器)
 18歳で軍に入り、驍悍なこと比類なし。王忠嗣の下で活躍し、「万人の敵」と称される。
 羌族の叛乱に三回出陣、三回とも大勝利を得て帰還する。
 吐蕃が霊州に侵攻、これを破る。塩倉でまた交戦、捷つ。剣南で交戦、三度捷つ。
 河北で田悦が叛乱、朱滔・王武俊がこれに呼応するとこれを攻略にかかる。清苑を囲んで水攻めし、
落城間近まで追い詰めるが途上で病気に倒れ、やむなく兵を還す。
 病気が快癒、再び田悦討伐の準備を整えるも京師でクーデターが発生、徳宗は長安を棄てて奉天に。
詔を受けた李晟は涙を流し、一刻も早く徳宗を迎えにと急ぐも朱滔・王武俊らの妨害を受ける。
しまいには朱が長安で皇帝を僭称する始末で、李晟はこれらへの対応に追われる。とりあえず劉徳信と
合流、兵を合し軍士をいたわり、官軍の意気を上げる。
 朔方節度使・李懐光が北上、国難に当たって李晟と合流する。李懐光の李晟に対する僻みとか嫉妬とかの
描写があるが省く。とりあえず長安を攻め、賊軍を打ち払うことに成功。李懐光の軍は略奪暴行をほしいまま
にしたが李晟は部下に民を傷つける行為を一切禁じ、民衆は李晟の庇護下で安心できた。
 李懐光、完全に李晟に嫉妬。確証もなく軍法会議にかけるが逆にやり込められる。しかし李晟は李懐光を
責めず、神策軍を返上、子飼いの軍だけで以後の作戦をやってのけると約束する。
 もはや止められない李懐光。ついに朱と手を組み、徳宗から軍権を取り上げて神策軍を私物化し、長安を
再奪還して渭橋に駐屯する。節度使・李建微、神策将軍・楊恵元らの軍を接収し、ついでに楊恵元を殺す。
李建微は脱走した。
 この年、流浪の徳宗は梁州に。付き従う官員は常の十分の二、三。そこに李晟が軍を率いて救援にやってくる。
数々の官爵を授かり皇上の無事を確かめて号泣した李晟は長安回復の遅れを徳宗に謝した。
 李懐光経由で神策軍を掌握した朱の軍は強大、対する李晟には財貨も増援もなし。しかし彼はおそれず、
その兵もまた意気軒昂、忠義をもって人心を掴んだ。奉天の将・載休顔、邠寧の将・韓遊瓌、潼関主将・駱元光、
神策軍主将・尚可孤らはもともと李晟の節度下にあったものたちで、つぎつぎ賊軍を見限って李晟についた。
三月、追い詰められて奇襲作戦ぐらいしか思いつかない李懐光だったが、旧神策軍の将、孟渉・段威勇が官軍に寝返り、
大声を張り上げたので奇襲も失敗した。


487 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/21(水) 20:50:15 ID:G6CLZcIJ0
 いまだ長安に還れぬ徳宗は南山に。渾減を李晟のもとに派遣する。李晟は渭橋で李懐光と対峙するも食糧不足により撤退。
神策軍を掌握して兵力的には圧倒的に上回る朱だが、士卒とともに戦う李晟の姿に将士は奮い立ち、逃亡するものは一人もなし。
擒らえた賊軍の間諜から聞き出した情報により五月三日、通化門前に布陣し、すぐに軍を返す。渾減、駱元光、尚可孤らの
軍が集う。五月二十五日、夜半。心理的に追い詰められた賊軍が城門を空けるや総突撃、大いに賊軍を破り、さらに光泰門
まで軍を進めてこれを抜く。夜党は白華に逃げ込んだ。
 翌日また出兵、賊軍を切り崩す。二十八日、一斉攻撃。十回以上にわたる戦闘のすえ賊軍を破り、勝ちに乗じて自分の精鋭
百余人で追撃し、千余の賊軍を撃破、投降させた。
 同日、長安に入城。「私李晟は〜(以下略)」のスピーチで人心を掌握する。李晟直属の大将・高明曜が賊の娘を犯し、
司馬伷が賊の馬を私物化するとこの二名を斬り、綱紀を粛正して民衆に称えられた。二十九日、賊の李希倩ら八人を擒らえ、
斬って棄市する。
 六月四日、梁州の徳宗を長安へ迎える。帝は涙を流して喜び、「天が李晟を遣わしたのは社稷万人のためであり、朕一人の
ためではない」と絶賛した。
 吐蕃の宰相・謀略家の尚結賛は李晟を憎み、「唐の名将は李晟、馬燧、渾減のみ。この三人を除けばわれらの憂慮はなくなる」
として反間の計を仕掛ける。馬燧・渾減の二人は吐蕃の計略に乗ったが李晟は計略に乗らず、貞元二年十月、吐蕃の摧沙堡を
急襲して抜いた。しかし三年、巨大になりすぎた功績により軍権を奪われ、軍事顧問として朝廷にとどまることとされる。
ちなみに吐蕃の計に乗った馬燧は節度使の職を罷免させられ、渾減は単騎吐蕃の軍に突撃、将士すべてが落とし穴にはまって
陣没した。結局すべて尚結賛の狙い通りとなった。五年、徳宗の意向で長安城門に李晟の彫像が彫られることとなる。
 李晟は朝廷にあっても直言諫言を吐き、建国の功臣・魏徴に比せられた。ひととなりは生真面目で寡黙、部下の小善もよく察し、
必ず賞した。反対に徒党を組んで悪事を働くような輩には才能があっても大事を任せなかった。面倒見がよく貧しい人々を救済
し、それを苦痛に感じるところがなかった。貞元九年没。謚は忠武。

 ・・・これで「李晟って誰?」って質問には答えられるかと。

488 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/21(水) 21:57:50 ID:zJgCj7z+0
遼や元についてですが、一つ。

岡田英弘氏によれば、東アジアではシナの正統王朝の系譜として隋→唐→宋と
続くのにたいして、全く別の遊牧民による帝国の系譜があるそうです。
それは一時は唐の太宗による突厥征服によって中華の支配者である皇帝が遊牧民
の皇帝である可汗を一身に兼ねて統一したが、すぐに分離して唐はシナのみの皇帝、
また遊牧帝国としてウイグルがおこり、その流れは契丹の遼から女真の金、そして
モンゴルの元へと流れて、フビライの時代にシナを呑みこんで、今度は逆に遊牧帝国
の可汗がシナの中華皇帝を兼ねることになったと。

だから元の脱脱が正史を編纂しようとしたときに、遊牧帝国の前代史として『遼史』、
『金史』を編み、征服したシナの前代史として『宋史』が編まれたと。
これに対して南宋遺臣の学者たちは「中華の正統は宋なのだから『宋史』だけを編めばいい、
『遼史』や『金史』は偽史だ」と批難したそうで、江南の文人楊維禎は皇帝に対して
「元がシナを支配する正統性は、本来の正統王朝である宋を滅ぼすことによって手にしたの
だから、宋を正統王朝として正史を編めばいい。遼や金はシナの正統王朝の系譜には入らない
のだから、その歴史は『宋史』の中の「契丹列伝」「女真列伝」として付録すればいい。独立した史書と
して編むなどもってのほかだ。」
と抗議の意見書を出したとか。おそらく、これが伝統的な漢民族の歴史観なんでしょうね。

489 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/21(水) 23:03:59 ID:vCJbaLmP0
>契丹人が「俺らも中国人やんか!!」と騒いで国史

「異民族に漢民族が負けるのは屈辱だから奴らを中華民族にしちまおうぜ」
っていう大陸の伝統を忘れちゃいけないと思う
遼は契丹に戻ったりして国粋派と中華派が居たし
本人達が中国の一部だと思ってたとは思えない
中国の一部だと思ってた人の資料しか残ってないが正解だろう

490 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/21(水) 23:49:17 ID:N2cKP9e/0
遼を入れる入れないの判断だけどね。
この国の扱いに関しては、他の時代を選考してきた人間から見ても
不公平じゃない基準で決定して欲しいものです。

491 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/22(木) 01:09:27 ID:xsWdOEQZ0
>>490
一応俺も全時代(隋唐はほんのちょっとやけど)選考に関わってきた身やし、
公平を期すのは確かに大切だわなとも思うんよ。でもあの時代、遼・西夏が
北宋を散々苦しめたのは確かやし、その最たる存在、耶律休哥その他を除外
して五代と北宋だけから選考するのはむしろ不公平やないかなーとか思うん
やけど、どーでしょか? 東西両晋なんかもっとカオスやったやん。

>>489
「やつらを中華民族にしちまおうぜ」という大陸の伝統。
確かに漢民族的にはそーいう面もあったやろーけど、遼の場合は国家成立時
から実録を作って元代まで歴史を保存、内容も充実したものと評価されとる
(ただし短期間で編纂されたため不備も目立つ)から、中原志向はなかった
にしても中国的国家作りを目指していたのは確かなのではと愚考する次第
なのですが、屁理屈かなこれ。

492 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 01:16:05 ID:G6anuSEy0
皇后自ら兵隊を率いる国家が中国的国家なのか?

493 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 01:16:27 ID:ioFX6o4r0
遼などは蒙古や女真も含めて塞外民族名将百選みたいなのに入れたらどうだろか。
冒頓単于などのように中国を脅かした恐るべき外敵として。

494 :490:2007/03/22(木) 01:22:20 ID:W+1WwOUh0
>>491
遼を入れるなら、冒頓単于が100選の選考にすら挙がっていないのは
おかしな話だとも思うんですけどね。

495 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/22(木) 01:28:54 ID:xsWdOEQZ0
>>492
 中国的国家を“目指してる”途中だから、まぁ多少の無茶はあってもいいかと。
>>493
それだけは勘弁。猛将百選とか名臣百選とか、途中で停滞しとるやん。
塞外民族の武将だけで100選って絶対無理な気がするし、それなら素直に遼を
除外して先に進むほうを選ぶ。しかし遼排斥派って多いな。

496 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 01:31:51 ID:BkrF+CUgO
>>493
そうなると異民族系王朝をどこから含めるのかの境界線に悩まなけきゃならないし
まあ一応ガイドラインは既にあるからそれを当てはめればいいでしょ

497 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 01:32:24 ID:9E/D5ASB0
>>491
さんざん出たけど、中国王朝を苦しめたから入れろというのならアヘン戦争期の
イギリスの軍人は?となります。そこまでいかなくても、例えば楊国忠の遠征軍
を撃破した南韶などは?

もう一つ、中国的国家作りを目指していたというのなら、遼だけでなく朝鮮や
日本だってそうですよ。それだけで中国扱いというのは無理がありませんかね?

>494が言われてますが、明らかにシナの外の塞外民族まで入れるのであれば、冒頓
単于は絶対に外せない存在になりますし、明の時代には土木の変の勝利者エセン、
モンゴル国家を再興したダヤン、北アジアから中央アジアにかけて大帝国を築いた
アルタンなども中国の武将として議論の俎上に上げますか?

498 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/22(木) 01:53:23 ID:xsWdOEQZ0
>>494
冒頓単于は確定入りしてもいいのでは? と思っとるよ、俺は。
少なくとも劉邦より将才あるやろーし。前漢は得意分野じゃないからあんまり
口出しせんかったけども。
あと後漢で烏丸の蹋頓とかも。
こいつは張遼に殺されたけど、北方でかなり幅きかせとった存在やし。

エセンとかダヤンとかティムールとかも俺的には中国の匂いがするんやが、駄目ですか?
アルタンは俺の一推し、明の馬芳にやられとるやん。これまた中国でいいと思う。
イギリスの将校たちは地続きと違うから微妙やけど、用兵手腕さえ確かならオッケーでは?

・・・なんか俺、やけくそになってる感もあるな。別に冷静なんやが。

499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 02:07:09 ID:W+1WwOUh0
>>498
最低限>>21の基準を満たしてなければ、極論すればスレ違いの
話ですね。

500 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/22(木) 02:15:37 ID:96ebJE840
いや、別に諸兄に喧嘩売っとるわけやないから。
俺が述べたのはあくまで俺の主観であって、
違うやろと思うなら「屁理屈こくな」の一言であっさり解消するんよ?
そこまで遼に執着してないってどっかに書いたはずなんやが。

501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 02:20:27 ID:G6anuSEy0
お前がレスしなければ終わると何故気づかん

502 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/22(木) 20:04:59 ID:BgsEBHfT0
よくはわからないが、冒頓単于はだいぶ違うような気がする。
例えて言うなら、日本の武将として李舜臣をもってくるくらい違和感ある。
遼は唐が崩壊してのち、中国内地に新たな統一政権ができる前に、巨大な統一政権(中華政権とは違う根っこ)となっており
晋も後唐も後晋も北宋も、事実上の衛星国家であって(真の衛星国家は後晋だけ)、まぁ中華という由緒あるお国が
頭を押さえつけられていた、苦難の時代だったわけですよ。
その意味では金も元も同じことではありますが、中国内地への干渉の密度というか、期間というか
そういったものが遼には足りないかな、と。
この際、匈奴や突厥、ウイグル、南詔、吐蕃と同じと考えるのはいかが?(国史は華麗にスルーということで)

503 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 20:07:58 ID:0wSl8cUL0
>>502
> 日本の武将として李舜臣をもってくるくらい違和感ある。

どちらかというとシャクシャイン、アテルイや薩摩藩の支配下に入る前の琉球の人物を上げられる程度の違和感ではなかろうか?

504 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 21:10:27 ID:agkaWfz50
誰がどの程度の違和感を抱こうが自由ではなかろうか?

505 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 21:17:32 ID:sKLTOXlHO
正史として遼史、金史、元史、清史稿があるのだから、いっそのこと
これらの王朝に属した者は対象とする。
ただし、その業績は万里の長城内の戦いや、対中華王朝との戦役のみをカウントし、
それ以外の戦いは、戦史的に重要なものであっても、一切考慮しない。

鉄木真のモンゴル統一時の戦いは、この場合はずれ、伯顔の伐宋は入る。

こんな感じ。

506 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 21:57:22 ID:u3kHLofq0
>>502
冒頓単于はだいぶ違うどころの話ではない。全く別物。
漢代の匈奴は突厥、ウイグル、南詔、吐蕃と同じ扱いにするのが妥当。    
南宋で言えばタタル、ナイマン、オイラート的存在。

>>505の提案なら問題なさそうでは?
これでダメならすっぱりと例の人に諦めてもらえばいいだけ!!

507 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 21:58:25 ID:VZGb6AWu0
西夏はダメなの?

508 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 22:28:55 ID:u3kHLofq0
>>507
いいとは思うけど候補に挙げるほどの武将いないでしょ?
(確か李継遷、李元昊ぐらいしか居なかったキガス )

509 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/22(木) 22:42:14 ID:9E/D5ASB0
>>505
いいと思うが、一点だけ。
「対中華王朝との戦役のみ」は「中華王朝征服の戦役のみ」とすべき。
単に中華王朝との戦いというのでは前述の冒頓単于やエセン・ハンなども入ってしまう。

これだと遼は耶律休哥を含めてほぼ除外(対象になるのは耶律徳光くらいか)
金は靖康の変以降。清は入関以降。

510 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/23(金) 00:19:40 ID:XxeR28Vb0
別に遼を諦めるのは問題なしです。
あと、ちょいと謝る必要が出てきたんで一言。
俺答(アルタン)も也先(エセン)も正史の列伝に入ってないんやね。
これは「正史に伝があれば問題なし」という俺のスタンスに反するんで
中国武将ではないなと。
イギリス将校も《清史稿》に名前挙がってないしね。昨日は長々とすんません。
ただ、中国の史書に《遼史》はあって《朝鮮史》、《日本史》はないんやから、
同じく中国的国家作りを目指したからと言って
遼と日本、朝鮮を一緒の俎上に上げるのはちょいとナンセンスではないかと。
ま、言いたいことはそれだけ。
これ以上遼にこだわると前みたいに荒れる原因になる気がするんで、
これでスパッと諦めますわ。もとより遼にはそれほど固執してないし。

511 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/23(金) 00:47:08 ID:VqdxipuS0
>>509
>>505の基準に従うなら冒頓やエセンが入る心配はいらないと思うが。
完全に外部勢力だった匈奴やオイラートと、中国の一部を長期間支配した
遼はかなり違う。

この場合遼は長城内で戦った武将は入ることになる。

512 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/23(金) 02:20:24 ID:7Om45kvYO
>>507
名将の選考基準が、すべての時代で一定していたとは思えない。
人間がやることには限界があり、そのつど例外がある。

正史があり、後の王朝から正当な中華王朝である、もしくはそれに準ずる
政権であったと目された遼でさえ紛糾している。

西夏の人物が入るには、
@名将であることを証明する
A中国の人物であることを立証する
以上の事が必要だと思われる。

例えば西夏の景宗、李元昊は、宋に服従する父、李徳明に対し
英雄に生まれた以上、王者となり覇業を遂げて当然なのです。どうして宋室に媚びる必要がありますか
と答えたという。

彼の目指したモノは、制度的・文化的にも宋からの独立であり、
文官・武官に独自の服装を定め、人民に坊主頭にする事を強制している。

彼の本意が宋からの独立ではなく、中華征服なのであれば、入れても良いかもしれないが。

513 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/23(金) 02:20:45 ID:Hm6YJx1f0
PS3でFolding@homeが利用可能になりました!

タンパク質解析プロジェクトFolding@homeで病気で苦しむ人達を救えるかも。
PS3をお持ちの方、下記いずれでも構いません、ご参加下さい。

・2ch全体として参加したい方
チーム名:Team 2ch
PS3でFolding@homeしようぜ(Team 2ch)
http://ex22.2ch.net/test/read.cgi/ghard/1174030817/

・PS3所有者として参加したい方
チーム名:2ch@PS3
【PS3】Folding@home総合スレッド1【Cell】
http://ex22.2ch.net/test/read.cgi/ghard/1174557458/

514 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/23(金) 20:02:54 ID:juGduEuT0
楊師厚(?〜915)
潁州斤溝の人。元々は李罕之の部下で、李罕之が李克用に降ると、これに従った。
のちに罪をえて朱全忠のもとに逃れ、宣武軍押衙・曹州刺史となった。
青州の王師範との戦いで偏将八十余人を捕らえる戦功を挙げる。
また襄陽の趙匡凝を破る。
山南東道節度使・同中書門下平章事に任ぜられた。
劉知俊が長安に拠ってそむくと、これを奇兵をもって撃破した。
また晋の周徳威を蒙坑で破り。保義軍節度使に転じた。
朱友珪が立つと、天雄軍節度使に任ぜられ、
末帝が立つと、?王に封ぜられた。
後梁・太祖の遠征時には常に先鋒を務めたともいわれ、
旗下には後梁の精鋭部隊が所属していた。
五代後梁屈指の名将である楊師厚を推薦する。

あと後梁からは王彦章、王景仁を
後唐からは郭崇韜を推薦したい。
遼を入れる入れないの関係の話ばかりなのでここらで少し流れを変える為に投下してみた。
(もちろんその議論も重要なのだが)


515 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/23(金) 20:21:19 ID:1Pf0fG5D0
元が入るなら、金も遼も入れるべきだろうと思うが。
匈奴、鮮卑、突厥、回鶻、蒙古や
高句麗、渤海、後金を入れろって訳じゃあないんだから。

516 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/23(金) 20:58:05 ID:7Om45kvYO
>>515
ナニをもって中国の武将とするかの問題。

金、遼のいつからを選考に入れるのか?
それが問題。
遼将のすべてを対象にしたら、中国の範囲が広くなりすぎる。

基準はその人物、政権に、

517 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/23(金) 21:04:31 ID:7Om45kvYO
中原に覇を唱え、中華征服を狙っていたか、どうか?だと思うが、
それだとティムール入るよね?

だから線を引いて、明確な基準を作りましょう。

518 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/23(金) 21:14:48 ID:Vwh02sV40
わ〜い、五代の武将キター
「?王」のところは「鄴王」だね。
銀槍効節都は後に李存勗に引き継がれたということで、実は楊師厚を引き立て役程度にしか見ていなかった…
改めて見ると、かなり有能な武将。

>>郭崇韜
軍政官、常山の重鎮、建国の第一等功臣、前蜀討伐の事実上の総司令官。
ついでに言えば、冤罪による不遇の死。
しかし、こと戦術となるとどうかな、と。
自分も推挙したものの、自らひっこめた過去があります。

よりも、ですよ。
晋〜後唐の李存審が縦横無尽ですばらしい。

李存審は李克用の仮子となった人で、元の名を符存審。
李克用の仮子といえば、第一に後唐明宗である李嗣源が有名なわけですが
李存勗時代で言えば、李存審の方がインパクトあるかも、と。
李克用の十三太保の中では、順番としては9番目で、地味なことこの上ないですが。
まぁ、「十三太保」の主役は李存孝と史敬思なわけだから、それはいいとして。

戦史に残す輝かしい勝利を飾った柏郷の戦いで、周徳威が後梁の王景仁を破ったときは、李存審は晋陽の守りでした。
朱温(朱晃)が子の朱友珪に殺され、後梁内に内訌が起こったとき
河中の朱友謙(朱温の子。後、李継麟と改名)は朱友珪の討伐を受けることになった。
後梁軍は康壊貞(岐州の李茂貞を虢県の戦いで破った人)を招討使(総大将)とし攻めさせたが
朱友謙は晋に救いを求めた。李存勗は、李存審を出撃させた。
李存審は胡壁において、後梁軍5万を撃ち破った。
また、敗残兵を立て直そうと平陽に退いた康壊貞は、後詰で出てきていた李存勗と不運にも遭遇してしまい
とどめを刺される…
さらに後梁では新帝・朱友珪が遊び狂ったので、朱友貞(末帝)によって殺された。

その後すぐに、魏博天雄軍の楊師厚が卒したので、後梁はこれ幸いにと強力な藩鎮の分割を打診した。
決定を嫌がった魏州の兵たちは騒然となった。
そのとき、魏州を牽制に後梁の劉鄩が兵6万とともに黄河を渡って陣を構えたが
魏州が晋の側につき、それを助けるため李存勗は魏州にまで出陣した。
劉鄩はそのまま対晋防衛軍となった。

劉鄩は計略の多い将で、李存勗を疑兵でもって魏州に釘付けにする一方で、自身は本隊を率いて西から晋陽の攻撃へと向かった。
李存勗は動かない劉鄩を奇策があるとして警戒していたが、ついに実は晋陽を狙っているとの報告を受け蒼白となった。
しかし天は劉鄩に味方せず、このときに限ってひどい大雨となりまともに進軍もできないありさまだった。
後手に回っていた周徳威が必死に救援にかけつけ、どうにか晋陽の守りは整えることができたので
劉鄩は大きく貝州にまで退かねばならなかった。

態勢を立て直し、敵の疲れを待つ持久戦を計画したとたん、朝廷から即戦の督促状が届き、あげく
「戦わずに補給の要請とは。将軍、それは敵を破るためか、それとも財を得んがためか?」と詰問された。
さらに彼の周りの将帥も、血気にはやり勝算もなく出撃を主張した。劉鄩は
「ああ、主上は暗愚、臣は阿諛、将は驕慢、兵は怠惰。これでは一体、どんな死に様をさらすのか…」
と有名な嘆きのセリフをこぼしました。

それでもなお、起死回生のチャンスを狙って、どうにか士卒をおさえ、やがてそのチャンスがきた。
李存勗は長帯陣に倦み、自身だけ晋陽に帰ると言って一隊を率いて戦線を離脱した。
これを見てとった劉鄩は、全軍に出撃を命じ、魏州の奪回に乗り出した。

実は伏兵として潜んでいた李存審は、劉鄩が軍を動かすのを見ており、ひそかにそれを追尾した。
魏州には李嗣源がいたが、劉鄩はそれを押し、魏州を手に入れられるかと思いきや
後方から李存審に衝かれ、あまつさえ帰ったはずの李存勗が突如現れたので、完全に包囲殲滅の態勢に落とし込まれた。
後梁軍はここで、実に7万からの歩兵等を殲滅され、劉鄩は数十騎とともに逃げ帰るありさまだった。

以上、我らが不運の名将・劉鄩閣下の不勝伝説。 あれ?誰の説明だったっけ…
いったん切ります。

519 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/23(金) 22:38:54 ID:juGduEuT0
◆RQdk7scN8sさん レスd
楊師厚はなかなかのやり手だと思ってます!!
あと熱く語るのはいいのですがちょっと自分にはハードル高杉〜w
お手柔らかにお願いしますよ(^^;
自分は後唐から周徳威、李嗣源、郭崇韜、霍彦威
後梁から王彦章、後周から王景なんかいいんじゃないかなぁ〜と思ってます。

≫「?王」のところは「4王」だね。
スンマセン、ボロPCなもんでたまに変換出来ないです・・・


520 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/24(土) 09:18:14 ID:JMkQAoJSO
すいません以前レスの中に名前が登場した
後梁の康壊貞と寇彦卿、符道昭と後晋の桑維翰について教えてくれませんか?
面倒なら〇〇は××を打ち破ったぐらいでもいいです。
何しろ五代に関しては知識が皆無なものでよろしくお願いします。


521 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 00:34:13 ID:fhmvZMJPO
範囲は大陸にあった漢字一字の国の武将。でいいじゃん


522 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 00:43:34 ID:rM7USuue0
(西)夏も入るのか?

523 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 01:16:53 ID:H//pJM0KO
>>521
つまり南宋あたりはoutで、遼はinということかい?
違うよね?

ならば、それまで中国に属してた西夏と、交[足止](ヴェトナム)の扱いは?

一時的か、そうじゃないかの違いで、この時期に共に独立を果たしてる。

号は夏と、越って考えて良いからその判断なら、選考に入れて良い?

524 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 02:14:07 ID:z1cfCt9qO
わーい挙げ足取りキター―w


>>521の意見をじゃ当然挙げ足取られてるがオチだよな

525 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 02:51:45 ID:DFe1bYGgO
>>523
南宋も北宋も国号は宋でしょ。
東西南北前後などが付く場合は、後世の史家が便宜上付けた通称だし。

ただ、五代十国の呉越とかはどうなるの?ってはなるが。

526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 03:10:33 ID:8yYClWNt0
李存勗時代の名将は既に楊師厚、劉鄩、李存審などが挙がっているが
ここはあえて意表をついて趙の張処瑾を

921年2月、張処瑾の親父張文礼が「趙王」王鎔を殺した。これを聞いた
李存勗は彼を討とうとするもその余裕がなく、やむなく成徳留後に任命して
その支配を認めた。
しかし不安な張文礼は契丹と梁に救援を求めるも、その文書が李存勗の
手に落ちてしまった。8月、遂に李存勗は趙将符習、及び閻宝、史建瑭に
張文礼討伐を命じる。
が、肝心の張文礼は晋軍が侵攻してきた矢先に病死し、息子の張処瑾が鎮州に
立て篭もって戦うこととなる。この後張処瑾と鎮州は約1年に渡って抵抗し、
その間晋は史建瑭・李嗣昭・李存進の3人が戦死するというかつてない損失を
蒙ることになった。
さらに鎮州が滅びれば次は自分たちの番だと思い込んだ定州の王処直・王郁親子
が契丹に通じ、これに乗じて大挙南進してくる契丹と戦うために李存勗が北に
向かえば後梁軍が北上してくるという大騒ぎに発展していく。
最終的に922年9月、鎮州は食糧が尽き内応により降伏するが、晋軍がこれに
手こずっている隙に後梁は衛州を含む澶州の西、相州の南を奪還することに成功
していた。

名将ではないかもしれないが、ある意味李存勗を最も苦しめた人物でないかと
思ったので書いてみました。



527 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/25(日) 03:37:59 ID:DZSn4ljW0
>>520
自分も完全に正史読めているわけじゃないので、いろいろ間違いあるかもなので、詳しいところはヤバイからぼかしますw

それでまず「康壊貞」。

兗州の人で、>>475にもチラっと書きましたが
朱温が汴州(開封)に拠ってから敵対した、朱従兄弟のうち兗州節度使・朱瑾の列校として配下にいた。
朱瑾はそのときも書いたけど、勇猛な人であり、康壊貞も驍勇をもって鳴る。
朱温が鄆州(うんしゅう)を平定し、朱温側の主砲のひとり、葛従周が迫ると城をもって降った。
最初は氏叔琮という、これも朱温軍にあっては主砲のひとりの部隊に従軍した。
氏叔琮が、襄州・漢州を攻めているとき、康壊貞は一軍を指揮し、鄧州(新野に近い)を陥とした。

幽州と雲州の藩鎮がそれぞれ、河東(晋陽)の李克用と対立すると、朱温は朝廷に働きかけて李克用を朝敵と認定させる。
それをもっとも熱狂的に支持したのは、宰相の張濬であり、唐昭宗は李克用討伐軍を発した。
張濬は総大将となり、晋州まで出陣し、朱温軍の驍将・葛従周らと李克用を挟撃する態勢をとった。
しかし、李存孝の神速の用兵により、朱温軍の誇る猛将・鄧季筠は一騎討ちにて敗亡し
葛従周もまた敗れて逃走した。
張濬は無謀にも野戦に撃って出たが、惨敗した。
朝廷は李克用の汚名を返上せねばならなかった。

こうして一時、河北は李克用の支配が強盛となったが、李存孝が叛したことにより、李克用勢力は不振となった。
ちょうどその頃、岐王・李茂貞(鳳翔節度使。岐王に封じられていた?)が朝廷の忌避を買い、これまた朝敵とされたが
誰もそれには参加せず、また李茂貞が罪を詫びたので沙汰やみとなった。
その頃朱温は、汴州と滑州と鄆州の三鎮を兼ね大勢力となっており、勢力不振に陥った李克用を攻めた。
しかしそれはうまくいかず、さらに河中(蒲州)を得ると、ふたたび北伐軍を発した。
そのときの主将に、氏叔琮を充て、李克用をして滅亡寸前まで追い詰めた。
(しかし李嗣源、李嗣昭ら仮子たちと、周徳威らの抵抗により止めを刺すには至らなかった)

その一方で朱温自身は、李茂貞と戦うため西進していた。
ちょうど、唐昭宗が宦官らに拉致され、鳳翔へと逃げ込んだのであり、それを奪還した宰相ら清流派が朱温の武力を恃んだからだった。
朱温は昭宗を迎えるという名分で軍を動かし、先鋒として康壊貞を起用した。
李茂貞は部将・符道昭に歩騎一万余にて迎撃させた。
符道昭は武功に陣を置いたが、康壊貞はこれをひとつ陣鼓を打ち突撃しただけで大破してのけ
六千余からの捕虜と軍馬二千を奪った。
朱温は「ここは武功という地名か。今まさに敵を討った、これぞ武功なり」(多少表現ちがいますが)と言って、康壊貞の武功を絶賛した。

逃げた符道昭はさらに大軍をもって虢県(かくけん)に至るが、朱温は康壊貞に数千騎のみで迎え撃たせた。
符道昭は康壊貞軍を寡兵とみて挑戦をこころみたが
康壊貞は夜襲、伏兵と駆使してさんざんにこれを打ち破った。
鄜州(ふしゅう)の李周彜が李茂貞の救援のために三原に陣を置くと、康壊貞はこれと戦い
梨園城塞から翟州を抜いた。
李茂貞が奉天に陣を敷くと、康壊貞は東北方面から守りの薄いところを攻めたので、戦わずして李茂貞は退いた。
そのころ、青州の王師範が部将・劉鄩を遣わして、朱温の兗州を攻め落とし、また淮南の楊行密も
これを機として宿州を攻めた。
朱温は康壊貞を急遽東進させ、これらを防がせた。
翌年、岐州攻めに戻り、劉知俊を補佐して、李茂貞の所領を削り取っていった。
朱温は康壊貞に「卿は上将の位にあり、勇は三軍に冠せり、敵、向かい来たらば破り…(なんかいいこと書いてますが、訳は??? すまん)

と、まぁ岐王・李茂貞をコテンパンにやっつけた張本人。
符道昭は、康壊貞に対するヤラレ役みたいな感じ?

そのあとは、河中において晋軍と対するものの、結構負けたりしている(相手が李存勗ではなぁ)。
後梁末帝にはあまり用いられず、終る。
末帝の諱(朱友貞)を避けて、名を康壊英としたため、列伝にはこちらで載っている。

かなり長いな… 相変わらず余計なことも書いてます。

528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 06:06:13 ID:z1cfCt9qO
>>527
◆RQdk7scN8sさん サンクル
康壊貞ってなかなかの強者って感じですな。
いろいろと分かりやすく有難うございました。

529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 10:23:44 ID:2qGmGLVT0
>>521
「大元」「大明」「大順」「大清」は?

530 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 11:11:32 ID:H//pJM0KO
>>525

> 南宋も北宋も国号は宋でしょ。


だから>>523
> つまり南宋あたりはoutで、遼はinということかい?
> 違うよね?

って断りをいれてるでしょ。


あと
> 東西南北前後などが付く場合は、後世の史家が便宜上付けた通称だし。


いや後年グェン朝が、清朝に冊封を願い出たときの国号は南越だったよ。
それが通らず越南にしたら許可がおり、いまのヴェト(越)ナム(南)の名の元になった。

自分達の領土だって思ってても、中華じゃないよなぁって場所は、結構いい加減につけられてるよ。


って、いつまでたっても話が進まないし、五代の武将の話だけだとアレだから、
とりあえず西夏からでも、ドコからでも良いから名前を出し、推薦してみる。
通る、通らないは別問題じゃね?


で、耶律休哥を推薦。
>>505をもって中国の武将として判断した。
この時代は国号は契丹だよな?とか、難しい話はこの際おいとく。
せっかくの宋弱兵の時代、唐代の国土内の王朝を対象にしたら、
それはそれで面白いかな?と。
どうせ無難な選択されるんだから、賑やかしのために
名前や業績ぐらいなら、紹介しても良いんじゃない?

その時代の直近の中華を統一した王朝の、その国土内に発生した戦いは、
すべて参考する――なんて大まかな括りをしても、
推薦する側も、選考する側も、あからさまな外国は躊躇するでしょ?

531 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/25(日) 11:21:52 ID:DZSn4ljW0
李存審のつづき。

後梁随一の名将だった劉鄩を魏州で撃破した李存勗は
(このときの劉鄩の作戦行動は、『百戦奇略』でも取り上げられている(変戦-臨機応変)。作戦の内容自体は理にかなっているということ。ただそれを上回った李存勗が戦術の天才だっただけ)
邢州・洺州など、河北の要衝を攻め落とし、また滄州(南皮)を取り、李存審をして滄州節度使とした。

晋軍が南征に狂奔しているころ、李克用と兄弟の盟約を結んでいた耶律阿保機が
晋陽の北、振武軍(朔州)に攻め入り、節度使・李嗣本を殺した。
耶律阿保機はさらに雲州を攻撃したが、それは李克用の仮子の一人、李存璋によって阻まれた。
方向を転じた耶律阿保機は東進して新州を攻め
邀撃に出た幽州節度使の名将・周徳威をも軽々と撃破してのけ幽州を包囲した。

李存勗は後梁に優越したとはいえ、未だ戦っている最中にこの腹背攻撃を受け、半狂乱となったが
李嗣源、李存審、閻宝ら諸将と謀り、周徳威の救援を決意した。
李存勗は南面して動けないので、李嗣源と李存審で一軍を指揮し、7万をもって北上した。
李存審は
「契丹は輜重が十分でないので、略奪するものがなくなればおのずと退くだろう。そこを猛追するにしかず」
と言ったが、李嗣源は
「いや、幽州は陥落寸前と聞く。周徳威は社稷の臣ゆえ、もしこれに万一のことがあってはならない。契丹が動くのを待っていては取り返しがつかない。わたし自ら先鋒となって向かおう」

そう言って、李嗣源と李存審らは易州に急行し、幽州を目前とした。
李嗣源は契丹軍は騎兵が多く、味方は歩兵が多いということから
平地ではなく山間に入り密かに軍をすすめて幽州に近づいた。
そうして一気に平地に踊り出、契丹軍の一隊と遭遇するや契丹語で叫びつつ三度突撃し
契丹の将一人を討ち取り、幽州への道を確保した。

一方、李存審は兵に木を切って逆茂木を一本づつ持たせ、平野において戦場で野戦陣をつくり
契丹騎兵の馳突を防ぐとともに、強弩を乱射して契丹騎兵をなぎ倒した(長篠?)。
さらに、幽州の契丹本営に迫ると、陣を構え待ち受けている契丹軍に対し、主力を敵の後方に伏せ
自身は弱兵を統率して火をつけた柴をひっぱり、草原を焼きながら契丹軍に迫った。
契丹軍はその煙幕のために晋軍の兵力がわからず狼狽したので
伏兵となっていた主力軍がそれに踊りかかって、大勝利を挙げた。

幽州はボロクソになったものの、無事救われ、再び晋軍は南征に専念できた。
で、大乱戦である胡柳の戦いへと続くわけですが…
また今度w


532 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 12:02:31 ID:z1cfCt9qO
>>530
>とりあえず西夏からでも、ドコからでも良いから名前を出し、推薦してみる。
>通る、通らないは別問題じゃね?
>推薦する側も、選考する側も、あからさまな外国は躊躇するでしょ?
五代は専門外だから論議には参加してないけど>>530さんの意見は最もだと思います。
清朝が許可云々はただ清朝が国号に関して知識が余り無かった為ではと
個人的には思いますし、そう言うのを反対材料にするのもどうかと思います。
>>530さんは別に反対材料にしてはいませんが)
個人的には遼(契丹)・西夏・元・金はおKでいいのではと思います。
反対してる人の反対材料がイマイチ屁理屈に聞こえるのは気のせいかな?


533 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 12:44:39 ID:rM7USuue0
どのあたりが屁理屈に聞こえますかね?
私には逆に、遼や元(モンゴル)のファンが自分の好きな武将を範囲に入れるため
に矛盾する定義を持ち出しているように見受けられるのですが?

534 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/25(日) 12:58:05 ID:DZSn4ljW0
>>527の追記。

康壊貞は後に、かつての上官だった劉知俊が岐王・李茂貞に付き叛し、霊武等を攻略したので
その討伐のために大将として出陣した。
最初は寧州・慶州などを奪回し、三水に至っては劉知俊の攻撃を
左軍使・王彦章らの奮戦もあり、撃退したが、どうもそれは誘いの手口だったもよう
劉知俊は昇平に伏兵を置き、康壊貞が勢いに乗って追ってくると、これをさんざんに打ちのめした。
大敗した康壊貞は身一つで逃げる有様だった。

かつての上官ということで、あんまり乗り気しなかったのか、舐めていたのか…
ちょっとパッとしませんね、この戦いでは。
さらに、河中の朱友謙が晋と通じると、これを討伐に向かったが
李存審と李存勗のダブルパンチを一身に喰らい昇天した。
あとは、自領の雍州に戻って死ぬまで短い期間、どうにも冴えなかった。

535 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 13:28:16 ID:iuU/Xo9f0
>>533 同意

536 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 14:11:25 ID:VnquViRn0
>>533
「矛盾する定義」ってのがどの辺を言ってるのかわからんですけど、
遼は最初っから論争の種になって棚上げ状態のまま来てて、
含めるかどうかの明確な基準は合意されたことはないんではないですかね?

自分的には反対派が冒頓やらエセンやらティムールやらを例に挙げてるのが屁理屈に感じますね。
遼については独立の正史が編纂されている点が上記の例とは明確に異なっているので。
>>505は明確で妥当な案に思えるのだけど、反対派と思われる>>533さんや>>535さんはどう考えてるんでしょう?

537 :535:2007/03/25(日) 14:39:54 ID:iuU/Xo9f0
>>536
>>21 >>505 >>532 の定義で整合性がとれていないことが最大の矛盾
暫定的にせよ>>21の定義で選考してきたのに、その後、西夏を入れてい
たり、外していたりして中国を定義した意見を出してきても、自分の好きな
武将を入れるために、後出しで定義を変えようとしているように見える。
暫定的な定義の後で、明確な定義を決定していないのであれば、>>21
の暫定的な定義に従うべきだろ。

538 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 14:45:46 ID:2qGmGLVT0
清が「中国」の完成形じゃないのか?
その原型が元であり、五代以降の遼と北宋、金と南宋だと思うが。
匈奴と漢、五胡と晋、突厥と唐とは関係の性質が違うように思うが。

539 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/25(日) 14:56:40 ID:4vpp3T0e0
>>533さん、>>535さんへ
・遼や元(モンゴル)のファンが自分の好きな武将を・・・
俺が書き込むとまた議論になってスレが荒れてしまうかもしれんとか思うんやけど、一応。
俺含め契丹(代表・耶律休哥)とか蒙古(代表・トゥルイ)とか後金(代表・阿巴泰)を入れよう
って人たちは、特別その武将(あるいは国家)が好きなわけやないと思うんよ。ただ「そのほうが
面白い」ってことで挙げてるだけで。異民族をシャットダウンしてしまうと>>530氏の言うよーに
「無難な(面白みに欠ける)選考」になると思うし。ここは前スレでどなたかが提唱した「中国
本土に根刺した国家およびその国家樹立に貢献した先行政権の武将」は中国の武将として認める
(多分こんな感じやった。ちょいと自信ないが)って定義が一番問題ないと思うっちゃけど、
どーやろ。史書にアルタンの名はなくても、耶律休哥の名はあるわけやし。

540 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 15:13:33 ID:VnquViRn0
>>537
>>21>>505は矛盾する関係ではなくて、>>21を補完して確定させる案が>>505って流れと思います。
暫定的なまま棚上げしてきてたけど、まさにその棚上げの原因になっていた、
遼や元の線引きの問題に直面してるので明確な線引きを議論するのは当たり前では?

>>532
>個人的には遼(契丹)・西夏・元・金はおKでいいのではと思います。
>>21>>505と同レベルの例に挙げるのはおかしいんではないですかね?
定義の案ではなく、明確な根拠付けすらないので、単なる個人的な意見で議論の対象外と思いますが。

541 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 15:27:04 ID:H//pJM0KO
>>537

>>532を入れるのかw
ありゃ話が進まないから、中国の定義論争じゃなく、人物をあげようという例だよ。

遼を入れたい人は遼将を推薦してるが、西夏は?って言ってる人がいるわりには、
ぜんぜん推薦する人物の名前が出てこないから言っただけ。
>>505の基準で文句はないよ。


とりあえず人物をあげて話し進めない?
名将を決めるんであって、ナニをもって中国とするか?じゃないんだろ?

542 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 15:34:34 ID:iuU/Xo9f0
>>541
>>532 >533 >>535の流れなんだから 532が入っていて当然だろ。
前スレから西夏は?って言ってる人は、西夏を入れろと言っているので
はなくて、遼(契丹)・西夏・元・金あたりを公平に取り扱えと言いたい
のだと思うぞ。

543 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 15:37:39 ID:rM7USuue0
矛盾
>21 のような「現在の中華人民共和国領土内」とするなら冒頓やエセンやティムールも含まれる。
しかし遼やモンゴルの武将を入れろと言ってこの定義を持ち出す人は、条件に合致する冒頓やエセン
も入れろとは言わない。逆にいろいろと理由を後付で持ち出して否定する。

544 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 15:37:52 ID:H//pJM0KO
>>532は俺の意見じゃないやw
スマソ
>>530で西夏の話したから勘違いしたよ。

545 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 15:43:51 ID:VnquViRn0
>>543
冒頓もエセンもティムールも「現在の中華人民共和国領土内に都を持ち」に適合したとしても
「支那風の国号を持つ王朝」に属してないので>>21の定義に従えば対象外。
反例に挙げること自体がまずおかしい。

それに>>21の「現在の中華人民共和国領土内に都を持ち」は
対象があまりに広すぎるので合意がとれた定義ではないと思うけどね。

546 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 15:46:31 ID:vULUf26h0
むかし世界史で習った時は、遼・元・金は中国史扱いだった気がするんだけどな。
充分漢化したわけだし、入れないほうが違和感あるんじゃない?
清と扱いは変わらないでしょう。

西夏は……どうかなあ。

547 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 17:52:03 ID:RS7UDsUr0
金は完璧漢化してたが
遼まで漢化してたっていうのは中国文明の傲慢だろ

548 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 17:58:29 ID:2qGmGLVT0
周が漢化してたか?
秦が漢化してたか?
楚が漢化してたか?

中国≠漢族だろ。

549 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 18:02:34 ID:WusCxBU/0
遼は南面北面の二重体制だから一概に言えないよな

550 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 18:11:00 ID:vULUf26h0
あー漢化はそうだね、考えるの無しにしましょう。

551 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 18:35:36 ID:z1cfCt9qO
>>548
少なくとも秦・楚・呉・越は最初は蛮夷扱いされてた‥‥
だから中国≠漢族だろとは言い難いのでは?

552 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 18:56:45 ID:RS7UDsUr0
当時世界からカラ・キタイと言われてた東の大国を中国と呼ぶのは変ですよ

553 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 19:02:49 ID:VnquViRn0
>>552
カラ・キタイは西遼でしょ?

554 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 19:06:42 ID:RS7UDsUr0
カラ抜かして

555 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 19:10:01 ID:rM7USuue0
中国というか支那という地域は、秦の統一によって完成し、その後二千年以上変化はない。
時代によっては、領土を拡大することはあったがそれは政治的な領土のことであり、支那(中国)
の範囲が拡大したわけではない。
漢や唐は一時期西域を支配したが、だからってそこが支那になったわけではない。
明は満洲を支配したこともあるが、そこが支那になったわけではない。あくまでそれぞれ
の王朝が領土を拡げただけのこと。日本は一時期朝鮮や満洲を支配したが、そこが日本に
なったわけではない(正確には、日本化しようとして失敗した)。かつて支配したことがある
からといって、そこは日本だなんてほとんどの日本人は認識しないだろう。
現在の中国の行政区画をみても、東北の三省を除けば省としている地域はほぼ秦漢の領域
と重なる。他は自治区扱い。これは唐でも明でも歴代統一王朝でかわらない。

ちなみに遼は当時の宋のひとびとは完全に外国扱いにしている。遼を北朝と呼んだり皇帝
の称号を認めたのは、それが中国の外の皇帝であると認めたのであって、中国のもう一人の
皇帝と認めたのではない。

そんな遼に仕えた武将を「中国の武将」とはみなせないでしょう、というのが私の主張です。

556 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 19:45:41 ID:z1cfCt9qO
>>554
西遼をイスラム史家はカラ・キタイ(黒い契丹)と呼んだのですが‥‥


557 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 20:27:28 ID:J0K58VTg0
Wikipediaだと遼・元・金、あと西夏も中国の歴史扱いだね。
西遼は入っていない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

絶対的な基準にはならないけど、多くの人の認識が遼・元
・金・西夏を中国としていると考えられるんじゃないかな?

>>555さんみたいに反対の人が多ければ、修正入っていた
だろうし。

558 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 20:41:14 ID:VnquViRn0
>>554
キタイ=契丹で、遼は国号を契丹と遼と、時代によって両方使い分けてた訳で、
外国からキタイ(契丹)と呼ばれることがあるのは当たり前なんじゃ?

>>555
前半部分の領土的な理由は、賛同するかは別として筋が通ってると思うけど、
後半部分の>ちなみに遼は当時の宋のひとびとは完全に外国扱いにしている。
については、漢族からしたら金・元・清も外国(蛮族)扱いなんじゃないか。
遼を除外する理由としてはこちらは不適切と思いますが。

あと>>545を無視してるのは>>543で言ってることが間違いと認めたってことでよい?

559 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 20:56:35 ID:RS7UDsUr0
国号が契丹なのは中国的国家への否定なんだけど?

560 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 20:57:08 ID:H//pJM0KO
>>558

>漢族からしたら金・元・清も外国(蛮族)扱いなんじゃないか。


いや、それどころか五胡十六国時代、西晋が正統であるとして、わざわざ北から
移住した者もいるぐらいだから、北の王朝はぜんぶ対象外だよ。
たぶんもう一度、選考し直しを提案するはずだよ。

561 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 21:16:03 ID:z1cfCt9qO
多くの人の認識が遼・元・金・西夏を中国としていると考えられるんだから
そんなに意地になって外せと言うのはどうなのだろうか?
推進派は的外れな武将を推薦したいなんて
決して言わないと思いますけどいかがですかね?  で仮に的外れな武将を推薦してきたらそれは違うだろと指摘したら良いだけじゃない?

562 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 21:23:58 ID:RS7UDsUr0
多くの人の認識が対象なら
関羽とかが百選に入ってるだろうよ、今頃

563 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 21:31:32 ID:J0K58VTg0
じゃあ多くの人が認めない名将100人選ぶ気なのかい?
後ろ向きなツッコミはやめたほうがいい。

564 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 21:34:18 ID:2qGmGLVT0
そうだな。
おまえとかでも知ってるくらいの知名度だからな。

565 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 21:47:28 ID:z1cfCt9qO
>>562
国としての認識と関羽個人の認知度とでは論点が少しずれてないかい?

566 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/25(日) 21:54:17 ID:DZSn4ljW0
で、入れるとして、結局誰を入れたいんだ?
遼、西夏あたりから、二、三人紹介して候補に入れてみればいいさ。

契丹は中華政権とは関わり無く勃興し、中華政権と干戈を交えつつ、いびつながらも共存し
なおかつ、中華政権の良いところを取り入れようとしたが、基本は中華政権とは一線を画した別の国。

西夏は、もと中華政権の一節度使が、独立してやがて国を建てたが、完全に中華政権の支配下を逃れている。
また、中華政権に対抗するため、独自の文化を持つに至り、中国との同化はなかった。
中華文明の亜流であり、当時の制度が中国のそれを深く参考にしていたので、中国の歴史には欠かせない。

遼が国史として編まれたのは、征服王朝時代のさきがけで、正当化をはかるためのものと思われる。
その風俗、習慣などは、中国と呼ぶには同化し切れていない、外国の様相を呈していると考えますよ。

まぁ、入れる入れないにしても、人物を挙げてみましょうよ。
いいかげん人物列伝を読みたいんだが。

567 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 21:59:32 ID:H//pJM0KO
>>565
ID:RS7UDsUr0で抽出すると分かるけど、かなり苦しい事いってる人なんだよ。
唯一、反論されてないのが、>>559なんだけど、それだと
じゃ、国号が契丹の時代は外し、遼の時代は入る――で問題なし。

568 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 22:08:03 ID:rM7USuue0
>>558
たしかに、漢族からすれば金も元も清も蛮族と見ていたでしょう。しかし私が遼を除外
すべきと主張しているのは、民族を問題としているのではありません。

金も元も中華の中心部というべき中原を支配して、支那の範囲内に都を置いて統治して
いますのでもとは外国だが中華を支配する政権とみなせます。その意味では>560が言って
いるような南北朝の北を外せなんて言う気ありません。
しかし遼は最後まで関外の外国として終わりました。これを中華の政権だとはとても
言えないと考えます。だから遼の武将は外すべきだと考えているのです。

>あと>>545を無視してるのは>>543で言ってることが間違いと認めたってことでよい?
そうですねたしかに「支那風の国号」という点からすれば冒頓は対象外ですね。
しかし、エセンを始めとする明代のタタールやオイラートは後世からはともかく、当人
たちは元が北に移った政権、北元を国家として名目上は立ててます。これは支那風の国号
になりますね。

569 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 22:10:09 ID:RS7UDsUr0
耶律休哥でしょ?>入れたい武将
高梁河で趙匡義率いる宋軍を破ってるし
でも当人、宋とは和平路線を支持してたよな
民族が独立して国を作る志向を持ってるから宋は宋、遼は遼なんだけど

遼って高句麗、渤海から続く満州一帯らへんの国家だし
渤海人も多く登用されてるし、渤海人は中国とは別の国なんだけどな
まあ渤海使を遣唐使扱いしてるから遼も中国扱いする人多いんだろうけど
でも建築や官制が中国に倣ってるから中国っていうんなら、昔の日本だってそうなんだが


570 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 22:18:25 ID:RS7UDsUr0
休哥よりは斜軫の方が、南下して中国で戦ってる分中国名将に入りやすいと思うけど(事情アリとはいえ楊業破ってるし
何回か名前も挙がってるが、感じとしては休哥>斜軫な感じ
西夏は……宋側で狄青が頑張ってるしなぁ
中華外の所で国を設立するのに功績のある名将って、それは歴難の世界百選の範囲だ

571 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 22:32:13 ID:z1cfCt9qO
◆RQdk7scN8sさん
>いいかげん人物列伝を読みたいんだが。
まあそう怒らずにw
俺は善意の第三者として前々スレから擁護してるんだけで
小難しいこと抜きにして推薦したいなら推薦させてあげればと言う考え方なんですよ。
だから国号が契丹、遼の時代だろうが挙げてみればいいんじゃないかなと思いますけど。
契丹か遼かは君主の個人的な思想なんだしそんなに拘るほどの事とは思いません。
そんなに重要ですかね?
契丹か遼かで領土の位置が代わる訳でもないし‥‥

572 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 22:35:04 ID:2qGmGLVT0
>>568
中原というのは河南のことなんだろうが、
俺は燕雲近辺こそ近世中国の中原だと思っている。
だからそれを支配する遼は入選資格有り、というスタンス。
まあ遼の頃はそれほどの重要性はなかっただろうが、金元清の先駆けとして評価している。
そして統一政権は長城以南の支那を全て支配してなければならない。
北宋にはそれが出来ていない。だから俺は北宋を統一政権とは思わん。
遼は北朝だと言わざるを得ないと思うが。

573 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 22:39:05 ID:RS7UDsUr0
君主の個人的な思想で国名が変わるなんてなんていう独裁国家だw

574 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/25(日) 22:40:36 ID:DZSn4ljW0
>>571
いやいや、怒ってないです。 語気が荒くて申し訳ない。
なんかだんだん、キナ臭くなってきてたので、流れをムリに変えようと…
なんか自分のレスだけ浮いているのも寂しかったし。

歴史学として、遼や西夏は中国にとって非常に重要なんだけど、このスレ的にどうか、というのはある。
そういう意味で、いわゆる中国本土、おおかた万里の長城を北端として、という範囲で
それほど領地的に影響の少なかった、遼や西夏は外してもいいかとは思っている。

それに防衛戦とかで有能な武将は、あんまり評価しないでしょ?
ということは、耶律休哥ではダメなんですよね。耶律徳光でないと。
まぁ、それもケース・バイ・ケースで拘る気はないけど、そういうのどう考えるのだろうか。

575 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 22:43:07 ID:DQ5mmA020
>>569
≫でも建築や官制が中国に倣ってるから中国っていうんなら、昔の日本だってそうなんだが
それはちょっと話が違うと思うし、反対材料とするには無理が有るよ・・・

576 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 22:54:55 ID:z1cfCt9qO
◆RQdk7scN8sさん
>なんか自分のレスだけ浮いているのも寂しかったし。
いやいやそんな事ないですよ。
推薦したいなら取り敢えず推薦してみればつーのが
俺の考え方なだけでムキになりほどかな?と思っただけですよ。


>>573
古代から現代まで中国なんて君主の個人的な思想で物事が代わるれっきとした独裁国家ですよw


577 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/25(日) 23:17:46 ID:Vd9KwL440
とりあえず誰やそれ、的なのを二人ほど投下。
陳昭袞
 驍勇果敢でしばしば戦功を立てる。聖宗が虎に襲われたときこれを捕殺した豪傑。
耶律(韓)徳威
 耶律善補ともに楊業を破る。真っ向勝負で楊家の軍を大破した遼朝唯一の大殊勲者。
こんなもんで。

578 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 23:31:13 ID:H//pJM0KO
>>568
> しかし、エセンを始めとする明代のタタールやオイラートは後世からはともかく、当人
> たちは元が北に移った政権、北元を国家として名目上は立ててます


当人が目指したのは中華の主たる元でなく、
チンギス・ハンの末裔としての北元だと思うんだが。
エセンは山師的な所があるから、明の領土が手にはいるなら、
喜んで奪いに行ったとは思うが、本気で中原に覇をとなえるつもりはないのでは?


>>574
耶律徳光は名将だよ。
なんだかんだで最後まで遼を入れるのに反対してた人に敬意を込めて、
個人的には、あえて遼と号した時期のみ推薦したいから、
遼の太宗、耶律徳光を推す。

579 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 23:37:39 ID:rM7USuue0
>>572
燕雲が中国の中心になったのは少なくとも元以降。たしかに今の北京のあたりは
北方の遊牧文化圏と中華を結ぶ結節点として古代から栄えていたが、だからって
中心にはならない。

580 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 00:21:56 ID:/XCFnoouO
正史二十四史、清史稿+αに載ってる人物でいいじゃないか
遼や金外すとかスケール小さくするようなことしなくても

581 :558:2007/03/26(月) 01:00:02 ID:SnVA8+Cv0
>>568
レスありがとうございます。
>>555の前半部、領土的な判断基準の主張まで否定するものではないので、
後半部が切り離されれば案として残すのはよいんじゃないかと思いますよ。
>>505あたりの案と比較して、どれを定義に採用するかは議論が必要でしょうが。

タタールやオイラトは元を自称してるけど、>>578さんの意見に賛同しますね。
北元はフビライの子孫がアリクブケの子孫のイェスデルに殺されて
途絶えたところで別の王朝になってるように思います。

582 :善意の第三者:2007/03/26(月) 01:08:53 ID:fFHC/Wd9O
>>580
いいんじゃない。だから俺は昨日>>530さんに同意した訳だし。
推薦するだけ推薦してみればいいし、落選してもそれは仕方ないと言うことでおK?
ああでもないこうでもないばっか言っても先に進まないよ。
もちろん定義を煮詰めていくのは賛成です。

583 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 15:09:27 ID:hITodSrz0
きっちりした定義も決めず始めたり、100人にはいるとも思われない小物を長文で紹介して
悦に入ったりする奴がいたりともはや混沌としてきてるなwww
特に後者は知名度の低い名将スレでも立ててそっちでオナニーしろやww

584 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 16:04:07 ID:0CwfyWgr0
↑このスレの住人とは到底思えないアホがいるな。

585 :善意の第三者:2007/03/26(月) 16:38:04 ID:fFHC/Wd9O
>>584
ID:hITodSrz0みたいなアホが三戦板の某スレ板にいるよ
(恐らく同一人物かと)
そいつはやたらとwwwを付けたがる精神病患者。

586 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 17:08:51 ID:/AnJjCbS0
スルーも出来ないのか?情けない

587 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/26(月) 18:07:41 ID:XLkRRoMd0
>>583
そりゃ悪かったねぇ。
マイナーな時期と思ったればこその長文であって
単に、誰ソレが誰々に勝った、でわかってくれるなら説明せんよ。
勝ったはいいけど、その相手ってどうよ? ってなれば、いくらか説明いるしねぇ。

李存審の残りの部分を、簡潔にいきます(言いたいところは済んだから)。
胡柳陂の戦いにおいて、別部隊として奮闘。
最終的な勝利を得るに貢献する(周徳威が戦死したりと、むちゃくちゃの乱戦だった)。
張文礼の乱では、李嗣昭とか李存進とか主な主将が次々と戦死する中、最後に起用されて鎮圧した。
以上。
絡めて、符彦卿のことも書こうかと思ったけど、様子見ます。


588 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/26(月) 19:10:33 ID:XLkRRoMd0
もう一回、確定・候補の磔。

五代〜北宋・遼
【確定組】
 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、(李存審)、(耶律徳光)
【候補】
 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、
 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、
 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊

【候補落ち】
 朱温(朱晃)、郭威、曹彬

【論争中】
 耶律休哥


遼は入れん、と言いつつ… 耶律徳光ならおkな無節操w
かの戎王を入れるなら、対抗馬として後晋の桑維翰も入れたいところ。
ただし、桑維翰はあくまで軍政官。前線で戦術能力を発揮したことはありません。
かなり有能な戦略家。

桑維翰の作戦指揮のもと、劉知遠、杜重威、高行周、符彦卿、皇甫大師(皇甫遇)など15節度使が大暴れ。
契丹の侵攻および青州の重鎮・楊光遠の反乱を鎮定する(テロップふうに)。

589 :善意の第三者:2007/03/26(月) 19:28:32 ID:fFHC/Wd9O
>>587
◆RQdk7scN8sさん まあそう怒らずに。
自分は李愬・李存審や符彦卿のこと全く知らないので詳しい人物紹介は大変有り難いです。
(教えて下さいとお願いした張本人だし)
専門外の時代を深く知るのは楽しいですし、寧ろもっと紹介してほしいです。
(恥ずかしながら漢文が全く読めませんつーか羨ましいです。)
石勒が高祖本記を読んで聞かせてもらったり、
朱全忠が耳学問で知識を得た様なつもりで拝見させていただいています。
御迷惑で無ければこれからも人物紹介お願いしたいです。

590 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 19:45:12 ID:fFHC/Wd9O
>>588
連投で申し訳ないです
ありゃwこれ又興味津々な武将たちがww
桑維翰はともかく劉知遠、杜重威、高行周、符彦卿、皇甫大師(皇甫遇)15節度使が大暴れってなんですか?ww
青州の重鎮・楊光遠って人物も凄く気になるんですけどw
いい加減にして下さいよ。物凄く知りたくてウズウズしちゃうじゃないですかwww


591 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/26(月) 20:03:50 ID:XLkRRoMd0
>>590
今、その後晋期の契丹南下のときをまとめている関係上、ちょっと他より深く入っているんだけど
そのテロップには惑わされないでください。
詳細ではないけど、五代スレにさわりは書いてますんで。

上の中で、皇甫遇はまだ太師になっていないのに、《資治通鑑》ではずっと「皇甫太師」と尊称されていたりします。
杜重威の腰抜けのせいで、契丹に降らなければならず、羞じて死んだが故に義士とされているわけ。
司馬光さんよwwwwワロスwwww
という感じ。
(ちなみに、「太師」の漢字が間違っていましたね。まぁ奥さんは法号を得て大師となりますが)

ところで、漢文は読めていません。眺めているだけです。
だから結構、細かいところは誤認していると思われますので、注意してください。

592 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/26(月) 20:29:40 ID:XLkRRoMd0
こちらも連投。
李存審を確定不動にしたいため、形容詞を並べます。

《舊五代史》唐書列伝八に引く、最後のほうで
「李存審は若い頃から軍中にあり、臨機応変を知り、法令は厳正、策を練り勝機を制する。功名は周徳威との双璧であり、これ近代の良将である」
多少、中抜きしていますが、概略こんな感じ。

周徳威は胡柳陂で討ち死にしたけど、李存審はまっとうしたから、選ぶとすればこちらかな。

593 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 21:44:11 ID:aNjHA8LV0
>>581
たしかにフビライの子孫である北元皇帝のトクズテムルはイェスデルに殺され、
フビライ流の系統は途絶えました。しかしそのイェスデルもその後継者たちも
みな「中国風の国号」である元の皇帝として(北)元皇帝を名乗っているのです。

たしかに彼らは中華皇帝としてではなくチンギスの流れとして皇帝を名乗った
のかもしれません。しかしそれは今回は関係ありません。私は「中華風の国号」の
点を問題としていたからこそ、この例を出したのですから。
「中華風の国号を名乗った国じゃないだろ」
 ↓
「いや、名乗っているよ」
 ↓
「でも中華の支配者を目指したとは思えないからダメ」
これが定義の後付でなくてなんだと?

念のためにいっておきますが、私は中華風の国号を名乗ったからと言って、
遼が中国に入るとは思いません。しかし、入るといったのはそちらです。
その理由が「国号」で、その矛盾をついたら前回の論旨では言っていない
ことを持ち出して反論とういのはなんでしょう?

594 :善意の第三者:2007/03/26(月) 22:08:51 ID:fFHC/Wd9O
>>591
劉知遠は後漢の初代高祖ですよね。しかも在位わずか一年で崩御orz
五代随一の名君と言われる後周の世宗(柴栄)
その後周で殿前都点検(近衛軍長官)だった北宋の太祖(趙匡胤)ぐらいなら
隋・唐・五代は専門外ですが陳先生の十八史略などを読んでいますので少しなら分かります。
やはり新五代史や資治通鑑を御愛読なされてるのでしょうか?


>>593
主張が矛盾してるとお怒りはごもっともですが
支那風元号を名乗っているとは言えやはりタタールやオイラトは
遼などの場合と一緒に考えるのはちと厳しいかと思いますよ。
(自分の器量ではこれ以上貴方を納得させられませんツッコミはご勘弁を)

595 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 22:38:37 ID:RMVpnz1GO
>>593
まず、ご自身が遼を外す理由として、漢民族ではないため、正統王朝ではないと
当時から主張されていたと言いましたよね?
であれば、五胡十六国、南北朝時代にも同じ考えの人がいたのだから、
異民族が創始した政権は除外しないと、おかしくないですか?
そっちはok、遼はNGと言うのは矛盾してませんか?

ご自分の矛盾を棚に上げ、他人だけ責めるのは、その論旨に反してると思いますよ。

いかがお考えですか?納得できるご回答をお持ちいたします。

596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 23:15:52 ID:OVLT3XCM0
ご要望?に応えて五代の武将を投下
霍彦威(872〜928)
曲周(河北)の出身。字は子重。
梁将霍存に養子とされ、のち朱全忠に仕えて各地を転戦。
後梁が滅ぶと後唐に仕える。
荘宗(李存勗)から李紹真と賜名され、李嗣源に従ってしばしば契丹撃退で功を挙げる。
帷幄にも参画して首都反抗や即位のことを勧め、検校太尉中書令に進んで
明宗(李嗣源)の政権で重権を与えられたが在任中に没する。


◆RQdk7scN8sさん質問なんですが劉?は劉[尋卩]のことですか?


597 :558:2007/03/26(月) 23:39:07 ID:HQSEL59z0
>>593
自分は>>505案に賛成なので北元(タタル・オイラト含む)は対象外との考えですが、
議論の流れからすれば不適切ですね、ごめんなさい。
>>21の定義でいくということで完全に決定すれば、
合致するエセンあたりも対象に入れてよいと思いますよ。(採用されるかはともかく)

なんにしても大前提の定義が決まらないことには、遼将が入るかどうかで大違いなんで、
定義の決定を先送りにするなら確定は8〜9人で止めて、後で別途議論するって形にせざるをえないのかも。
定義の話がメインじゃないし、いい加減うんざりしてる方々も多数いるようなんで、早めに決められないなら先送りですかね。

>>595
>>568の前半が質問の回答になってるんではないですかね?

598 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/27(火) 00:13:27 ID:uqsL7maX0
>>594
五代の流れなら、「馮道」がかなり面白いですね。
ある種、小説として読めますから。
資治通鑑は愛読できないです… 誰か完訳してくれないかな。
三国時代も読みたいし。分裂時代への突入の仕方が三国-五代と似ていて、いろいろ興味あるんですよね。
(三国志は演義くらいしか読んだことがないから)

>>596
そう。 開封府尹の劉ジンのことです。
この人、戦理に適った軍事行動起こすのに、いつも運に見放されてカワイソスなんですよね。
李存勗との名勝負が好きなんで、対比として出しました。
その李存勗をして「一歩に百計を出す」と言わしめた梁軍きっての名将… なのにね…
ちょっと前、世界史板に「劉ジンと苦難を乗り越えるスレ」というのがあって、面白かったんですが
その頃は、誰それ? でした。


599 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 01:14:26 ID:KAWFH+dC0
>>595
「漢民族ではないため、正統王朝ではないと」
言っていませんよ。私は当初から、遼は中華を征服支配したわけでもないのだから、
中国の政権とは言えないと言ってきました。ですから、五胡十六国でも南北朝でも
北は外せなんて言ったことはありません。金や清は歴史的な流れから言って中原征服
を成し遂げた、あるいはそのきっかけとなった靖康の変、呉三桂による入関以降を
対象にすべきだと考えており、「漢民族ではないからダメ」なんてひとっことも言って
はおりません。あなたは何を相手にしてきたのですか?

民族がどうこうというのは、遼を入れるべきだ、元や金や清の前政権まで含めるべき
と主張する人たちの定義では他の時代に矛盾が生じるという例を説明する場合にのみ、
逆説の意味で言ったことはありますが。

で、あなたが指摘した矛盾とやらについて、私は説明しました。この説明であなたが
納得するのか、受け入れるのかは知りませんがね。また後付で別な論旨を持ち出して
の反論はやめて下さい。

600 :558:2007/03/27(火) 01:28:33 ID:/RU9XVRx0
>>599
既に>>558で指摘したことだけども、>>555の後半で言ってることは
「漢民族ではないため、正統王朝ではない」と受け取られるのが普通じゃないかと思いますがね。
>>568で否定してるつもりなのかもしれないけど、非を認めて発言取り下げたわけでもないし。

601 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 03:01:04 ID:KAWFH+dC0
>>600
冒頓は認めて取り下げたけど、エセンは間違ってませんから。

602 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 06:31:12 ID:ZgfGS8wEO
>>600の問いに対しての回答が
>>601
> 冒頓は認めて取り下げたけど、エセンは間違ってませんから。


となると>>555の後半部分は否定しないんですよね?
>>599
>金や清は歴史的な流れから言って中原征服を成し遂げた。

という部分をもって、あなたの意見を他の時代に当てはめると、
中原征服を成し遂げたとはいえない五胡十六国の異民族政権は
選考に入れるべきじゃないと思うんです。
ご自身はその考えを否定なさってます。だから矛盾してますよ――と指摘したのですが。
私はあなたが言ってるとは、申し上げておりません。
そういう意見にならないので、矛盾してますよ、と主張してるのです。
ご自身の意見にぶれが生じてませんか?


みんな武将の確定作業に入りたいと思ってるんです。
複数人から、遼からでも、西夏からでも良いから、
とにかく名前を出してくれという意見が出てます。

とにかく話しを進めませんか?かりに選考に矛盾や無理が出たのなら、
そのつど指摘し、場合によっては、先行時代の選定にまで影響が及び、
確定した人物の落選、昇格もあるかもしれません。
その時は後日改めて話し合う――こんな感じではダメですか?

603 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 06:59:10 ID:MYU6zSe40
一連の議論を見てみると、頑なに遼将の審査を主張している人は別に「遼将の誰某を入れろ」って訳じゃなく、
「最初から遼、西夏等を選考外にするな」と言ってるだけだと思われる。
つまり遼、西夏の資格が認められても、
選考議論の過程で振るい落とされて遼や西夏の将は一人もいない、とかあるかもね。
論議の上で落とされるなら強硬派も納得し得るだろうと思われるが、如何か?

604 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 08:08:24 ID:MLgwmFSh0
こんなに粘る気と思わなかったんで言わなかったけど、これって「遼は中国か?」スレでも建てて
議論するレベルの話だと思うよ。何かのついでで語るには条件が複雑すぎるでしょ。

そんで遼が中国ではないと結論が出たら、ウィキペディアにも働きかけて、抜いてもらってね。

605 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 09:01:06 ID:AT0XEXMT0
最後にそうやって無駄な煽りを入れるから終わらないと思うんだが

606 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 09:32:10 ID:aZAw7oJN0
取り敢えず遼も西夏も認めようよと流れになってるんだから
もうあれこれ五月蝿なこと言わなくてもいいじゃん
遼も西夏も推薦したい人もこんな状況じゃ躊躇してんじゃないんですか?
第一やり合ってるの二人ぐらいの人でしょ?
いい加減ウザイよ!!!

607 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 11:11:50 ID:KAWFH+dC0
たしかに熱くなってムキになっていたようです。この件はここで棚上げして停止、
選定に戻ることにしましょう。
不快な思いをさせてしまった方には申し訳ない。

ただ、中国の武将の定義ははっきりさせておかないと、この先も何度もでてくること
になると思います。

608 :黒幕:2007/03/27(火) 13:45:48 ID:2EykxZtyO
来て、見て、語れ!
このスレを1から丹念に読み込んでみて欲しい。現代のネット世界の光と闇、新しい伝説がここにある。
http://same.u.la/test/r.so/pie.bbspink.com/feti/1162548223/l10

609 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 16:57:32 ID:vtNm/IzHO
>>598 たびたびdです。
自分も馮道はかなり面白いと思います。
(つーか根回し凄杉)
あと五代じゃないですが宰相として似た様な境遇?の耶律楚材なんかも。

分裂時代への突入の仕方が五代と似ていてるなら、東晋〜五胡十六国や南北朝なんかも比較的近い状態じゃないですかね?
いろんな漢族・異民族がぐちゃぐちゃに入り交じって面白いと思いますよ。


以上チラシ裏でしたw

610 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 19:52:16 ID:L8aoC6+2O
>>592 生き残ったから確定で死んだからランク落ちっておかしくない?
周徳威自身に戦死の原因があるなら話は別だけど
双壁と称されてる周徳威の事績も紹介してその上で優劣つけてくれればありがたいが


611 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 20:19:49 ID:aZAw7oJN0
>>610

詳しい説明は◆RQdk7scN8sさんに任せますが
楊師厚に周徳威は蒙坑で破れてるのがマイナスポイントじゃないのかな?

612 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 23:01:39 ID:aZAw7oJN0
611の続き
またまた余計なお世話かもしれませんが
盟友(?)◆RQdk7scN8sさんの代わりに投下
(自分は前スレから共に論議に参加しています)
周徳威は李存勗に軽率を諫めたが聞き入れられず胡柳坡で敗れ戦死
耶律阿保機にも撃破されてますし、ここら辺もマイナスポイントと
とらえているのではないでしょうか?
だから李存勗>周徳威という考え方なんだと思います。

613 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 23:13:15 ID:aZAw7oJN0
>>612
李存勗>周徳威じゃなく李存審>周徳威でしたねスマン
ホント大きなお世話だった・・・orz


614 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/28(水) 03:23:06 ID:3CY9ORIA0
>>610
おかしくはあると思いますが、このスレでは往々にして主張される事柄と思いましてね。

自分が周徳威を語ると、またまた長くなりますよ?(そりゃもう、大好きな武将ですし)
田中ヨッシの百撰でも、周徳威と王彦章は入っていますので、それなりに知名度はあると信じて
その間に夏魯奇などを交えて、ちょっと独り言を言ってみます。

王彦章、あざな賢明(子明。注:欧陽脩《五代史記》)
鄆州の出身で、後梁太祖(朱晃)に仕え、若い頃から驍勇をもってなる。
《五代史記》の列伝によれば(死節伝に収録。劉仁贍が付録…orz)、鉄でできた槍を一本もち
騎上にあって馳突するさまは飛ぶがごとく奮う。軍中は彼をして「王鉄槍」と呼んだ。
猛将でもある。

かの魏州の乱のおり(>>518)、劉鄩の麾下に配属されていたけど、魏州が晋に下ったため
彼の妻子(魏州にいた)は、晋の人質となった。
王彦章の勇猛っぷりを欲しがった李存勗は投降を促したが、王彦章は拒否した(後で家族は冷遇された?)

その後は各地の節度使を歴任して周辺防備に携わっていった。
晋が、ついに黄河を越えて鄆州を攻め、橋頭堡を得ると、後梁朝廷は震撼した。
宰相で朱全忠時代は、軍政すべての権を一身に担っていた敬翔はこれを危急存亡のときとし
自らの首を縄で縛って後梁末帝に拝謁し
「先帝(朱晃)は臣の進言をよくお取りになりました。今、我が国は累卵の危機にあるにも関わらず、
主上は我が言をお取りあげになられたことがございません。この上は無用の者として先に死を賜りとう存じます」
と言ったので、驚いた後梁末帝は、敬翔の進言を聞くことにした。

「今の状況を打開するのに、王彦章を大将とする以外に道はありません」
現在の後梁では、末帝が左右の奸臣に惑わされており、先に劉鄩が讒言によって死を賜り
胡柳陂の戦いで、どうにか痛み分けに持っていった賀瓌も死んだので
まともな将帥は王彦章しか残っていないありさまだった。

その王彦章は、後梁末帝に召され、敵を破るのに幾日かかるか? と諮問され、ただ一言
「三日」
とだけ答えた。

後梁の朝廷は、その大言壮語を笑ったが、敬翔と当の対戦相手である李存勗だけは、それを軽く見ることはなかった。
李存勗は滑州の守将・朱守殷に、「王彦章が来るから、絶対に気を抜くな」と厳命したといいます。
王彦章は滑州に至ると、晋軍を前にして陣を張り、突然将兵を集めて宴会を開いた。
晋将・朱守殷は敵軍が着陣したことを察知したが、雨が降っていることもあり
また宴会を開いていると聞いて、その日は特に備えなかった。
王彦章は宴たけなわの頃、ふいに席を立ち、数千の精鋭のみを率いて
たちまち徳勝の南城とまわりの拠点を制圧してしまった。
それは、末帝に約束した三日目のことであった。

それから日に数十回戦闘を交えるという混戦が続き、しかしその手柄はすべて同僚の段凝という将と
朝廷の奸臣である、趙巌・張漢傑らの手によって握りつぶされ、段凝の手柄として報告された。
敬翔や李振などは、段凝の害毒を末帝に説くが、末帝は取り上げようとはしなかった。
やがて段凝が王彦章に変わって主将とされると、王彦章は牙兵のみをもって力戦し、ついに捕らえられる。
李存勗が降れと言ったが、王彦章は「豹は死して皮を留め、人は死して名を留める」と拒否し、やむなく斬られた。

以上が後梁の最後の名将・王彦章。

615 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/28(水) 04:17:13 ID:3CY9ORIA0
周徳威、あざな鎮遠。幼名は陽五。
朔州の人で、李克用の幕下に入り、驍勇と騎射によって武名を挙げる。

後梁の氏叔琮が晋陽へと攻めたとき(この時点ではまだ後梁ではなく汴州軍)
「晋の要は周陽五なり。これを擒えた者には一郡をもって褒美とするぞ!」と言い
陳章という勇名を知られる者が名乗りを上げ、周徳威と一騎討ちするが、あっさり生け捕りにされた。

後梁の康懐貞が潞州を攻めたが、潞州の李嗣昭(李克用の仮子)の堅守のため
持久策を用いようとし、主将を下ろされた戦いで、周徳威は三垂崗に伏せ、翌日一気に敵軍を撃破し
長く包囲下にあった潞州を救った。

朱晃は910年11月、王景仁を大将として潞州を奪還するため編成していた8万の大軍を
趙(趙王・王鎔。鎮州成徳軍)攻略に振り向け、柏郷に陣を置いた。
趙は晋に救援を求めたので、李存勗は周徳威や易定の北平王・王処直らとともに、戦場へ急行した。

晋軍は河を隔てて柏郷の北に着陣した。
梁に比して晋は総兵力が少なく、軍中に動揺が走ったが、周徳威は
「あれは外見は華々しいが、しょせんは町人のせがれどもだ。恐れるにたりず」と言い作戦を披露しようとした。
李存勗は速戦を望んだが、周徳威は否定した。
「梁には歩兵が多く、我が方には騎兵がありますが、ここでは騎兵の戦力は十全には生かせません」
と、李存勗はふてくされて陣幕に帰ったので、周徳威は張承業に今後の作戦を説明して、李存勗を説得してもらおうとした。
張承業が李存勗を訪れると、李存勗の方でも周徳威の意見を吟味しており、その作戦を容れることになった。

梁の王景仁は河に浮橋をかけるべく作業していたが、それを察知した晋は陣を後方の高邑にまで下げた。
周徳威は精騎三千をもって、梁の陣営に近接し罵声を浴びせて挑発した。
好機とみた王景仁は全軍を出撃させ、晋軍を飲み込もうとした。
周徳威は梁軍と戦いつつ数十里後退し、ついに高邑の南にある平原に敵を誘い込むことに成功した。
周徳威は
「敵はまんまと追撃してきたぞ。きっと携帯食も持たずに来たに違いない。昼すぎには撤退を開始するだろう」
と言い、再び速戦は避けた。
やがて正午が過ぎて、梁軍は退却をはじめたので、梁の陣営から土煙があがった。
遠望した周徳威は温存しておいた騎兵に一斉突撃を命じ、梁軍を大破した。
王景仁や李思安はわずかに身をもって逃れたが、捕獲された将校は280人に上った。

梁帝朱晃は嘆いて言った。
「子を持つなら、李亜子のごとくあるべし。我が子など豚犬のみ!」

柏郷の戦いは周徳威を語る上で外せない大戦果です。
ええ、さすがに眠たいので、続きはまた今度。


616 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/28(水) 20:12:51 ID:3CY9ORIA0
夏魯奇、あざな邦傑。賜姓名:李紹奇。

燕が兵を起こし易定を攻め、晋との間に戦端が開いた晋×燕戦役で
夏魯奇は周徳威の麾下に入って、幽州攻めに従軍した。
燕の驍勇をもって自負する、単廷珪(水滸伝じゃないよ)と元行欽は、周徳威の勇名を知っており
彼を戦場で打ち倒すことを目指していた。

周徳威が幽州に向けて軍を発し、攻めかかると二人の燕将は一軍をもって吶喊してくる
夏魯奇はその前面に立ちはだかって、単廷珪、元行欽の二人を相手取って壮絶な一騎討ちを展開した。
その壮観は、周りの兵たちが戦うのを忘れて、思わず見入ってしまうほどだったという。
夏魯奇に阻まれた二人の燕将は軍を引き、燕帝・劉守光は陣を立て直すことにした。

このとき劉守光は朱晃に救援を求めたものの、梁軍は先の柏郷での大敗もあり
また李存審らに阻止されて救援できなかった。
朱晃を嘆かせること三度目となり、朱晃は健康を著しく損なったといいます。

龍頭岡においてふたたび周徳威は劉守光軍と対陣する。
単廷珪は「今度こそ、周陽五を擒えて献上いたしましょう」と言って
精騎一万をもって龍頭岡の周徳威本営を奇襲した。

乱戦に持ち込んだ単廷珪は周徳威と遭遇し、勇んで撃ちかかったが
周徳威はわずかに身を反らせただけで、その斬撃をかわし鞭を浴びせかけて単廷珪を生け捕ってしまった。
当然、主将のいない攻撃軍は潰走し、単廷珪を失った劉守光は意気消沈してしまった。
周徳威はさらに軍を進め、李嗣源と李存審の加勢を得て幽州を降すに至る。

魏州の乱のおり、李存勗が梁の劉鄩と向かい合ったとき、李存勗はしばしば百騎程度でもって
敵情視察にでた。この行動は、李存勗が自らの目で戦場を見るという癖のようなものだった。
しかし、劉鄩はそれを見逃さず伏兵を配置させて幾重にも包囲した。
夏魯奇は李存勗と行動をともにしていたので、自らは二十箇所ほど傷を負いながらも
一人で百余人は殺し、力戦して李存勗を逃がすことに成功した。

彼は王彦章とも戦い、これを擒えることに成功している。
最後は、東川で董璋の謀叛により、城中の食が尽きて自刃した。

名将ではなく、猛将?
劉秀の賈復、劉備の趙雲みたいな感じだろうか。

617 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/28(水) 20:25:04 ID:3CY9ORIA0
おまけ「胡柳陂の戦い」

西暦918年に李存勗は黄河を越えて濮陽の近郊、麻家渡に軍を進めたので、梁軍も北行台村に着陣した。
このときも李存勗は少数での偵察を行い、何度も危機に陥りその都度李紹栄に助けられた。
(李紹栄って誰? 夏魯奇は姓名を与えられて「李紹奇」と名乗ったけど。この時期、紹の輩字をもらった人が多すぎる。わけがわからんw)
あんまりの無謀さに、李存審は泣いて李存勗を諫めたが、そのときは神妙な顔していた。
李存審が自陣に戻ったのを確認すると「あの爺がいると人の楽しみを邪魔するからな!」
と言って、李存勗はまたしても軽騎で敵を挑発しに出て行った。
梁将・謝彦章は、これをてぐすね引いて待っており、李存勗はふたたび危機に陥った。
報せを受けた李存審は手勢のみで急行し、ぎりぎり無事保護できたという。
さすがに軽挙を反省した李存勗は(きっと李存審にガミガミ言われたのだろう)、百日ほど行動を起こさなかった。

その長帯陣のうちに、梁軍のほうに異変があった。
総大将・賀瓌は、かつては自分より地位の低かった謝彦章が同列にいることに不満であり
さらに、最近つとに武名があがっているのが気に入らなかった。
意見の対立から謝彦章に罪ありとして処断したので、それを知った李存勗は大いに喜んだ。

しかし周徳威は、なお速戦を戒めた。
李存勗はそれを無視して、全軍を汴州方面へと動かし、敵を誘った。
賀瓌はそれを追尾したので、両軍は胡柳陂に入った。
周徳威は陣営を固守して軽挙を戒めたが、李存勗はそもそも敵を釣りだそうとしていたので
「せっかく敵が後から追いかけてくるのだ、軍を控えてなんとする。その方、臆病風に吹かれたとみえるな」
と退け、輜重隊を前進させ、李存勗は軍を返して賀瓌軍に向かった。

李存勗の近衛軍は、かつて魏州の楊師厚が編成した「銀槍効節都」であり、その勇猛さは梁軍を恐れさせた。
梁軍の一部がそれによって突き崩され敗走していくと、晋軍の輜重隊はそれを敵襲と間違い狼狽して
周徳威の陣営に一斉に逃げ込んだ。
それによって、周徳威の陣営は大混乱し、沈静を試みるが効果は薄かった。
賀瓌は、騎兵を周徳威の陣営に突撃させ、これを蹂躙した。
周徳威はこの乱戦の中戦死した。
李存勗は賀瓌の本営を衝き、数里後退させたものの、賀瓌の陣容は堅固に見えたので
一旦、軍を退いて陣営を整えようと思った。
しかし閻宝、李嗣昭、王建及ら諸将に速戦を主張され、愕然とした。
「公らの意見がなければ、わたしは計を誤るところであった」

小山の斜面を利用して、晋軍の騎兵は賀瓌の陣営に吶喊した。
この戦いで梁は死者三万という大敗を喫したが、晋のほうでも周徳威をはじめ、
掌書記として陣中にあった王緘が戦死していたし、さらに敵軍を追撃する余裕もすでになくなっていた。
王緘は帷幄の臣であり、その補填として巡官の馮道が起用されるようになった。

618 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 20:55:01 ID:QQ+xWEIM0
◆RQdk7scN8sさん頑張ってますなぁ。
俺も忙しい時期が一段落したことでもあるし(まだちょっと忙しいが)、
久方ぶりに人物紹介やるかね。五代では初、ってことで、
◆RQdk7scN8sさんの推す李存審とつながりが深いこの人を。
史建瑭(866-920。字は国宝)
 李克用を庇って斬り死にした史敬思の息子。
 光化年間、昭徳軍を任され、李嗣昭とともに汾州を攻め、真っ先に城壁を登り、
叛将李瑭を捕らえて李克用の前に突き出した。李思安が上党を囲んだときは総管、
周徳威の先鋒として李思安の包囲軍に穴を開け、上党を救った。また、史建瑭の
守る城を汴軍が挟み撃ちにし、退路を断ったときも、精騎を率いこっそり城を
出て、要所に精兵を埋伏を設置。罠にかかった敵兵から情報を引き出し、綱紀の
緩んだ汴軍の陣営に突っ込んで斬首千余人を挙げた。汴将・王景仁が柏郷に陣営
を築くと周徳威の先鋒として井陘まで出陣した。高邑の戦においては天が黄昏に
染まるまで戦い、汴軍が陣営に還ろうとする心理を見澄まして後背を突く。
史建瑭は自ら麾下の精騎を率いて突撃し、敵陣を陥とし、逃げる汴軍を追って
魏・滑の間を抜け、長躯追撃して、夜、柏郷に突入して俘虜、斬首あわせて数千人
の武勲を挙げた。凱旋すると趙州の留守を任され、汴将氏延賞が趙州の南を侵すと
伏兵をもってこれを破り、氏延賞を擒らえて李克用に献上した。

 光化九年、朱温が自ら蓚県を攻めたとき、李克用は唐朝の軍を率いて幽州攻略に
向かっていた。公称50万の軍が陳州、定州を侵す。李存審が史建瑭に訊いた。
「50万の大軍で攻め寄せる敵を前に、我々はなにをなすべきか?」その後史建瑭
と李存審の相談。奇策をもって活路を見出すということに落ち着く。800人の
精騎に汴軍を挑発させつつ信都に移動させ、李存審が下博橋を扼し、史建瑭と
李嗣肱は要所で敵将を擒らえる構え。史建瑭は部下三百を五部隊に分かって要所に
埋伏させ、自らは一隊を率いて梁軍に突入、敵兵を思うさま斬りまくり、梁軍を
下博橋に誘導する。翌日、両軍が下博橋に出揃う。史建瑭は自ら幾十人を斬り、
士卒百余人を捕らえる。そして将兵に「沙陀来たれり!!」と叫ばせる。梁軍は
一気に青ざめた。その翌日、史建瑭と李嗣肱は梁軍の甲冑を着込んで敵将・
賀徳倫の塞に忍び込み、門衛を殺し、塞に火をつけ、大声を上げて混乱をあおり、
目撃者を殺して帰陣した。朱温はこの晩、陣営を焼き捨てて貝州に逃げ去った。

 十二年、魏博が投降し、史建瑭は符存審とともに魏県に駐屯することとなる。
翌年、元城の戦で劉鄩を破った。澶州を取ってその刺史となり、徳勝に駐屯した。
18年、閻宝とともに張文礼を討伐し、馬軍都将とされる。八月には趙州を修復
して刺史王鋋を生け捕った。鎮州攻略の途上、流れ矢に当たって死ぬ。享年46歳。

 旧五代史に載っとる武将で一番“寡をもって衆を破”ったのは
李存孝(300とか500とかの寡兵で汴梁軍1万以上を毎回破る。バケモンか)
やと思うんやけど、彼は唐末に処刑されとるけん、唐の武将だわなぁ。やから除外。
つーわけで個人的趣味により史建瑭。
李存審の後援があったとはいえ、300+伏兵で50万を破るんやから大したもんやろうと。


619 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/28(水) 20:56:27 ID:QQ+xWEIM0
なんでやろ、名前が消えた。
多分これで大丈夫のはず。

620 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/28(水) 22:25:07 ID:LvTTdf2T0
連投やけど問題ない?
なんか人少ない感じやし、いいか。
今度は朱温陣営から、史建瑭と同じく流れ矢に当たって死んだ名将を。
郭言(生没年不明)
 黄巣を擒らえて朱温に献じ、騎将となる。
 性、剛直にして権謀あり、むしろ理知的だが戦場では鬼神のごとく荒れ狂う。
家財はすべて困窮する部下のためになげうち、すこぶる将士の心を得た。しば
しば蔡、浚の地攻略に出陣、常に少をもって多を打ち破り、出戦したからには
必ず勝利を得た。朱温はかれの勇敢果断であることを称え、賓客・僚佐たちの
前で「言、すなわち我が虎候なり」と賞賛した。

 当時、秦宗権とその徒党が数10万の兵を抱え、朱温の兵はその十分の一に
しか過ぎず、常々兵力の減少を遺憾に思いながらもこれを敵に回すことが出来
なかった。ある日、郭言は命を受け、数千の兵を率いて黄河をわたり洛河を越
えて、陝・虢で壮丁を募兵して兵力の充実を図った。夏に出立し冬に帰還した
ときには、兵力は1万余を超えていた。朱温はこの兵力をもって蔡討伐に出陣、
郭言もそれに従うも、とめどもなく殺戮と略奪が繰り返される戦場は勝利と呼
べるものではなかった。ともあれ秦宗権は逃走し、朱温は蔡の地を汴梁の版図
に組み入れた。その間、郭言は女性や老人などの社会的弱者を保護するために
奔走する。潼関を陥としたときも奸悪を除き弱者を救い、人々の絶大な信頼を
得る。

 光啓年間、日に日に勢力を増す朱温のために、唐の天子は揚州節度使兼を贈る
とともに禅譲、汴梁皇帝朱温に位を譲る。得意絶頂の朱温は幕僚の李璠を維揚に
向かわせた。このとき郭言は李璠の先鋒として戦ったものの、民心を得ていない
土地を奪ったところで意味はないとして盱胎を攻め抜いただけで兵を還した。朱
温は郭言に、今度は東伐を命ずる。郭言の出馬となると東の諸将は万人辟易、向
かうところ捷たざるはなく、郭言の存在だけで東人の鋭気は大いに崩れた。朱温
はその戦功を見て大いに喜び、“排陣斬斫”の称號を与えた。景福初年、時溥の
軍と遭遇、郭言は大敵を前に勇躍し、自軍の精鋭を率いて自ら斬首無算という暴
れぶりを見せる。しかし流れ矢に当たって倒れ、その晩陣没した。

621 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/28(水) 22:38:16 ID:LvTTdf2T0
書き忘れ。
郭言は東伐戦で東西千里の領土を切り取っております。

622 :611:2007/03/28(水) 22:52:27 ID:CpCEcV480
◆oOLAqFKRBさんお久です。
◆RQdk7scN8sさんだけじゃなく自分もそれなりに推薦文(楊師厚、霍彦威とか)挙げてるのですが…シュン
以前嫌な思いをしたのでコテもトリも付けてませんが
自分は春秋戦国からずっと◆oOLAqFKRBさんとは推薦合戦を繰り広げている者です。
(長文をもう少しコンパクトにならないですかと提案した奴と言えばわかるかと)
まあ寝言と聞き流して下さいw

では自分は後周よりこの人を推薦
王景(889〜963)
莱州掖県の人。農家に生まれ、騎射を良くし、生業に就かずに、若くして従軍する。
後梁・後唐に仕え、後晋の天福初年、相州刺史に上る。
開運元年(944)、侍衛馬軍左廂都校に任ぜられる。二年、南下してきた契丹軍を威城で破り、
侍衛馬軍都指揮使に進んだ後、横海軍節度使として、滄州に鎮める。
後漢の乾祐初年、同平章事を加えられ、後周の初年には侍中を兼ね、鳳翔節度使に転じた。
世宗(柴栄)が即位すると、中書令を加えられる。
柴栄は先虚後実・先易後難の作戦方針を考え、向順と王景を派遣して
隴右に進攻させ、半年にわたり堅持させた。
顕徳二年(955)、世宗の命により後蜀を攻め、秦州・鳳州・成州・階州を奪取する。
宋代に入って太原郡王に封ぜられている。


多少はおかしい箇所もあるかと思いますがご勘弁を…

623 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/28(水) 23:23:59 ID:LvTTdf2T0
>>622さん、気付かずにいてすいません。
短く、と気をつけながらどーしても長文になるんですわ。
つづめようとしてもいつのまにかアレ? になってしまうという駄目な俺なのです。
史書からの要点ピックアップにとどめてるつもりなんやけど、上手くいかんのですねー。
ま、そんな俺に仲間意識を感じていただけるのは非常にうれしいです。今後ともよろしく。

と、五代は皆さんに任せて俺は北宋および議論百出の遼を担当しようかなと思っとります。
現在読んでるのは嫌われキャラ、潘美。この人案外結構名将なんですよ。戦術的には曹彬の上。
この人か楊家将の息子たちの中から推薦文出して見よーかなと思っとります。
それでは翻訳に戻りますねー。

624 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/28(水) 23:43:35 ID:3CY9ORIA0
>>622 前スレで、実は◆oOLAqFKRB氏とID:CpCEcV480氏は同一だと思ってたんですよね。
で、前のとき、郭言や、台濛あたりを推挙したのはどちらさまでしたか?

>>長文をもう少しコンパクトにならないですかと提案
(どきどき…)

>>618
史建瑭とは…
こりゃ盲点でした。オヤジの史敬思については、それなりに知っているところはあったのですが。
中国古典では、李存孝とならんで英雄ですよね、史敬思。
ところで、李存孝の初名も、敬思、安敬思というんですよね。
安も史もソグド系の姓になりますね。
しかも、何かを連想させる姓… そう、安史の乱w

史敬思は、李克用が黄巣を撃破したばかりのとき、朱全忠の「悪辣な」夜討を喰らい
ベロベロに酔っ払っている李克用を、身を挺して逃がした忠良の士ですな。
この「上源駅の夜襲」は演劇の題目にも有名だとか。

李存孝は反対に、最終的には李克用に叛しましたね。
その経緯は同じ李克用の義児である李存信との確執にあるわけですが、はるかに年上な(と予想される)
李存信と、李存孝とはいろいろあわないところがあり、両者の不仲が決定的な破局を導きました。
邢州に立て篭もった李存孝は、それでも野戦では李克用には遅れをとらなかった…
というより、李克用は勝てなかった。
城の周りに塹壕を作り、李存孝を封じようとすると、李存孝は軽騎をもって出陣し飛ぶようにそれを攻撃したので
包囲軍はどうすることもできなかったという。
で、結局、李克用は弁舌達者な者に、李存孝に「邪魔をするな」と言いくるめさせました。
言いくるめられるな、李存孝よw
この辺、戦場においては鬼神もこれを避く、という知略・勇猛ぶりも微塵も感じさせないお人よし感がでています。
痴呆とさえ疑ったほどですwww

結局、城中の食が尽きてどうしようもなくなった李存孝で
それを憐れに思った李克用の夫人である劉氏は、単身城中に赴き、降伏するよう説得しました。
李存孝はただ李存信憎しのためだけに叛したと言いましたが、
「我が名誉を損ない罪をきせたのも、李存信の仕業だとでも言うのか!」
と激怒して、晋陽に連れ帰って処断しようとしました。
本心では、誰かそれを止めてくれると期待していたのに、誰も止めてくれず、結局、処断は実行されてしまったのでした。
落胆した李克用は10日引き篭もり、ために晋の兵勢は著しく損なわれることになりました、と。
(あまりの激怒っぷりに、諸将も滅多なことを言うととばっちり受けそう、とか思っていたんじゃなかろうか)

>>623
>>潘美
自分もそう思います。
人間性や人格は曹彬のほうが上ですが、こと戦に関しては曹彬、それほどでもないんですよね。

625 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/29(木) 00:23:43 ID:vPJ4/UlR0
>>624
 郭言とか台濛とか挙げたの俺ですわ。でも十国からやと呉越の顧全武になる
かな。周本にも台濛にも勝っとる。
さて、五代は◆RQdk7scN8sさん、622さんに任せて、
俺は北宋、契丹(入る入らんは別として)の人物を書いたほうがいいやろか。
一応俺、宋が専門(知識は南宋の晩期に傾いとるんやけど)ってことになっとるし。

とりあえず嫌われキャラのこの人でも。
潘美(921-987。字は仲詢)
 少年の頃から大志を抱き、度量があり、漢や周の政権交代時における乱世が
やってくれば功名を立て富貴を手にしてみせると吹いて回っていた。成人する
と後周の世宗の下で将校となり、しばしば戦功を立てる。
 後周の頃から趙匡胤と仲がよく、陳橋の変で趙匡胤が皇帝となると僚佐たちに
趙匡胤のいいところを吹聴して信服しない連中を宣撫したのは彼の功による。そ
ういう間柄なので太宗・趙匡胤からも信任された。
 湖南平定後、人心いまだ寧まらずという状況下で宣撫に派遣され、恩威両面の
政策をもってこれを定む。乾徳二年、徳裕・尹崇珂・張継らとともに郴州を陥
とし、南漢討伐の準備を固めた。
 開宝三年、南漢の劉eが降伏勧告を拒絶、宋朝は兵を動かすことを決意、その
将校の中に当然、潘美の名もある。南漢軍は賀州に兵力を集中して迎撃の構えを
見せたが、潘美は萌諸嶺を越えて一気に賀州を陥とすという離れ業をやってのけ、
破竹の勢いで南漢の州郡を陥としまくって要地、韶州に迫る。
 軍事的要地に迫られた南漢軍は急ぎ10万の兵を韶州に送るが、潘美の猛撃の
前に結局は大敗。潘美率いる北宋軍は俘虜、斬首あわせて数万という大戦果を上
げる。窮地に陥った劉eは開宝四年、宋に投降を願い出るものの、(南漢)朝廷
からの「よく戦うはすなわちこれと戦い、戦いてすなわち守るを勧めるあたわず。
守るはすなわちこれを諭して降すあたわず、降りてすなわち死すあたわず。死は
即ち死すあたわず、ここに五者、彼に接受得ずに非ず(物凄くテキトーな訳)。」
劉eは絶望したが潘美にはそれを相手にするヒマはなく。南漢の文臣蕭崔らを
開封に送り、自らは大軍をもって南進を続ける。劉eは弟・保興に使者を派遣
して宋軍に抵抗せよと命じたが、衆寡敵せず。潘美は士卒を鼓舞し、塹壕を抜け、
各所に設置された防馬柵を破壊し、広州百二十里を踏破した。宋朝は劉eの抗戦
姿勢に容赦をなくし、潘美に一気呵成で広州を攻めさせた。
 南漢皇帝(王?)劉eは甘い考えで自分の失策を認めず、最終的に虎の子の兵士
15万を険阻な地に配備、宋軍を迎え撃つ姿勢を見せた。潘美は一旦兵士たちに
休憩を取らせ、その間に間諜から敵の情報を受け取る。南漢軍が竹木で作った陣営
を構築したと知るや潘美は大いに喜び、火計を仕掛ける。大いに燃える敵陣に潘美
以下宋軍は突撃、急撃して敵軍を大いに破る。ここで劉eを捕らえて開封に送り、
南漢は滅ぶ。この戦役で宋は六十州、二百十四県、十七万戸を獲た。
 潘美は一連の功績で忠武軍節度使、韓国公に封ぜられたが、のち北漢との戦いに
敗れて官爵を剥奪された。しかしまもなく復権。没後武恵と謚され、鄭王を追贈された。

 ・・・采配ミスで楊業を死なせたヘボと同一人物とは思えません。まぁ独立した
伝で悪口ばっか書かれてる人もそうはおらんやろーけど。

626 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/29(木) 00:44:27 ID:vPJ4/UlR0
「よく戦うはすなわちこれと戦い、戦いてすなわち守るを勧めるあたわず。
守るはすなわちこれを諭して降すあたわず、降りてすなわち死すあたわず。死は
即ち死すあたわず、ここに五者、彼に接受得ずに非ず」
 これじゃ意味不明なんで、現代語訳します。
「名将はよく敵と戦い、突然へりくだったりしねーんだよ。守るんなら降伏
なんか考えずに戦い抜けやボケ。降っても守ってもどっちにしても死ぬんだ
からもっと必死になれバカ。お前なんかウチに出入りする資格もないわ!!」
 大体こんな感じだと思う。
 さて、そろそろ寝ますわ。そんじゃ。

627 :ID:CpCEcV480:2007/03/29(木) 03:38:03 ID:3RygpEsm0
◆oOLAqFKRBさんと◆RQdk7scN8sさんからのお返事キタ━━━(・∀・)━━━ッ!!!!!!
まあ長文云々はホント只の寝言ですからお気になさらずw
ぶっちゃけ◆oOLAqFKRBさんと◆RQdk7scN8sさんは勝手に盟友だと思っています(ry
(特に南北朝で過疎って時は三人で乗り切った感があるし)
御両人これからもヨロ!!
≫・・・采配ミスで楊業を死なせたヘボと同一人物
ホントそうですな楊業好きな者としては憤慨物ですわw
北宋、契丹は◆oOLAqFKRBさんにお任せしますが
よかったら五代からも推薦しちゃって下さい。
(自分の知識なんて大したことないですし、契丹、モンゴルなどは容認派ですから)

◆RQdk7scN8sさん自分は前スレから参加していますが
推薦文を挙げ始めたのは春秋戦国の選考からなんですよ。


628 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 04:31:03 ID:dq8cE7YkO
>>625
細かいですが、


> そういう間柄なので太宗・趙匡胤からも信任された。


太宗だと趙匡義ですね。両陛下が草場の陰で哭いてますよ。

629 :ID:CpCEcV480:2007/03/29(木) 09:53:26 ID:3RygpEsm0
>>628
馴れ合いとかまた言われたら嫌なので一応言い訳w
確かに太宗・趙匡胤となってますが
これは只の打ち間違えか慌ててただけでは?
だから敢えてツッコミは入れませんでした。
細かいのは結構ですが>両陛下が草場の陰で哭いてますよ。
せめてwぐらい付けてあげてくださいよ。
その方がマイルドに聞こえますがいかがですかね?


630 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/29(木) 13:55:48 ID:8987gU1e0
>>622
後周の王景ですか。
まさに「銀河英雄伝説」のラグナロック作戦を彷彿させる、後周の遠大な戦略の一環を見事に担った人ですよね。
これは、自分が勝手に物語と沿わしているだけで、まんまそういうわけではないけど。

その時期、大規模な伐蜀軍を派遣した後周は、それ以外の軍事行動は当分起こさないだろうと思われた。
王景や向訓らは、秦州で後蜀の李廷珪や王環らに結構粘られて、戦線は一時膠着していた。
そこへ、趙匡胤を督戦に、韓通を援軍として送り
天下の耳目を集めた隙に、枢密使・李穀を大将にして、油断している南唐へ攻撃をしかけた。
前線防備を怠っていた南唐は、やすやすと淮河を越えられ、また禁軍大将の李重進の速攻で
南唐の劉彦貞は敗死した。

清流関に拠った皇甫暉は趙匡胤と一騎討ちするが敗れ、張永徳、韓令坤らによって
淮南は席巻された。あっという間だった。
その中で、一人寿州の劉仁贍だけが、柴栄の本隊を相手に譲らず(30万とかの攻撃軍を寿州に足止め)
雨季まで粘り、南唐の反撃の契機をつくった。

結局、寿州以外の土地で連戦連勝の柴栄も、劉仁贍にだけは勝てなかった。
寿州を取れたのは、劉仁贍が病に倒れたからだった(南唐の首脳部が非協力的だったため、がんばりすぎ)。
柴栄=ラインハルト、劉仁贍=ヤン で、おk。

以上、たわごとでした。

631 ::2007/03/29(木) 17:08:21 ID:c9hQ6QdH0
しかし、この時代もハイレベルですねえ。
趙宋を建てた功労者の一人、呼延賛が
十傑候補にも入らないとは(T_T)

632 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/29(木) 17:15:21 ID:8987gU1e0
再び磔

五代〜北宋・遼
【確定組】
 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、(李存審)、(耶律徳光)
【候補】
 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、
 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、
 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊

【候補落ち】
 朱温(朱晃)、郭威、曹彬

【論争中】
 耶律休哥


有力候補として雑感。
>>514の楊師厚。
>>618の史建瑭。
補欠(w)枠で、耶律徳光。

王彦章よりは周徳威を推したいが、北宋期が全然出てないないので、保留。
郭言も、戦績を見ると普通に入りそうだけど、有力藩鎮とは戦う前に戦没かぁ…
どう評価しようねぇ。

たまに言われるバランスを考慮するなら、ここは十国南方勢力の、最後まで生き残った呉越から
それの立ち上げ時期の将として、顧全武を入れるのもいいか。
とすると、顧全武の詳しい事績を調べる必要があるわけだ…

南漢は、荊南、湖南や、もはや弱小国に成り下がった江南(南唐)に比べ、勢力としてかっちりしていたので
それを降すのに功績のある潘美は評点高いでしょうね。

633 :ID:CpCEcV480:2007/03/29(木) 17:35:58 ID:3RygpEsm0
>>631
呼延賛も確かに名将なのですが何げにボスの趙匡胤(太祖)と楊業が化け物じみてますから…
(趙匡胤 大、大、大好き〜w)
それに後梁、後唐、後周辺りに猛者揃い杉ですからね。


>>632
◆RQdk7scN8sさん乙です
自分も十国から誰を推そうか昨日から思案中です。
ところで霍彦威、王景は予選落ち?


634 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 18:59:02 ID:0z5HJruS0
楊師厚

開平三年、叛逆した劉知俊を劉鄩とともに討つ。長安に至った時、既に城内には岐軍が
入っていた。楊師厚は近傍の南山に急行して西門から侵入し、守将の王建は驚愕して
降伏した。
同じ年に晋が晋州を攻めたため救援に向かう。蒙坑の険で迎撃する周徳威を撃破し
晋軍を撤退させる。
柏郷の大敗の後北面招討使となり、勝ちに乗じて黄河まで進撃してきた晋軍の迎撃に当たる。
包囲された邢・魏州を助けるため前進し、晋軍は魏州から退却。漳水を越えて追撃し
邢州の囲みを解いた。
晋が燕を攻めている隙をついて十万の大軍を率いて北上し趙に侵入する。鎮州を襲ったのち東方
に進み滄・徳州を降して還る。
翌年、幽州を征服した李存勗が王鎔・周徳威・李嗣昭とともに南進して邢州に侵攻。
楊師厚もまた邢州まで進んでこれを退けた。
翌年3月死去。

楊師厚は>>514ですでに出ていますが、自分もこの人物を推します。
いけいけ状態の当時の晋軍を3度も押し返したところが高ポイントかと。

635 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 20:40:48 ID:eD1wgc/V0
ここの住人の皆様方の知識量は凄いですね。
ほんといつも勉強になります。
だれかまとめサイトとか作ってくれないかなあ。



636 :ID:CpCEcV480:2007/03/29(木) 22:52:46 ID:3RygpEsm0
>>617
「胡柳陂の戦い」で
>しかし周徳威は、なお速戦を戒めた。
>李存勗はそれを無視して〜周徳威はこの乱戦の中戦死した
これって街亭の戦いの折り曹魏の歴戦の猛将、張儁乂が司馬懿を諫めたにも関わらず
追撃を命じられ討ち死にした話に合い通じるものを感じますね。
(演義の中では逆に張儁乂が司馬懿の制止を聞かず討ち死にした事になってます)
>>630
田中ヨッシーの「銀河英雄伝説」ラグナロック作戦に準えた話にデラワロスwww


>>634
楊師厚の支援d
後梁屈指の名将ですものね。
自分も一押しの武将です。

637 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/29(木) 23:02:07 ID:8987gU1e0
>>636
そういえば似てるかも。
まぁ、その張郃の戦死について、詳しくは知らないのだけど
あれは、相手が諸葛亮という不運だったのじゃないかと思っていたり。
諸葛亮は全中国史を通じても、抜群の統率力を誇っていますからねぇ。
そうおいそれと、追撃など許さないのじゃないかと…

胡柳陂は例えるなら、第四次川中島というところでしょう。
勝つには勝ったが、大事な臣を多く失っていた、というヤツ。


638 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 23:10:20 ID:AQSbmDXX0
アレ?何時の間に曹彬が候補落ち?

639 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/30(金) 00:37:36 ID:bNBcckBn0
顧全武
 武粛王に従い常にその左右に侍った。董昌が叛き淮南の将・魏約と
ともに嘉興の将兵を囲んだとき、反乱軍の寨二つを陥として西陵に
還る。淮南の安仁義の軍が董昌に攻められると石城を腹し、董昌の
武将徐章をとらえ袁邠を降した。董章が嬰城で帝位を僭称して蘇州・
淮南を陥とすと、武粛王の命により賊討伐を命じられた。顧全武
曰く、「越州の賊、この根本は克ちて而して棄ておいても蘇を捨て置
けば越が復するにあり。時に昌の真将、兄子、驍勇善戦。全武これを
攻めて年を逾するあたわずなり」そして董昌の裨将・刺羽の隙をついて
これを殺し、そして昌の兵を破る。全武は董昌殺害に執念を燃やし、
この戦役において城を囲むと同時に伏兵を設け、自ら真っ先に城壁を
登って陣を陥とし、伏兵を発して逃亡する将兵を悉く捕らえた。
 翌年、顧全武は海道から嘉興をの奪われた版図を修復し、淮南の
18営を確保した。淮南の将・魏約を松江で破り、無錫に連行する。
また沿岸を侵す海賊を蹴散らした。また蘇州を攻めて呉の名将
台濛・周本らを相手に向かう所敵なし。遂に蘇州を回復、崑山を
陥としてその将泰裴を降した。裴は崑山に拠して呉越軍を拒んだ
ものの、顧全武が万単位の兵を投入して崑山を囲み、しばしば
交戦したのち降伏した。武粛王は千人を選んで泰裴に与えたが泰裴
は頑として固辞し、百人で十分と進言、武粛王は怒り、「軍、弱く
かくの如し。何ぞ敢えてこれを拒むや」泰裴はこれを宥めすかし、
このとき居合わせた廷臣たちは揃って泰裴の長厚を褒め称えた。
 天復元年、武粛王が呉王の宝を盗んだとの嫌疑により元老・
李神福が呉越に攻め寄せ、杭州を奪い取るも、顧全武が軍を八寨
に分けて神福と対抗する構えを見せる。形勢不利と見て撤退する
李神福は撤退するが、その退路を的確に読んだ顧全武の伏兵に
よって大打撃を蒙ったうえ、李神福自身が擒らえられる。顧全武
は彼を武粛王の前に引き出すが、泣いて訴える李神福の前に武粛
王はこれを国に帰す。はじめ徐綰は呉の後援を得ての自立を考え
たが、顧全武の存在ゆえに呉の後援が得られず、結局謀反を諦め
た。その後も顧全武は呉越・武粛王時代の重鎮として武功を挙げ、
自宅で平穏に没した。没年・享年ともに不明。

>>632で◆RQdk7scN8sさんが顧全武の事跡を・・・と仰ったので顧全武。
はっきりいって訳には自身ないですわ。ウチの十国春秋は影印版で写りが悪いうえ、
字が潰れてたりしてて読むのが一苦労。せめて句読点つけろや、と言いたくなるです。

>>628さん
 おっしゃるとおり。趙匡胤は太祖ですな。頭ん中では太祖って打ったつもりなんやけど、
まぁここは言い訳すまい。完全に俺のミスです。すんません。

640 : ◆oOLAqFKRB. :2007/03/30(金) 00:49:58 ID:bNBcckBn0
連投でもいっちょ。今日はこれで打ち止め。
楊延昭(958-1014)
幼い頃から寡黙で沈思黙考するタイプ。軍事教練を遊戯として育ち、
楊業が出征すると常に従軍して戦場の匂いをかいで育った。雍熙三年の
北伐で楊業が応州、朔州などを陥とすとき、先鋒を担った。ときに29歳。
決して早咲きではないが朔州城下で勇戦し、流れ矢に肘を貫かれたながら
も平然と戦闘を続け、ついに朔州を陥とした。父が死ぬと抗遼の将軍としての
重責を一身に担う。
 咸平二年(999)秋、遼軍が南侵。七月の間に宋朝は間諜を使って鎮州、
定州、高陽関の各部署に命令を通達、8万の兵を動員して抗遼戦の準備を整える。
九月、遼兵二十万が国境を越える。辺境は危急を告げるが間諜は戦える戦力がない
と指摘、主戦論を唱える将校は一喝されて停止した。当時、延昭は沿岸沿いの要害・
遂城を守っていたが、城には武器も糧秣もほとんどなかった。遼軍は鎧袖一触、
楽勝で城を抜こうとして猛攻をかけ、蕭太后みずから督戦して意気あがるものの、
城内も三千の兵士と城中の青年・壮年が手に武器を取って遼軍を食い止めんと悲壮な
決意を固めこちらも士気は高い。遼軍は城を囲むこと数日、突然水がかぶぜられる。
延昭は民間の井戸からといわず酒造所からといわずすべての液体を城壁にぶちまけた
のであった。翌日、遂城は冰城と化し、城壁に上ることは不可能になる。
(三国志演義で曹操がやった砂山一夜城のもとネタ)
しかたなく撤退する遼軍に今度は延昭たちが反撃する。勢いに乗って襲撃し、遼軍は
武器や鎧を捨てて逃げ去った。この戦以後、遂城は畏敬を込めて“鉄遂城”と呼ばれる
ようになる。
 遼軍は遂城で敗れたものの、今度は河北定州などの地を掠めとる。宋の真宗は同年12月、
詔を降して親政し、大名で軍馬、代え馬を調達し、遼軍を迎撃する。真宗は延昭が河北で戦い
功あったことを知り、呼びつけて辺事を訪ね、はなはだ賞賛して、「延昭の父楊業は前朝の名将、
而して延昭は兵を治めて辺境を護り、父の風あり。深く嘉すべし!!」言って厚く賞与を与え、
任地に戻らせた。翌年春、遼軍は北に去る。延昭は兵を率いてその後方を衝き、易水の北まで
追いかけてその殿軍を破った。
 同年冬、遼の蕭太后は遂城の敗北で受けた恥を忘れず、報復作戦を進行すべく軽騎数千で
延昭の本体を襲った。延昭は遼軍の策謀を見抜き、遂城西北の羊山に伏兵を敷く。まず遼軍
を城攻に引き込み、しかるのちに少数の騎兵で城の北側から遼軍を攻撃、戦い且つまた退き、
羊山まで誘導して伏兵を発し、遼軍を殲滅して主将を斬った。真宗はその報せを喜んで延昭
を莫州団練使に任命した。「楊嗣および延昭、みな嫡系にあらざれど、よく忠勇をもって自らい
たす。朝廷の中に彼らを忌み妬むものとても多けれど、朕、力の限り庇護し、ようやくこの地位に
到達す」この報せが届いたとき延昭は辺境にあり、父と同じく不公正(そんなこともないと思うが)
な人事を断った。
 景徳元年(1004)、詔により将軍・楊延昭の軍隊が加増されて一万人とされた。延昭は本来大いに
やりがいを感じるところだったが、この年“澶淵の盟”が結ばれて彼の抗遼の壮志も一旦落ち着く。
こののち顕職を歴任したのち、57歳で没。
 延昭は知勇兼ね備え、用兵に優れ、下賜された賞与はすべて部下たちをねぎらって分け与えたが、
しかし公私を混同することはなかった。軍を治めるに号令厳命、士卒と甘苦をともにし、人を待つことを
苦と思わず、敵に遇っては士卒に先んじ、功があれば部下に譲った。それが楊家軍の楊家軍たるゆえんで
あり、余人が指揮して本来の強さを発揮できるものではない。河北の辺境を守ること二十余年、
遼人は“楊六郎”と呼んで彼を恐れた。

>>639
「自信ない」を「自身ない」って打ち間違え。ホント俺は誤字が多いな。

641 ::2007/03/30(金) 00:59:31 ID:TNMRJwdr0
>>637
おっしる通り孔明が追撃など許すはずがないと張儁乂が強く主張したにも関わらず
調子ぶっこいたアホ司馬懿がイケイケと無理矢理追撃を命じたんですよ…
(おかげで死んじゃった可愛そうな張儁乂さん)
確か第四次川中島って霧を抜けたら目の前、武田だ状態wじゃなかったでしたっけ?
でしゃあないから戦ったみたいなw
(別に状況違うだろって意味じゃないてすよ念の為)

>>630
曹彬については◆RQdk7scN8sさんが上の方で理由を述べてますよ


642 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 02:01:01 ID:frRWcZHP0
いや、遼に負けてるもの判るけど
だからといって候補落ち確定になってしまったのか?

643 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 02:03:21 ID:G+2zz9/60
候補から落ちたんじゃなくて確定から候補に格下げになったってことじゃない?

644 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 11:29:57 ID:UfTnwbR6O
曹彬は用兵の巧みさだけだと、わりをくってしまっているからです。

諸将を束ね、皇帝の代理人として戦地に赴き、様々な対処を致す。
確かに名将だけども、このスレの主旨に反してると思われてます。

将としての純軍事的な功績と、用兵の巧みさをあらわす逸話があれば、書き込んでください。

645 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/30(金) 16:58:12 ID:boXD/C+e0
曹彬、あざなは国華。

後周太祖郭威の夫人である張貴妃の従弟。
ために、鎮州から京師に呼ばれ、柴栄の帳下に配属される。
柴栄が起つと、潼関監軍、上閣門使を歴任し、呉越への使者として立つ。
呉越からの贈り物を一切受け取らず、すべて上納したが柴栄は曹彬に返した。
曹彬はそれを兵士の遺族らに分け与えてしまった。

晋州兵馬都監として北漢への防備軍に赴任。
そのまま陳橋の変が起き、趙匡胤が起った。
曹彬は後周の縁戚ということで中立を望んだが、趙匡胤は曹彬と見知っており、
自ら平陽に出向いて、帰参を説いた。
客省司に任じられ(客省司とは武官の重職で、主に外交や接客を担当する)、王全斌、郭進らと計って
河東(北漢)の楽県を攻めた。
王超、侯覇栄等1800人(兵士もあわせて、だと思う)を下し、1000余人捕獲した(こっちは降伏兵ではなく捕虜だな)
そして、賊将(w北漢将のこと)蔚進が来援してくると、三度戦い、みな勝った。

宋の乾徳初年、左神武将軍(近衛)となり、北漢が契丹の助勢を得て6万の大軍を起こすと
李継勲(趙匡胤の義兄弟のひとり)と共に、晋州城下でこれを大いに破った。
その功績あって、枢密承旨を兼ねることになる(枢密院は軍部の作戦本部のような感じ。その属官)。
乾徳二年、王全斌を大将に、曹彬は都監として、宋は伐蜀を開始した。
王全斌は無類の快進撃を続けた。
王全斌はかつて、後周の秦・鳳奪還戦で、大将・王景、向訓らの麾下にあって、後蜀軍と戦った経験があった。
また、柴栄に従い、燕雲十六州奪回のための北伐でも、瓦橋関を抜くという手柄も上げている。
(後周のこの北伐は「一矢も失うことなく捷つ」と形容され、遼兵は武器を捨てて逃げ去るほど圧倒的な進撃ぶりだった)
さらに宋建国時、後周の臣たるの道を貫いた潞州節度使・李筠の乱で、これを鎮圧したいう、なかなかの武将ぶり。

その王全斌が後蜀軍相手に、20余の砦を奪い、味方との分進合撃により、相手の主力を撃破し
利州を抜き、剣門をおとし、後蜀将・王昭遠の裏をかいては前後挟撃して撃破した。
そうして王全斌が思うさまに武人としての本領を発揮している一方で、曹彬は手堅く各砦を道々降し
後蜀の領土を宋の色で染め上げていった。
王全斌は調子に乗りすぎ、占領した土地では乱暴狼藉の限りをつくし、自らも子女をさらうという逸脱ぶりだった。
ために、四川には反宋感情が根付き、また新領土政策でも失敗したので(これは朝廷が)、蜀という地域は
宋という国と一体とはなりえなかった(特に貨幣問題が大きく、四川には四川にだけ通用する貨幣を、そのまま採用するしかなかったのである)。
その中で曹彬だけが廉潔を保っていた。
翻って、李継勲とともに北漢討伐に従軍し、野戦でいくどか敵をやぶり、また趙匡胤が親征してくると
やはり戦場で勝利を挙げるものの、北漢を攻めきることはできず、契丹軍の襲来で敗北した。
そのあと、潘美を大将とする南漢討伐軍がおこされた。曹彬は従軍していない。

(つづく)

646 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/30(金) 16:58:58 ID:boXD/C+e0
(つづき)

翌年、江南攻めを開始した宋は(かなり無茶な理由で戦端を開いた。李煜カワイソス)
曹彬を昇州西南路行営都統として、潘美らを下に置き、進発させた(昇州は江南国の首都・金陵城のある州。首都州)。
その征旅の前、趙匡胤は曹彬に特に念入りに
「南方のことは一切お前に任せる。人々に暴虐を加えず、かつ威信を示し、おのずと我が軍に降るよう配慮せよ。急な進撃はならんぞ」
と言い含め、御剣を与えて、「お前の命に従わないものは、これで斬り捨てよ!」と言った。
この曹彬の起用は、軍事能力に秀でているというわけではなく、衆の統率と略奪を良としない清廉な人柄を買われてのことだった。
江陵を前進基地とした南征軍は、やがて金陵を包囲したが曹彬は容易に総攻撃をしかけなかった。
1年ほど包囲を続けるうちにも、趙匡胤は小心さながらに「おい、城中の人間を絶対に傷つけるなよ?いいな、わかっているな?」
と、何度も神経質に使者をよこしていた(趙匡胤さん… らぶりー)
と、突然曹彬は病と言って臥せってしまった。
血気にはやる軍中は、どうにか速戦を命じて欲しいのに、いきなり司令官が倒れたので驚いた。
見舞いに来た諸将に
「この病気は薬では治らない。お前たちが敵の城に入城したとき、誰も殺さないと誓うなら、この病気は治るのだ…」
と、言った。
諸将はそれを承諾して、香をたいて誓約したので、曹彬は突然元気になって「治ったぞ!」と言った(おい)。
金陵の城門をぶち破った宋軍は、曹彬の統率のもと整然と隊伍を整え入城した。
江南国主李煜は群臣とともにこれを出迎え降ったのだった。
むろん、略奪暴行は一切なく、四川のときのように民衆が暴動を起こすことはなかったという。

ただし、曹彬はこの征討では昇級することはなかった。
というのも、趙匡胤は
「まだ辺境には敵がいることでもあるし、お前を最高位につけたらもう働かなくなるのではないか?ここはひとまずおあづけにして、ちょっくら太原(北漢)を取ってきてくれんか?」
と言った(そりゃないぜ)。
さすがにしゅんとして帰路についた曹彬は、家に山積みの銭箱があるので驚いて言った。
「やはり出世より、銭もらったほうがよっぽどいいのぉ」
と喜んだという(漫才ですか、この二人は…)
しかし趙匡胤はこの翌年死去する。曹彬は枢密使に上がり、軍部の最高幹部となった。
そして、太宗が即位し、北漢への征討となり、遼との戦い、ということになりますね。

647 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/30(金) 17:28:23 ID:boXD/C+e0
>>640
お、楊延昭ですか。
実は、密かにねらっていたんですよ。
楊業よりは息子かな?とか。

>>影印版
ああ、そういえば自分も注文してたんですが、(8千円くらいだった)なかなか来なかったので、キャンセルしましたよ。
版画のような白文でしょ… 趣があっていいのだけど、読みにくいのは困りますよね。

>>642
ごめん、候補すらはずれたわけではなく、候補に落ちた、という意味です。
まぁ、一応、遼にボロ負けする前の事績を書いてみましたので、判断してみてください。

648 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 18:02:54 ID:BIemegpYO
太宗時代に入ってから負けてる宋将大杉だとオモ
足利兄弟みたく趙兄弟、軍事と政治に才能別れすぎ


649 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 22:31:39 ID:UfTnwbR6O
>>648

> 足利兄弟みたく趙兄弟、軍事と政治に才能別れすぎ


足利兄弟もそうなのですか??
頼朝、義経の兄弟以外もそんな感じだったん兄弟もいるんですね。

650 ::2007/03/30(金) 22:58:22 ID:TNMRJwdr0
>>645-646
紹介文を読むと曹彬って南北朝の于謹に近い状態にあるような気がしますね。
このスレでは重鎮とか戦略家な人物は敬遠される傾向にあり、
実際、南北朝の于謹、唐の李建成が落選していますね。
そうなると曹彬は落選確実?

>見舞いに来た諸将に
>「この病気は薬では治らない。お前たちが敵の城に入城したとき、誰も殺さないと誓うなら、この病気は治るのだ…」
と、言った。
これまた三国志演義の中で孔明が後主(劉禅)の放蕩ぶりを嘆き、
「この病気は後主が態度を改めてくれればこの病気は治るのです」
と、言ったシーンとたぶるのですが…
(これが元ネタなのかな?)

またまた寝言言ってみましたw


651 ::2007/03/30(金) 22:59:02 ID:TNMRJwdr0
>>648
>太宗時代に入ってから負けてる宋将大杉だとオモ
これは太祖が政権安定の為、古手の将軍連中を平和裡に引退に導いた為に
有力武将が根こそぎ居なくなったのが原因じゃないかと考えています。
後に節度使の欠員には文官を充てその権限を弱めていくこととなる。
(趙匡胤自身が宋州節度使であったし、節度使が大きすぎる権力を握り
各地に割拠して国が分裂するのを恐れていたんでしょう)
この文治政策が宋の基本路線となり真宗の頃には行き過ぎとなって
後にセン淵の盟を結ぶ遠因となったのでしょう。
その逆に足利尊氏は気前が良すぎて守護大名の力を弱めることが出来ず、
その為に守護大名の権力が大きくなり過ぎ
後に応仁の乱を引き起こす遠因とすらなった訳ですし…


652 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 23:08:34 ID:frRWcZHP0
文治制作邁進してるときに遼とやり合う太宗って一体……

653 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 23:25:16 ID:UfTnwbR6O
>>651

> 太祖が政権安定の為、古手の将軍連中を平和裡に引退に導いた為に
> 有力武将が根こそぎ居なくなったのが原因じゃないかと考えています。


その説が正しいのなら、洪武帝による粛清後の永楽帝が、
かなり善戦してる理由が不明です。
やはりトップの軍事的才能が影響するんじゃないかと考えます。

654 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 23:28:36 ID:frRWcZHP0
燕王には燕王の子飼いの部下が居たじゃない
建文帝が善戦したら、そういう反証はできるけど

655 ::2007/03/30(金) 23:36:42 ID:TNMRJwdr0
>>649
異母弟の直義ですね
後は有能な高師直・師泰兄弟が補佐してますし。(趙晋・コウ準みたいな感じか?)


>>652
燕雲十六州の回復は太祖・大宗の悲願ですから…
>>653
文人優遇で優秀な人材はすべて進士をめざしどうしょうもないのが「軍人にでもなるか」
と、軍隊に入ったのも多いに関係有りかと
(ごく稀に例外な人物もいますが)
それに明代と宋代では事情か違うよ。

656 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 23:40:49 ID:UfTnwbR6O
>>654
じゃ、楊業はたいした事ないんでしょうか?
太宗の時代にろくな武将がいないとは思えないのですが。
永楽帝の子飼いが水準を越えてるとは感じません。

もしそうであるなら太宗時代の武将すべて、名将候補から外してよろしいかと思います。

657 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/31(土) 00:10:02 ID:2/goJBJE0
>>652

強幹弱枝の政策と文治主義は、唐末五代に起こった武人政治へのアンチテーゼです。
節度使や禁衛に権限を与えすぎたために(与えすぎた背景は、楊国忠等の無責任が多大)
かつてない勢いで、良民や貧民層、はては賊徒の類が、政治権力を振るうに至ったわけです。
で、その権限が地方に分散しかつ、それぞれが強大であれば(軍事だけでなく、民政権・徴税権がありましたから)
相対的に皇帝の権力が低くなるわけです。

後唐明宗(李嗣源)、後晋高祖(石敬瑭)、後周太祖(郭威)と、代々受け継がれて
皇帝権力の回復を目指していましたが、郭威はともかく、先の二皇帝は、節度使や武人との間に軋轢を生んでいました。
ために、地方反乱は続発し、王朝が短命に終った次第です。
後周世宗の代に、激烈な禁衛改変が推し進められ、かつ皇帝が最前線で槍を振るって戦うという
類の少ない苛烈さをもって将兵の信望を皇帝に帰すことに、半ば成功していました。
この時点で、中原王朝は節度使の権限がやや低下しており、対して禁軍将の権限が増していました。
柴栄が存命なら、強固な中央集権が早期になったことでしょうが、早世してしまうので趙匡胤が引き継ぐわけです。

趙匡胤も節度使の権限は無視できませんでしたが、まずは自身が所属した禁衛の将軍から
兵権を取り上げました。
で、太宗の時代に節度使は実権を持たない名誉職となります。
で、ここで留意すべきは軍事権が個人に集中せず、分散させることによって恣意的に動かすことができない体制であり
その権限は皇帝のみとされたことでした。

つまり、文治主義は皇帝以外の臣に対してのみであり、国内で皇帝以上に軍事権を行使する存在があってはならなかったのでした。
もし、そんな事態が発生するなら、その国は終焉に近いことでしょう。
とにかく、初期の段階で、皇帝親征というのは宋のあるべき姿で、燕雲十六州の奪回は、後周世宗の頃からの悲願でもあり
また、長城以南の地というのは、古来からの中国王朝土地、という認識のもと政治的にも
他国に取られたままというわけにはいかないのでした。

思うに、宋朝弱卒というのは、そういった指揮権の分散にあると思われ、文人が統率したからだけ、というわけでもないと思います。
寇準が嫌がる真宗をむりやり親征させた背景は、そういうところでしょう。


>>656
楊業は、北宋に降る前のほうが、いろいろすごいですよね。
北宋に降ると、すぐに対遼戦線が始まってしまいましたから。

明のことは知らないので、政治背景を比較して検討してみてください。

658 ::2007/03/31(土) 00:17:59 ID:aFKe3hPS0
>>656
なぜそう言う理論になるのかさっぱりわかりませんがですが?w
誰も楊業などか愚将なんて言うつもりでレスしたわけではなく
五代と比べれば優秀な人材がめっきり少なくなってしまっていてるであろう
理由を自分なりに述べただけなんですけどね…   宋に名将が居ないなんて言ってませんが…

659 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 00:25:48 ID:sQC1J0FV0
>>656
違ってたら失礼。遼将を入れるのに徹底反対してた方ですかね?

660 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 00:46:55 ID:hLbEGSCv0
>>657
俺も馬鹿じゃないので、そのぐらいの流れは当然知ってる
けど、それを一番知ってる当事者である宋太宗は文治政策と中央集権の結果と
遼の軍事力を天秤に架けて、勝てる線で戦争をしなければならない
つまり孫子でいうところの「己を知り」という部分で見誤ったから敗北をした
そういう宋太宗を総大将に持って敗北した宋将が、いわば宋太宗に引きずられる形で
落選していくのはどうよ?って話

661 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/31(土) 00:48:34 ID:2/goJBJE0
>>658
いや、実際制度上、名将が世に現れにくくなってはいます… と思いますw
楊家や狄青は、いわば例外でしょう。
まぁ、それだけ五代という時代が、いかに武人マンセーな時代だったか、というところです。


662 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/31(土) 01:00:49 ID:2/goJBJE0
>>660
え?
質問の内容が変化したように思うのは気のせい?

宋太宗の、親征を判断ミスとした疑問のことから、そのせいで大敗を喫し、ために属した将も過少に評価されている
に変わったでよろしいか?
曹彬の落選は、彼個人に言うほどの戦績がないからです。
重鎮、優秀な統率者(何度も言いますが、名将とは本来そうあるべき)は、このスレ的に、一段下げて扱う傾向です。
耶律休哥による大敗は決定的であるというだけで、実際、用兵手腕を発揮したのは、王全斌とか潘美らになるわけですよ。
ただ、澶淵の盟以降は、本当に将というのを探すのがやっかいになりますので、
見つければ報告もしますが、今のところ不明というのが正直な話です。


663 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 01:27:46 ID:sQC1J0FV0
>>662
脇から割り込んで申し訳ないが、hLbEGSCv0さんが言いたいのは、
文治政策と中央集権を進めすぎて、宋軍の弱体化を招き、遼に負けるようになった。
これは大局の判断を誤った太宗のミスで、遼と戦争するなら軍隊の維持を図るべきだったし、
逆に文治政策を進めるなら遼と戦争しないで和平するべきだった。
そういう状況を斟酌しないで、遼に負けているのを理由に曹彬ら宋将が
減点されてしまうのはいかがなものか、ということじゃないですかね?
>>652>>660で発言の趣旨は変わってないんじゃないかと思いますが。
(hLbEGSCv0さん、違ってたらごめんなさい)

北宋時代、過度な文治政策のために名将が生まれにくかったという状況は、
西漢文帝が馮唐に「廉頗や李牧がいても使いこなせない」と言われたエピソードと通じるものがあるかも?

664 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 01:28:03 ID:hLbEGSCv0
変わったじゃなくて、はじめからそういう意図で宋太宗を貶めていた
俺は曹彬の戦績が悪いとは思わないし、統率者がこのスレ的に一段下げる傾向にあるとも思わない
遼の敗戦における一番の原因は宋太宗にあるし、他の五代の連中も
主君に恵まれなくて負けてることはあるのに、彼だけ遼に負けたからでは割食ってる

665 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 01:36:31 ID:a+k2XnjI0
諸葛良孔明!!


666 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/31(土) 09:12:57 ID:2/goJBJE0
>>664

>>663氏のレスで主旨は了解しました。
しかし、太宗趙匡義は、北漢に対しては勝ってるんですよ。
北漢は、あの柴栄すら潰走させ、また趙匡胤も敗退している。
太宗は潘美を遣わして、契丹の援軍をあらかじめ撃退させ、みずからは前線にたって督戦しました。
これで唐末五代にかけて不落の要害だった太原は陥落したわけです。
両二帝に為しえなかったことを為しえて、調子に乗っていたのはあるでしょうが
殿前司をはじめとする宋の中核部隊は近代無比とされ、とくに遼に対して遅れをとるほど質が悪かったわけではないのですよ。
(質が悪くなりだすのは、もう少し後の時代ですね)

ところで、高梁河の大敗は太宗のミスで間違いありませんが、曹彬が耶律休哥にボロ負けしたのは岐溝関の戦いです。
二度目となる幽州攻略戦は、曹彬を総大将、潘美を別将として分進合撃の態勢で望みました。
潘美が道々手柄を上げまくっていることに焦った、本隊の曹彬隊は、必要以上に勇んだのです。
曹彬個人は抑えようとしましたが、抑えきれなかったという。
涿州のまで一気に進軍した曹彬は、そこで補給線が届かなくなり、耶律休哥の少数騎兵に遊ばれてしまったわけです。
統率しきれなかった曹彬に責めがあるでしょう。
ただし、最終的な責任は、むろん皇帝である太宗に帰しますが、それを言うなら功績もそれを取り立てた主君に帰されるものでありましょう。

667 ::2007/03/31(土) 10:03:16 ID:aFKe3hPS0
>>664
別に曹彬は遼に負けたのだけが落選の理由ではなく
曹彬個人の武功で華々しいものがないから
他の連中より厳しいものがあるんじゃないのかなと思いますけどね…
それに統率者がこのスレ的に一段下げる傾向にあるのは事実なんだし、
実際南北朝の于謹、唐の李建成が落選しています。
その時に反論、異論はなかった筈ですが…
出来れば曹彬個人の武功で顕著なものが有れば示していただけませんかね?
>遼の敗戦における一番の原因は宋太宗にあるし
しかし太宗自身は対遼戦で足を引っ張るような事をしてますか?
例えは徳川慶喜のように自身が敵前逃亡した様に自軍の戦意を喪失させる様な事や対遼戦に消極的な態度を示したり、
してれば話はわかりますがそうではないですよね?
(徳川慶喜の話はあくまで一例ですよ)

668 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 10:30:54 ID:EZc6xv770
>>659
一応答えておきます。違います。
もっとも、>656氏がその点についてはどのような意見なのか、は存じませんが。

669 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 11:11:54 ID:5hE98XacO
私はですね、太宗の時代の負けが多いのは、
太祖の杯酒もて兵権を釈いたことが、原因ではないと言いたいだけです。

その後も王審キや石守信、高懐徳は従軍してますよね。
太宗が負けたら、兵権を取り上げたことを持ち出し、
北漢平定のときには、そのことに言及せず太宗の功績とする。
これで誰かを説得できるなら楽ですよ。

遼が強かっただけなのではないですか?
太宗以後も負け続けたのは、文治主義政策をしていたからだと思います。
ですが太祖の杯酒のエピソードは関係ないです。

670 : ◆RQdk7scN8s :2007/03/31(土) 13:17:48 ID:2/goJBJE0
>>669
ええとですね。
太宗が北漢を降したことを書いたのは、太宗個人が特にいくさに弱いというわけではないと言いたかっただけです。
その一方で、先鋒としての潘美に、かなりの功績があります。
そのことはすでに言及していますし、曹彬より上、とはっきり書いています(自分じゃないけど)。

で、調子に乗って高梁河で耶律休哥の電撃戦に負けたのは、太宗の判断ミス(戦場だけでなく、戦略全体において)。
岐溝関の戦いでは、曹彬と潘美という二大柱に軍事執行権を与えて遠征させるが、
曹彬の進撃速度が異常に速いことを危惧した太宗は、伝令でもって止めようとしました。
曹彬はできず、ために耶律休哥に負けます(これは曹彬の責任でしょう)。

臣下の兵権を解いたことで(分散したことで)、宋軍が目に見えて弱くなったのは太宗以降の話です。
和平がなって皇帝が親征しなくなったんですから。
皇帝が親征しなければ、軍は指揮権が分散し、かつベテランがいないということもあり、命令系統の伝達に
いくらか遅れがでるのは必然です。
岐溝関の敗戦以降は、太宗は和平に傾きましたが、完全になるのは真宗の代ですね。


>>遼が強かっただけなのではないですか?
まったくそのとおりですね。
戦略的な敗北というのは、突き詰めれば国力・兵勢の強弱ですから、北宋は遼に比べたら、弱小国とさえ言えたでしょう当時では。
なんと言っても、遼はそのときが一番の最盛期だったのですから。

で、文治政策を推し進めたのは、趙匡胤ですよ。
太宗は継承し、より中央集権化させたというだけで。
強幹弱枝の政策で、地方藩鎮の軍事力を低下させ、禁衛を強化し、その最高司令官を都点検ではなく、皇帝のみとした。
軍閥を解体したのは、太宗の時代ですが、武より文に重きを置き、中央軍の強化を急いだのは趙匡胤。
石守信ら古参は中央からさり地方藩鎮へと転出し、かつその藩鎮もまた牙兵が抜かれ、力を弱められた。

ここからは想像ですが
地方藩鎮の強兵を中央軍に引き抜き、兵士の質の向上に成功はしたものの
古参の将個人の裁量により、部隊を動かしていた頃と違い、最前線での現場の直感的判断が、
やはり、古参を抜いたことで鈍くなった面はあると思います。
皇帝親征により、補いはついていましたが、崩れると速いのかもしれません。



671 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 21:35:47 ID:O7SpbD8rO
曹彬の評価の是非はともかく、于ケンや李建成扱いはどうかと?
李存恭や李文忠ならわかるけど。

672 ::2007/03/31(土) 22:46:03 ID:aFKe3hPS0
>>671
于謹・李建成については上の方のレスを読んで貰えばわかるかと
(自分で探してみてね…)

673 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 22:50:57 ID:Gs9clL4R0
<開国名将十選>
周:呂尚
秦:王翦
漢:韓信
晋:杜預
隋:楊素
唐:李靖
宋:曹彬
明:徐達
清:呉三桂
赤:朱徳

674 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 23:35:11 ID:Gs9clL4R0
<亡国名将十選>
戦国:項梁
秦:章邯
漢:皇甫嵩
晋:桓温
六朝:侯景
隋:張須陀
唐:李克用
宋:張世傑
明:袁崇煥
清:李鴻章

675 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 00:03:50 ID:0mbJih4N0
李建成って殆ど語られてないし、そもそも弟に史料抹消されてるから
最初から候補外だったろ。3スレ目にして>>351でポッと名前が出ただけ。
于謹は◆oOLAqFKRBの気分で上がって下げられた感じだが。
途中で周瑜に比されてたりするけど、当の周瑜は議論中だし
その理由は活躍期間という問題で将の将だからという問題ではない。
内政・戦略も出来る統率者の五胡十六国の王猛は確定入りしてるんだけどなー

676 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/01(日) 00:14:35 ID:hcLr56bQ0
長かった書類との格闘も今日で終わり。南宋からは普通に(8時ごろから)参加できそうです。
で、五代宋初は任せると言った手前、俺も北宋中期の名将探し、一応やっとったよ。
《宋史》より
289巻、高継、高瓊の長子。王均の乱を平定、蜀の人々から“神将”と称えられた。
   高継宣、継の弟。并州で募った“清辺軍”を率いて西夏軍を退けた。
290巻、張玉、狄青の腹心
   郭逵、狄青の腹心。のち大将として契丹、西夏と戦う。
300巻、杜杞、農民反乱に転戦、広西の区希范を討つ。
   徐的、安化州の蛮族叛乱を平定、その後もさまざまな叛乱を平定した。
301巻、梅詢、河北を侵した契丹軍を督戦して撃退。楊瓊ら反逆者を誅殺した。
303巻、田京、兵法に通暁し李元昊の宋進を撃退した。
323巻、趙振、武力あり弓馬に優れ、智謀に優れ財を軽んじ義を尊んだ。対西夏戦で活躍。
   馬懐徳、寡兵をもって西夏の軍を退け、逆撃して西夏の寨10余を陥とす。
   向宝、神宗から“薛仁貴の再来”と称えられた驍将。
324巻、石普、性剛強にして胆略あり、頗る兵書に通じ、契丹、西夏との戦いに功を挙げた。
   張亢、しばしば西夏と戦い、“虎翼軍”を率いて西夏軍を破った。
   郭遵、向かうところ敵なしの驍将。愛馬が矢を受け倒れたところを殺された。
   任福、一万八千人を率いて西夏に進軍、伏兵に遇い、力戦するも戦死した。
   武英、任福麾下。伏兵の危険を危惧したが皆聞かず、伏兵の前に力戦するも戦死。
334巻、林広、しばしば西夏と戦って戦功あり。蛮族乞弟と戦いこれを破る。
335巻、チュウ師道、西夏の臧底城を破る。金軍の南進にも抗戦して一時これを退けた。
   チュウ師中、師道の従弟。しばしば金軍を退けるも、寿陽の戦で金軍に囲まれ、戦死。
349巻、劉昌祚、西夏相手に寡をもって衆を破る。騎射に最も優れ、《射方》を著す。
   姚兕、しばしば西夏と戦い向かう所敵なし。西夏の将・鬼章を擒らえる。
   姚麟、兕の弟。兄と並んで“二姚”と呼ばれる名将。
   劉舜卿、姚兕らの上官。兵書に親しみ、よく敵情を計り、守辺の名将と呼ばれる。
   劉紹能、順寧、破羅川の戦いで西夏を破り、戦功一等。47年に渡って辺境を守る。
350巻、曲珍、はじめ郭逵の部下。西夏と戦い勝ったり負けたり。
   郭成、財を軽んじ施しを好む。忠勇にして善く戦い、その威名は辺境に轟く。
   賈ー、一矢で西夏軍の大将を討ち取る。驍勇にして善く戦う当世の名将。
   王恩、徽宗時代の将。伏兵をもって西夏の大軍を大破した。
   趙隆、王韶の部下。西夏の将・鬼章を擒らえ、平夏川の戦いでは軍功一等。
353巻、張叔夜、宋江の乱を平定。金の南進を阻み将軍二人を斬る。

 ・・・こんなとこ。詳細に関しては明日まで待ってくだせぇ。今は仕事で目がチカチカしとるんです。眠いし。

677 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 01:19:39 ID:OHmyUdqAO
そのクラスの将軍なんてどの時代にも幾らでもいるだろ
候補入りすら出来ないような武将はいらん

678 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 01:25:54 ID:cjZBgJWe0
知らん人物を紹介してくれるのはありがたいが
詳細については十選に入るだろうというのを選んで書いてくれればいいんじゃない

679 ::2007/04/01(日) 02:58:26 ID:Yep9d0/00
>>677
まあモチツケw

なんか北宋って建国期と一部の例外を除き名将っていないような
印象を受けるのは自分だけか…
だから後年は女真族に頼った感は否めないし…

680 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 04:13:13 ID:mZ52tYyA0
遼も推薦可能になったし、この時代であれば外すわけにはいかないこの人を推薦。
列伝を頑張って読んでみましたが、漢文訳は不慣れなので間違いあれば指摘お願いします。

耶律休哥(字は遜寧、938?〜998)
 若いころから公輔の器量があった。烏古、室韋二部の反乱で戦功をあげ、
応暦年間の末にタ隠(宗正にあたる職?)になった。
 979年に宋太宗の北伐に際して、遼の蕭討古らが敗れて燕京で包囲され、
耶律休哥が救援の将に抜擢される。高梁河で宋軍に遭遇して、耶律斜軫と協力して
両側面から攻撃して破り、追撃して1万ほどの首級を得る。耶律休哥は3箇所負傷していて
騎乗できず、軽車を駆って太宗を追撃したが、捕らえることは出来なかった。
 その年の冬報復で満城を攻めた際、宋軍が降伏を申し出てきたが、耶律休哥は
罠と見抜いて変事に備えるよう諫言した。主将の韓匡嗣は降伏を信用してしまって聞き入れず
計略にはまって大敗してしまったが、耶律休哥は手勢を率いて迎撃し、宋軍を引き上げさせた。
この功績で北院大王となった。
 980年、景宗の親征で瓦橋関を包囲したとき、耶律休哥は宋の援軍に呼応して出撃してきた
守備軍の将を斬って撃退し、さらに騎馬隊の精鋭を率いて渡河して援軍も撃退した。
景宗から「皆が耶律休哥のようであれば何の心配も要らない」と誉めちぎられ、
馬と金杯を下賜されている。
 聖宗が即位して承天太后の摂政体制になると、耶律休哥は南面軍の全権与えられて
指揮することになった。耶律休哥は兵卒と同じ生活をし、法律の整備・桑の生産の奨励・
防衛体制の整備をして辺境の治安を向上させた。
 986年、宋の北伐があって潘美、楊業が雲州に、曹彬、米信が雄州・易州に進出し、
岐溝関や固安が陥落した。このとき耶律休哥の兵力は少なかったので正面から戦うことは避け、
夜間は軽騎兵を率いて孤立した部隊を攻撃し、昼間は精鋭を率いて奇襲し、宋軍を攪乱した。
また林や草原に伏兵を置いて糧道を断ったので、曹彬軍は撤退した。1ヶ月ほどして
再度曹彬軍が攻めてきたが、耶律休哥は軽装の部隊で宋軍に近づいて寝食の様子を伺い、
本隊を離れる少数の部隊を変幻自在に攻撃した。承天太后の率いる軍が到着して曹彬軍は
退却したが、耶律休哥に包囲され、曹彬・米信はわずかな側近と逃亡、宋軍は壊滅した。
耶律休哥はさらに追撃して、沙河の辺で駐屯していた宋軍数万を攻撃して撃ち破った。
このとき川が死体で埋まり、流れが堰き止められたという。功績により、宋国王に封じられた。
 その秋、承天太后の南征にて、耶律休哥は先鋒となり、宋軍を望都で破った。
このとき宋将の劉廷讓が数万騎を率い、李敬源の軍と連携して燕の占領を狙っていた。
耶律休哥はその動きを察知し、要所に兵を配置しておいた。承天太后の軍が到着し、
宋軍を迎撃して李敬源を殺し、劉廷讓を敗走させた。
 989年、宋の劉廷讓軍が攻撃してきた。遼将が皆恐れる中、耶律休哥は単独で精鋭を率いて
沙河の北で迎え撃ち、数万を殺傷し、宋軍の輜重を数え切れないほど鹵獲して献上した。
この功績により免拝不名の特権を与えられた。宋軍はこれ以降北伐を試みることはなかった。
宋では泣く子を黙らせるのに「耶律休哥が来るぞ!」と言うようになったという。
(原文だと「於越至矣!」でいまいち意味不明だったですけどこんな感じであってますかね?)
 耶律休哥は燕の民が疲弊していたため、賦役を免除し、孤児や寡婦を援助し、
兵が宋の国境を越えないよう戒め、国境を北へ越えてきた馬や牛といえども全て送り返した。
998年に死去し、詔勅により南京に祠が建てられた。


敵の動きを読み、寡兵でも変幻自在に敵軍を攪乱・撃破しているあたり、やはり名将ですね。
武将としての能力だけでなく民政の面でも有能ですし、「百戦を経て無辜の民を殺したことは
一度もなかった。」と評されるあたりもポイント高いけど、このスレ的には評価対象外かな?

681 ::2007/04/01(日) 13:26:18 ID:Yep9d0/00
>>680
そうですねこのスレ的には人格面はあまり評価の対象になってませんね。

耶律斜軫は蔚州を攻め破り、宋の潘美の軍を破り、朔州に進んで、
宋の将の楊継業を捕らえてる。

耶律休哥は宋軍を瓦橋関と高梁河で破り、
太宗の親征を始め曹淋・米信・劉廷譲を破り燕雲十六州を確保、
しかし尹継倫に敗れているね。
うーんやはり耶律斜軫>耶律休哥になるのかな?


682 ::2007/04/01(日) 13:28:26 ID:Yep9d0/00
連投スマン
遼に対抗して西夏(夏)からも推薦しないとなw
李継遷(963〜1004)
西夏の太祖、光孝皇帝と追尊された。チベット系タングート族拓跋部、銀州無定河の出身。李光儼の子。
李継捧の弟と言われているが族弟とする説もあり。
李徳明(太宗)の父、李元昊(景宗)の祖父
開宝七年(974)、宋の定難軍管内都知蕃落使に任ぜられる。
太平興国七年(982)、族兄の李継捧が夏・綏・銀・宥・静の五州を献じて
宋に内属し、開封に遷ると、
李継遷は夏州の東北三百里の地に移って自立。
宋に抵抗しつつタングート族を糾合して遼に臣従した。
宋に対して叛服を常にして、在地豪族と結んで勢力を蓄えた。
雍煕二年(985)、銀川を根拠地とし、定難軍留後を自称。
後に遼に対して臣を称し、義成公主の降嫁を受け、夏国王に封ぜられる。
タングート族の勢力を結集して、宋・遼に対抗、西夏の礎を築く。
淳化初年には宋に帰順、銀州観察使となり、趙保吉の姓名を賜るがまもなく叛く。
至道二年(996)に、宋軍を浦洛河に迎え撃ち、霊州を囲む。
翌三年(997)、宋の夏州刺史・定難軍節度使となる。
咸平五年(1002)には霊州を陥れて、西平府と改称、国都とする。
景徳元年(1004)、西涼府を攻めて、吐蕃(チベット)の首領、
潘羅支に襲撃を受けて矢に当たり没した。orz

683 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/01(日) 14:13:18 ID:ZrNR2d1m0
北宋中期、太宗以降の名将その一。
賈ー(字は民瞻。神宗〜哲宗期)
 若くして騎射に精通、常々“大丈夫としてこの世に生まれたからには、
自ら奮戦し名を揚げたいものだ”と発言し、家出して放浪する。神宗の
武才選考の目に止まり武人となった。
 林広の夷狄討伐に先鋒として従軍、西夏の軍を明堂川で破る。ほかにも
いろいろ功があって昇進。紹聖年間、西夏の軍が数万の大軍で麟州の
神堂寨を囲むと危急にあって賈ーは数百騎を率い、“国家が安泰のとき
おまえたちに厚い禄を食ませて養育してきたのはまさに一旦このような時
のためである。今力敵わずといえども、私は死をもって国に報いんと誓う!!”
と宣言。100騎の兵はみな感動し、速攻で屈野河まで至り、そこから五里の
北欄坡嶺に登った。賈ーは一箭のもとに敵の酋長を射殺して敵を潰走させる。
哲宗はその戦果を大いに嘉して恩賞を下賜し、威州刺史に任命した。
 賈ーは辺境にあること20年、知略ありよく士卒を御撫し、戦えば必ず
勝って当世の良将と称えられた。濠州団練使にまでなって52歳で没。
雄州防御使を追贈された。 

 ・・・なんか短いけど中期〜徽宗までの武官はほとんど全員2,3ページしか
割かれてないんでこんなもんです。いつもは長すぎるぐらい長いんやけどなー。

684 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 14:29:39 ID:mZ52tYyA0
>>681
耶律休哥が尹継倫に敗れたあたりの記述がどこにあるのか探してるんですけどご存知でしょうか?
尹継倫列伝や宋史本紀には将の名前までは書いてないし、尹継倫が撃退した
989年7月の遼遠征について、遼史本紀では南征したって記述だけで誰が従軍してるかわからないですし、
耶律休哥の名前は989年6月の戦勝記録以降、逝去する998年まで出てこないんですよね・・・

耶律斜軫は列伝の記述量が耶律休哥に比べて激減するのと、
戦勝はしててもここがすごいっていうのがわかる記述がないんで、
セールスポイントは無理攻めさせられた楊業をラッキーで捕らえたくらいな気がしますが。

遼から入れるとしたら、太宗は確定として、耶律休哥・耶律斜軫はどちらか一人になりますかね。

685 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/01(日) 14:58:14 ID:ERvMR/+10
>>676

モツカレ。
探してみると、結構武官いるんですね…(つうか、よくみつけましたねw)
けど、やっぱ狄青が別格かなぁ。

話の腰を折ってすまんけど、北宋中期以降、武官としてどのあたりの使職についていれば
高位な方なんでしょう?
団練使や防御使って、五代では中堅クラスですもんね…

と、唐末〜北宋初オンリーの自分が訊いてみる。

686 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 15:01:10 ID:mZ52tYyA0
中国サイトで同じような企画やってるところを発見(既出だったら失礼)
三国志に異常に偏りすぎだろ!とか突っ込みどころもいっぱいありそうですけど(笑)
細かい説明や、選外になった候補の記述もあっていい感じ。
ttp://big5.hjsm.tom.com/gate/big5/html.hjsm.tom.com/html/book/8/784/875645941,4e01.htm

このスレでの選考結果もログと一緒に、こんな感じでまとめサイトになるといいですねぇ。

687 ::2007/04/01(日) 15:08:44 ID:Yep9d0/00
>>684
Webを見てたら
統和七年(989)、宋の尹継倫に敗れて、ひじに傷を負った。
と記載されてたので参考になればと思いカキコしてみました。


◆oOLAqFKRBさん
チュウ師道は南宋・金〜元の候補枠に入ってますがチュウ師道は北宋、南宋のどちらの武将になるんですか?
チュウ師道について全く知識がないもので、よかったら詳しくお教えねがえませんか?


688 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 15:15:22 ID:mZ52tYyA0
>>687
レスありがとうございます。
おそらくそのWeb、枕流亭の人物辞典ですよね。こちらも検索かけて見つけてたんですけど、いざ史書を読んでみると記述がなくて。
>>686のサイトの耶律休哥の評見てみると尹継倫に敗けて肘に負傷した記述があるんで、見落としてるのかもしれません。どこだろう・・・

689 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/01(日) 15:28:30 ID:ZrNR2d1m0
劉昌祚
 父を定川の戦いで亡くす。蛮族の酋長のもとに赴きこれを論破、
ねぎらいの言葉と賞与を賜る。帰国後、対遼戦を想定した神宗の
武才選挙に合格して舎人となった。西夏が劉溝堡に攻め込むと騎兵
2000の増援軍を率いて出陣、黒山に伏せていた遼軍の伏兵1万と遭遇し
交戦、不利な戦況の中で劉昌祚は敵の大将を射殺し、遼軍を潰走させる。
劉溝堡の将帥李師中は劉昌祚の功績を褒めちぎって朝廷に報告、劉昌祚
はそれによって昇進する。
 王中正に従って入蜀、羌族を討つ。元豊四年、原副都総管となる。
皇帝の西征軍に総管・姚麟とともに従軍、少数民族および漢民族あわせて
5万の兵を率いる。入境後、環慶の高遵裕がはぐれたのを寡兵で探しに
出て、胡盧川で西夏軍10万に出会い、敵が隘路で思うように動けないのを
見て取って突撃、1700人を斬る。敵の食糧を奪いそのまま鳴沙川まで
進軍、霊州に迫る。高遵裕が使者を遣わして劉昌祚の先走りを諌めるが、
劉昌祚は黙れと一喝、夕方、敵軍と交戦した。高遵裕が数千の援軍を送るも、
黎明には劉昌祚の軍が敵を退けていた。翌朝皇帝に謁見、霊州城を前にして
「ひたすら攻めりゃいいんです」と進言、高遵裕が「城を囲んで兵糧攻め
すべきです」と言ったものだから劉昌祚は怒りに怒り、上官である姚麟の
兵権を奪うという暴挙に出る。翌日、環慶軍と原軍が大喧嘩するという
一幕があったものの一応は兵糧攻めが採択され、18日が過ぎるも降すあたわず。
逆に追い詰められた西夏軍が決死の覚悟で出城、環慶軍を潰走させる。そこで
劉昌祚が出馬し、西夏軍を叩きのめした。これによりまた出世する。
 翌年、永楽が陥とされ現地士卒の士気が奮わないということで各軍の武芸を
競わせ、優勝者に名馬を下賜した。また西夏が塞門、安遠門に攻め寄せると
反撃に出て彼らを打ち負かし、総帥・葉悖麻と吪埋の二将を殺した。この戦い
で永楽の士卒が活躍したので、皇上は大いに喜び、宦官を派遣して慰労した。
 哲宗が即位するとさらにさまざまな官職を与えられるが割愛。士卒に弓兵と
2頃の土地を与え、騎兵隊で馬を喪ったものには新しい馬を支給した。隴山の
田地で万頃の収穫があり、その経済力を持って士卒5千人を募兵。これを指揮
統率して剽悍な部隊とする。西夏との戦いに生涯を捧げ、68歳で没。
開府儀同三司を追贈され毅粛と謚された。

>>685
宮崎市定全集「宋」からの引用で自分でも確証はもてんのやが、多分で。
節度使、承宣使、観察使、防御使、団練使、州刺史の順でいいと思うです。
節度使っつーても武官の実権なんぞほとんどないわけですが。
制置使とか都統制はまた別扱いみたいでして、同時に兼ねる武将も結構おったり。

>>687
チュウ師道は一応北宋でいいかと。ほぼ西夏との戦いで前線に立っとるし、
靖康の変以前に死んでる(多分死んでたはず)から。
でも張叔夜と並んで抗金の名将のはしりみたいな存在ではありますな。

690 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/01(日) 15:42:55 ID:ZrNR2d1m0
連投やけど書き忘れ。
劉昌祚は気力満々の雄偉な偉丈夫で、騎射にかけては当時天下一等、
百歩外れた的を外すことはなく、西夏の兵は彼の射術を神業と畏れたそうな。
著書に《射法》があるが現在散逸。
>>685さんの質問に答える形で言うとこの人は節度使にまでなってます。
>>687さんへ。范仲淹、韓g、チュウ師道の三人は北宋の候補に入れたはずが俺の
ミスで南宋になってしまっただけです。チュウ師道はほぼ確実に北宋、ということで。

691 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/01(日) 15:43:35 ID:ERvMR/+10
>>688
《続資治通鑑》の、『宋紀十五』(遼統和七年…)、六月末にそれらしい記事がありました。

>>休格食未竟,棄匕箸走,爲短兵中其臂,創甚,乘善馬選遁。

休格? 休哥でしょうね(自分のはちょっとアレなヤツですんで…)
ちなみに、尹繼倫がらみと思います。

692 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/01(日) 15:47:43 ID:ERvMR/+10
>>690
>>節度使、承宣使、観察使、防御使、団練使、州刺史
なるほど、またちょっとその辺の資料探してみようかな。

>>百歩外れた的を外すことはなく、西夏の兵は彼の射術を神業と畏れたそうな。
李克用伝説とまんま同じですね、ソレ。
韃靼が西夏になっただけという。

693 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 16:21:53 ID:mZ52tYyA0
>>691
おお、ありがとうございます。
続資治通鑑をネットで読めるところ発見して該当部を確認しました。(いい時代になったなあ・・・)
宋史や遼史に記述がないのは、元が編纂したんで遼よりの記述だったってことなんですかね。
逆に清代に編纂された続資治通鑑だと、宋よりに捏造してないかとか疑いたくなったりしますが(笑)

休格と休哥両方で検索かけてみると、一応両方あってるみたいですね。
細かく見れてないですが、宋朝は休格と呼んでいたってことのようです。

694 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/01(日) 16:38:20 ID:ERvMR/+10
>>690
あ、そうだ。
チュウ師中の「ちゅう」は&#31181;を使ってみてください。
変換できるはずです。

>>693
耶律休格… ま、たしかにそれで記述されているわけですが
いまいちパッとしないイメージが。
ともかく、謎が解けてよかったですね。

695 ::2007/04/01(日) 19:20:08 ID:Yep9d0/00
>>689ー690
◆oOLAqFKRBさん dです何度もお手間かけさせて申し訳ないです。

&#31181;師中の紹介文(?)是非お願いしたいですね。
張叔夜は済州太守か知州の文官(?)なのに
なんか宋江戦では見事な戦術を披露したみたいですね。
あと抗金戦で悲運の死を遂げた人物なんですね。
范仲淹は文官・詩人のイメージが強いので自分的には意外です。 
韓世忠は金の宗弼率いる10万の大軍を相手に,わずか8000の手勢で退路に潜み追撃し打ち破ったり、
文武兼備の妻の梁紅玉ともに戦場を駆け巡ったこと人物ですね。
主に活躍したのが南宋期だし、岳飛・張俊と共に抗金の名将として有名ですし、
韓世忠は南宋でいいんじゃないですかね?ダメ?


ここでまたいつもの寝言w
韓世忠は奥さんと一緒に戦場を駆け巡ったとこなんて
北魏の楊大眼と妻の潘氏が駄ぶるのですが… 


696 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/01(日) 20:44:23 ID:ERvMR/+10
种師道

&は&(半角のアンド)で討って…
ところで、南宋行ってますが、五代・北宋・遼の確定をどうしましょう。
そういえばうやむやになったけど、曹彬の件、なんか鮮烈な戦勝報告でもないもんかな。

高懐徳とかどうなんだろう。
オヤジの高行周は対契丹戦で勇名を馳せた、ガチの名将ではありますが(10人には入らんでしょうが)。

697 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 20:58:50 ID:5sYk0nXe0
>>695
奥さんとセットでなんぼって感じだからなあ
さすがに10人には入れにくいような

698 ::2007/04/01(日) 21:54:18 ID:Yep9d0/00
>>696
>&は&(半角のアンド)で討って…
すいません◆RQdk7scN8sさん 种師道これでおK?

>ところで、南宋行ってますが、五代・北宋・遼の確定をどうしましょう。
これまたすいません(;^_^"
決してそんなつもりじゃかったんですけど、流れ変えちゃった?
推薦が落ち着いたら確定の方を決めていく方向でいいんじゃないですかね?
(西夏も仲間に入れてあげて下さい…)


699 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/01(日) 22:04:12 ID:IbwTPFXu0
今种師道の訳を進めてる最中ですので、五代〜北宋はいま少し待っていただけると助かりますが。

ちなみに韓世忠、この人自分に拝礼しない部下(呼延通って言うんやけど)に
キレて徹底的にシカトしまくり、自殺に追い込んだ恐るべき男、というイメージ
が強くてどうしても好きになれん。まぁ、このスレでは関係ないのか。

700 :転載:2007/04/01(日) 22:31:47 ID:inohJBGt0
>217(北宋時代の軍事費も相当なものだったでしょうな)
相当どころの話ではない。宋はその国初から兵農一致の国民皆兵制を断念し、
傭兵による常備軍を保持していたため、軍事費は財政全体の8〜9割を占めた。
人民は兵役を免れたものの、労役は依然として存在したし、
軍事費は主に塩税で調達されたから、結局は別の形で生活を圧迫された訳だ。
王安石が唐代の徴兵制へ回帰をはかったのも、かかる事情が背景に存したためだ。

王安石の兵農一致政策(保甲法という)は、財政面から言えば一応の成功をみた。
なにせ保甲法による軍隊の維持コストは、従来の十分の一程度の試算だったからだ。
実際はそこまで計算どおりには行かなかったにせよ、歳出削減の効果は劇的だった。

ただし、兵制改革のもう一つの重要な目的である軍隊の精鋭化は達成できなかった。
王安石は、軍隊の弱体化は傭兵の士気の低さに原因があるのだから、
外敵から自らの生活を守るという確固たる目的を有した民衆を徴兵することで
士気の高い軍隊を作ろう───と、考えたわけだが、実際そう単純なものではない。
王安石は民衆の国防意識を過大に見積もっていたのだな。
民衆にとっては、いかに農閑期とはいえ、一銭にもならぬ軍事教練などに
駆り出されるのは迷惑であろうし、また、戦争は農閑期を狙って起きるものではない。
加えて、兵士は卑しい身分であり、軍隊はやくざ者の集まりである───という、
中国独特の卑武精神もある。そうした気風は何も士大夫だけが持つものではない。

であるから、巨大な軍隊を抱えつつも、外交で平和を模索するという宋の国家観は、
実情を反映した合理的な考え方であったのだ。宋は弱腰で腑抜けた時代であると
揶揄する者も多いが、近世東アジアの超大国として、それが最も妥当なあり方だった。


701 :転載:2007/04/01(日) 22:34:28 ID:inohJBGt0
↑の見解はなりきり(太陽板)の「蔡京 ◆GtkPmKwSp2」氏のもの。
実に面白い。
一応、このスレの住人にも紹介しときたい。

702 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/01(日) 23:01:51 ID:IbwTPFXu0
狆師道
 子供の頃は張戴(知らんけど、多分学者)に学び、試法(科挙)に及第、
熙州の官に推され同谷知県を兼任する。同谷県では田産訴訟が二年にわたって
未判決のままであり、狆師道もこれをおしつけられて難儀したらしい。
 文官時代にもいろいろあるが、とりあえずはしょる。なんか蔡京やら童貫
やらに気に入られず不遇だった模様。でも皇帝からは気に入られた。それがまた
奸臣たちには気に入らんかった様子で、西安州の知事とされる(実質的な左遷)。
 西夏が定辺を侵し、仏口城を築城すると狆師道は兵を率いて仏口城を破壊。
兵士たちが喉の渇きを訴えると山の西麓を指し、「水はここにある」といって
井戸を掘らせ、潤沢な水脈を確保した。またいらんこと昇進するが割愛。各路
の兵士たちを督して席葦平に築城、敵が到来すると葫蘆河に退き、川辺に布陣、
戦況を見守る。夜中、偏将の曲充を小道から横嶺に出し、大声で援軍到来を
叫ばせる。敵が驚いて背後を見ると楊可世が後方から敵軍を襲い、さらに姚平仲
が精兵を率いて進撃する。狆師道軍は算を乱した敵を大敗させ、斬首50級を
挙げ、牛、馬、駱駝などの家畜たち数万を獲る。敵の酋長はわずかな供を連れて
逃げ去ったが、自分の城に還ったところで死んだ。
 また陝西、河東七路の兵を率いて臧底城を攻め、十日でこれを降せと命ぜられた。
城に近付くと頑強な抵抗を受け、敵の士気の高さが知れる。対するに官軍は怠惰で
将校の中には勝手に休息するものもいる始末。狆師道はそういう輩を斬り捨て、
軍門にさらして「今日この城を抜けなければこうなるぞ」と言って綱紀粛正。
士卒は恐怖にせきたてられてわれ先に城に登り、瞬く間に城を落とした。
八日目のことだった。皇帝に報告するとまたも昇進。割愛。
 都統制、保静軍節度使となった童貫は、燕回復の謀を立てる。狆師道以下の
諸将はいかにも嫌がり、狆師道が代表して「それは盗人のやることだ」と反駁、
しかし童貫はそれを黙殺して白溝まで出陣、遼軍に察知されて宋軍は多大な
損害を蒙る。狆師道が自ら身を挺して兵士たちを収容したおかげで大敗には
いたらずに済んだ。
 遼からの使者が女真族挟撃をもちかける。童貫が返答する前に狆師道が
「そう言うやり方は義にもとります」と諌めたのだが童貫はこれをまた無視、
狆師道の官位を落とし、代わりに劉延慶を起用した。劉延慶は盧溝で大敗、
帝は「やっぱり狆師道じゃのう」とか言ったが実権を蔡京、童貫に握られて
いるのでなにも出来なかった。ちなみに貶められた狆師道の官職は憲州刺史、
環州知事、保静軍節度使で、案外高位なままだったりする。文官だからか。
 金軍が南下すると朝廷は大慌てで狆師道を呼び、たっぷり官職を授けてから
金と戦ってくれと懇願、狆師道は姚平仲とその麾下7000騎を率いて出陣、洛陽
にいたり、京城に向かうオリブに対峙する。朝廷に「敵の勢い盛ん、今しばらく
水に駐屯するのが万全の計かと」と呼びかけつつ、部下たちには「我らは寡兵
といえどもだからといって遅疑し進まぬことのないように。事情がばれれば一気に
やられるのだ。鼓を撃って前進し、きゃつめらに我らの虚実を見抜かせないよう
にするのが重要なのだ。京城の人、我らを見れば自然と意気振るう。なんぞ
敵人を憂慮することがあろう!!」とアジる。彼は行く先々でビラをまき、
种少保危急と知った人々が集まって100万の大軍となる。汴京に至り汴水の南に
兵を進め、敵の陣営に兵力を直撃させると、金軍は大いに恐れ、戦わずして
北に還った。
 当時狆師道といえば“种老”と呼ばれるほどの有名人となり、欽宗皇帝もよく
その意見を聞くようになった。欽宗曰く、「今ウチの国ってヤバくない?」
狆師道「女真族なんぞ兵法を知らんイノシシばかりでござる。孤軍他国を侵略
するほどのことは出来申さん」と頼りがいのある返事。欽宗「講和したんよ」
狆師道「軍旅のことは私めにお任せを。しかし講和はまずかったですな」という
ほのぼのトーク。ちなみにこの間も狆師道はまたまた出世したんやが、それより
副官の姚平仲が都統制に出世したのが大きい。


703 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/01(日) 23:02:45 ID:ERvMR/+10
>>700
転載にレスするのもなんだけど

>>軍隊の精鋭化
後周の世宗柴栄が、禁軍の改変を大々的に行ったことは有名なことでした。
当時、中原の王朝というのは、後唐から後周に至るまで、同一勢力からの派生ということで
皇帝直属の親軍たる、近衛がほとんど入れ替えられることがなかった。
しかも、後唐荘宗李存勗の親軍というのは、かの楊師厚が編成した銀槍隊であり、
銀槍隊は、楊師厚という節度使の牙軍(節度使に密接に関係した兵)であったので
傭兵的性格を色濃く持っていた。

それは、給金をしぶると不満を抱き、厚遇すればつけあがるという、とんでもないものだった。
しかしその武力に頼らなければ、いくさにも勝てないし、皇帝権力の維持も難しい時代だった。
後唐明宗が、侍衛親軍を創設して、一旦分散はしたものの
後晋、後漢と、侍衛親軍に属する将兵に、大きな異動はなく
良く言えば古強者、悪く言えば老弱兵が多数在籍していた。

後周太祖郭威はそれを慮って、新たに殿前軍を創設するも、改変する前に死去。
後周世宗柴栄は、即位直後の「高平の戦い」において、この不安定な殿前軍と老兵およびつけあがりの侍衛軍を
率いて戦わねばならなかった。

侍衛親軍の馬軍と歩軍の指揮使(大将)が、北漢の猛将張元徽の攻撃にビビり、敵前逃亡を図ったため
後周軍右翼は潰走。
柴栄は中軍本隊の先頭に踊り出て自ら敵兵を切り伏せることで士気を保持させ
張永徳、趙匡胤に命じて、敵の中央突破を成功させた。

北漢には野戦で勝利したものの、太原攻めには失敗し(自身の判断ミスで)、大敗してしまったが
それを置いても、敵前逃亡した将兵に腹立ちと改変の必要性を痛感した。
侍衛親軍に属する老兵はすべて解雇され、新たに募った壮丁をもって補充し
殿前軍には趙匡胤に特別審査を行わせ、武芸に秀でた者を登用していった。
これによって、禁衛軍の総兵力は減少したものの、近代無比と言われる後周禁軍が誕生した。

と、何が言いたいかというと、柴栄の言葉にある
「およそ軍隊というものは、数が多ければよいというわけではなく、その質こそ肝要。今、農家百人で一人の兵を養うありさまだ」
ということで、北宋もいつの間にか、そういった根幹を忘れて、軍隊を肥大化させてしまったのだろうか。
ま、建国期と統一状態が何年か続いたときとでは、比較にはできないけどね。

これはチラ裏だけど、一応、柴栄確定の根拠の一つとしてトリビアにでもしてもらえれば幸いです。


704 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/01(日) 23:03:34 ID:IbwTPFXu0
狆師道の2
 ときに狆師道、病を得て、皇帝から拝謁の礼をとる必要なしと赦される。堅物の
狆師道は腰が曲がらんなら膝をついて拝謁しようとしたが、欽宗は笑ってそれも
必要なしと説く。この時期すべての門が閉ざされ、市に新しい野菜が入ることもなし。
狆師道は皇帝に請うて西と南の両門だけを開くよう頼んだ。
 金に馬忠という偏将があり、彼の前軍隊が遮ったという罪で6人ほど斬る殺人嗜好者だった。
これに恐れをなした士卒たちが南に流れ、狆師道に附く。彼らは自分勝手な規範を作り再び金と
宋との境界線を越えようとしたので、狆師道は金を支払って彼らを郷里に帰した。黄河を扼守す
るために彼らを使おうと言う意見も出たが、狆師道はそれを黙殺した。
 种氏、姚氏はともに山西の大族姚平仲の父姚古は熙河軍に入援した。姚平仲は
功名を独占するわけには行かないと父を帰したが、この頃になると士卒が速戦
に向かず命令系統が途中で途絶えるなどの不都合が出るほどの増加傾向にあった。
李綱はそれについての議上で、城下の兵が命令を聞くようになるまで姚平仲の
節度下に置けば宜しいと述べた。欽宗は毎日人を派遣して狆師道に作戦を諮問し、
狆師道は弟の狆師中と兵を分かっての分撃作戦が可能であると上奏。8日後、
金の軍営に襲撃をかけた狆師中はみごとに敗北した。敗戦後、李邦彦に軍権の
3割を奪われたが、狆師道は紛争の種になるとしてなにもいわなかった。
 金軍が退いたのち、御史中丞の許翰が狆師道の軍権を解くよう欽宗に上奏した。
理由としては「狆公は老年であり、これ以上の任に堪えられるとは思えない。
陛下は彼を信任しすぎている」とのこと。実際は狆師道と欽宗が太いパイプで
繋がっているのが気に入らないだけなわけだが。狆師道が黙っていると許翰は
嵩にかかって、「国家危急のときに書生なんぞにまかせられぬ」とか言った。
狆師道の反論「彼は少なく我は多く、分担して結営すれば要地を守ることは
たやすい。彼の糧道を截ち持久戦に持ち込めば、必ず勝てるのです」許翰は
狆師道に心酔し、狆師道は老年と言えど往年の智謀衰えず、なお用うべきと
上奏したほどの変わり身を見せる。狆師道、太尉に。
 金兵再来に際し、狆師道は各地の軍を召集、大敵を捕退すべく出陣するも、
まもなく狆師中が戦死、姚古が敗北し、朝廷は震撼、狆師道に軍を還すよう
要請する。太原が陥とされ、とりもどすべく彼は進軍を決意する。金軍が一挙
攻め寄せてくることを警戒しつつ各個撃破、欽宗より下賜された鉾を振りかざし、
長安までを回復する。大臣たちの怯えるさまに仕方なく京師に軍を還す。京師に
たどりついたところで逝去。76歳であった。欽宗は彼を喪い大いに慟哭したと言う。
 京城の守りは喪われ、皇帝の胸に穴が開く。「狆師道の謀を用いず、どうやって
たたかえというのか!!」そしてその後、靖康の難が起こり徽宗、欽層は北に連れ
去られる。狆師道は建炎年間、少保を追贈され、忠憲と謚された。
 チュウの字が変換できなかったので狆の字で代用。すんません。

705 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/01(日) 23:28:54 ID:ERvMR/+10
>>チュウの字が変換できなかったので狆の字で代用

サブでみたら「・」になってる。
メインでは楽勝で見えているのに。
チュウは簡体字にもあって、それは「種」に対応しているんですけど、これでは漢字が違いますよねぇ。
となると、洺州(めいしゅう・シ名州)もだめか?

706 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/01(日) 23:50:08 ID:IbwTPFXu0
そーなんです。変換できんのですよ。ところどころ“・”になっとるし。
それはさておき、
狆師道も挙げたし、ここいらで五代〜北宋の最終選考に移りたいのですがよろしいか?
【確定組】
 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、(李存審)、(耶律徳光)
【候補】
 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、
 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、
 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊
 耶律休哥、狆師道、劉昌祚、李継遷、賈ー、潘美、楊延昭、顧全武
 楊師厚、史建瑭、王景、康壊貞、劉鄩

【候補落ち】
 朱温(朱晃)、郭威、曹彬

 過去最大の候補数。なんといっても魔の定義論含め300レス近くこの時代で
続いたけんね。あと、十国からは顧全武と劉仁贍の二人ぐらいでいいかもと
思うが、いかがか?

707 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/01(日) 23:52:57 ID:IbwTPFXu0
あ、楊師厚と劉鄩、すでに挙がっとったね。重複してしまった。すんません。

708 ::2007/04/01(日) 23:58:04 ID:Yep9d0/00
>>702>>704
◆oOLAqFKRBさん 乙です
>奸臣たちには気に入らんかった様子で、西安州の知事とされる(実質的な左遷)。
まあ北宋って左遷とか日常茶飯事なんですよね。
新法派・旧法派なんて互いに足の引っ張り合いしてたぐらいですし、
名前はちょっと思いだせないんですがw
最終的に海南島に左遷された後、朝廷に復帰した人物とかいるぐらいですし…

またまた何時もの寝言言ってみましたw


締切もう一日待ってもらってもいいてすか?
郭崇韜の推薦文を挙げたいのですが今日はもう寝たいです。
ダメなら諦めますが…

709 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/02(月) 00:09:58 ID:3SOpQK0D0
勿論OK。つーか俺が決めることじゃないし。
みんなで納得して決めんと、
後々(俺はこいつを挙げるつもりやったぁぁ!! ならば俺はこいつをー!!)みたいな確執が怖いしね。


710 ::2007/04/02(月) 22:13:03 ID:BY7tkA820
郭崇韜(?−926年)
代州雁門の人。字は安時。己を郭子儀の後裔だと自称した。
李克用、李存勗(荘宗)父子に仕えて中門使に至る。
李存勗が皇帝となり後唐を建国した際には、兵部尚書・枢密使とされ重用される。
後梁を滅ぼすと、論功第一に挙げられ、侍中・成徳軍節度使となる。
郭崇韜の位は人臣を極め、権勢を奪われるのを恐れて魏国夫人劉氏を皇后に立てるよう密奏し、
また「時務利害二十五条」を説いて、宦官を排斥。
後唐建国から三年後の同光三年(925)に
なかなか飛躍の機会が得られなかった宦官勢力に、絶好のチャンスが到来。
(おいおいw)
この年に王衍が割拠する前蜀政権の併合を企図した荘宗は、
太子の魏王李継岌を名目上の総大将として、
実際の指揮を郭崇韜に執らせ遠征軍を派遣。
この前蜀攻めで郭崇韜は東北面行営都招討使を勤めた。
前蜀は後継者争いのために国力が低下、遠征軍は一戦しただけで王衍を降伏させることに成功。

前蜀攻めは領土拡大と同時に
後唐は荘宗が浪費家だったこともあって財政面が苦しく、
豊な四川地方を併合し、財政の回復をさせる第二の目的を含んでいた。
王衍の降伏後に荘宗は、成都からの戦利品を心待ちにしていたが、王衍降伏後の戦後処理に
手間取った郭崇韜は遅々として戦利品を送ることができなかった。
荘宗は期待を裏切られたと苛立ちを見せ始めた。
この事態をチャンスとばかりに宦官勢力は行動を開始。
(全く宦官って奴は悪知恵だけは働くよな)
李継岌にも猜疑を受け、同時に恨みを持っていた宦官達に誣告された。
それを信じた荘宗は激怒し宦官の馬彦珪を蜀に遣わして郭崇韜・廷晦の父子を成都で処刑させた。
(ひでぇ完全に冤罪じゃん)
郭崇韜は政戦両略と王佐の才ありといわれ、郭子儀の再来と評され、
郭崇韜は李克用・李存勗(荘宗)の二代に仕え、後唐建国時に
「第一の功臣」と評されるほどの功績を挙げた彼を推薦。

東はオルドスから西は敦煌まで領土を拡大、
宋軍に勝利し、賀蘭山で遼に勝って、宋・遼・西夏の鼎立の形勢をつくった、
西夏の李元昊も推薦します。

これで自分は推薦打ち止めです。
昨日は流れ止めてごめんなさい。

711 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/03(火) 03:12:00 ID:P41V3Neb0
お、郭崇韜ですか。
○さん乙です。

さて、けちでもつけるかw(いや、冗談です)
軍政官としての力量になんの疑問もない人ですが、急速な領土拡大(河東から華北政権へと)
となる過程ということもあるでしょうが、結構蓄財に余念がなかったような面があります。
>>後唐は荘宗が浪費家
これ、建国以前にも郭崇韜は李存勗を諫めているんですよね。
李存勗としても煙たいところでもあったのだろうか。あまりに軽々に宦官の言を信じたのは
芸能にうつつを抜かしてしまった李存勗の、統治者としての決定的な資質不足でしょう。
いくさでは神がかった強さを発揮するのに、人心掌握や統治では為すところが無い。
なんか項羽を連想させます。

郭崇韜が少しでも金銭を蓄えようとした故事では任圜との確執もあげることができます。
任圜は最初、潞州(上党)の李嗣昭(李克用の仮子)の幕僚だったのですが
胡柳陂の時には李嗣昭隊の一部を率いて果敢に戦ったため、李存勗から「仁者の勇」と絶賛されます。
ただし、根っからの官僚で、荒事は苦手なタイプでした。

鎮州(常山真定)で、張文礼が乱を起こし、討伐に赴いた李嗣昭が戦死すると、その残存兵を見事に統率してのけ
また、張文礼の子、張処球をして説得し、降伏にまでこぎつけることに成功していました。
もっとも、そのときは油断した鎮州軍を、李存審が強襲したので、張処球は戦死しましたが。
戦後、鎮州の節度使として郭崇韜が赴任すると、任圜は真定尹としてその幕下に入り
この二人の黄金コンビの統治によって、鎮州の傷は癒えていくのでした。

任圜は意外に人を見る目がなく、これは、と思った人物を推官したのですが、
その男が任圜の目の届かないところで、公金横領に耽っていました。
その男は、そのことが発覚するのを恐れ、溜め込んだ私財を郭崇韜に包み隠さず報告しましたが
郭崇韜はそれを受け取って、不問にふしています。
それを知った任圜は、鎮州の行軍司馬職を辞し、工部尚書のみに専念することになります。
やや、郭崇韜との友誼に溝ができた形で。

さて、ここから本題。
前蜀討伐戦の折、郭崇韜は実質上の指揮権を与えられ遠征軍を統率しました。
任圜も、魏王付きの参軍として従軍しました。
そのとき、郭崇韜軍の先鋒を担ったのが、候補にも挙がっている康延孝。
康延孝はもとは後梁の将です。段凝という後梁の将帥の指揮下にいたわけですが、
それを脱して李存勗のもとに降ったのでした。武勇に優れていますので、李存勗は喜び
彼に姓名を与え、李紹琛(りしょうちん)と名乗らせました。

その李紹琛が、李厳という将とともに1万を率い、鳳州、固鎮、興州を陥とし、
前蜀の三招討使、王宗勲、王宗儼、王宗昱ら3万の迎撃軍を三泉の戦いで大破した。
さらに利州を陥とし、督戦に出向いていた蜀帝王衍を遁走させ
蜀軍は撤退するにあたり、民家や義倉を焼き、綿江の橋をも切って落とし、舟も沈めて李紹琛軍の
足止めを図ったが、李紹琛は李厳と相談し
「我らは敵地にあって、速戦しなければならず、橋の修理を待っていては敵に態勢を整える余裕を与える」
と言って、河を強行突破した。そのとき渡河できたもの千人、溺死したもの千人だったと言います。
鹿頭関から漢州を制圧した李紹琛は、ここで蜀の重臣王宗弼から降伏の申し出を受けました。

李厳はこの遠征軍の企画者の一人なので、その処理を行い、ここに前蜀は平らぎました。
李紹琛の功、最も大である、と史書に明記されていますが、
この人、郭崇韜や朱友謙らが冤罪で殺されたことに動揺し(誣告による粛清が相次いだ)、
西川節度使を自称して叛旗を翻します。
その李紹琛を、漢州の戦いで、あっさり撃ち破ったのが、魏王付きの参軍だった任圜。
彼は董璋に弱兵を率いさせ、李紹琛の突出を誘い、自ら精鋭を率いて、その側背を横撃しました。
李紹琛は任圜をただの文官と侮っていましたが、足をすくわれました。
漢州城に逃げ込んだ李紹琛は任圜の火攻めにどうしようもなくなって、ふたたび出陣しましたが
今度は正面から戦って破れ捕らえられました。

一体、誰が一番強いのかわからない状態ですが、前蜀戦かように入り乱れておりました。

712 ::2007/04/03(火) 05:27:49 ID:hLnQoVG30
次スレです
三国志二十四大英雄
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1175545567/


713 ::2007/04/03(火) 06:49:14 ID:L/JUw1yu0
>>712はガチで偽物
ちなみに三戦版にも同じ様なスレたってるけどな…

714 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 16:24:01 ID:zAFfeCHo0
【みんなで】 選抜 三国志二十四大英雄 【決めよう】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1175545567/

こうしろ

715 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 16:43:23 ID:3AtpUj+u0
ttp://www.geocities.jp/kaysak864/n-mayuan.htm

馬援評伝。
これ面白い。
特に興味深い考察を引用しとく。

>もしも馬援がアスペルガー症候群とするなら、
>光武帝と高祖の比較の言葉も意味が違ってくる。
>そもそも馬援は光武帝と意気投合すること甚だしく、その評価もべた褒めである。
>それをさらに劉邦が上と評するのは極めて不自然であり、隗囂もその言葉についていけなかった。
>これも自閉症者の持つ言語特性と考えることで謎が氷解する。
>自閉症者の言語の特徴は含意を理解できず、言葉のそのままの意味に用いるということである。
>馬援の言葉「不如也。高帝無可無不可;今上好吏事,動如節度,又不喜飲酒。」をその言葉そのままに理解すると
>「比べられません。高祖は特別な能力はありませんから。今の皇帝は事務処理にも長け、行動にも節度があり、お酒を好みません」となる。
>劉邦は事務が嫌いで、行動に節度がなく、お酒好きだったから、この3つは光武帝が上回る点をさらにだめ押しで追加したのである。馬援は、高祖劉邦はただの凡人であって、
>光武帝と比較するのも馬鹿馬鹿しいと言いたかったのかもしれない。

716 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 17:07:42 ID:EZmiygYlO
>>715
スレ違い乙

717 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 19:08:57 ID:rtGwnu5o0
>>714
ここじゃなくあっちのスレに陳情しろよwww

718 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/03(火) 19:58:38 ID:P41V3Neb0
前に李晟に相当するのは、五代では誰?
という質問があって、自分は良く知りもしないくせに、テキトーに寇彦卿、とか言ったけど
これは完全な誤りでした。

似ているのは、お互いに皇帝の腹心であり、親軍の将として信頼されたところだけ。
戦場での洗練さは、李晟のほうが非常に上でした。

つうことで、「五代群雄」スレに怪しい訳とともに紹介しておきましたので、興味ある方は御覧ください。
あと、添削もできれば…


>>713
なんでいきなりニセモノが現れたんでしょうね?

719 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 20:40:12 ID:EZmiygYlO
>>718
◆RQdk7scN8sさんご親切に有難うごさいます。
以前に李晟について質問した者です
「五代群雄」スレの方に見に行ってきます
本当に有難うごさいました

720 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/03(火) 21:12:11 ID:RlL9Cbtn0
いきなり風邪ひいて昨日からダウンしてた俺ですが、
起きたついでに唐末〜宋にかける漢族と異民族間の考察をば開陳します。

 中国の歴史においては唐代にいたるまで、漢民族と北方民族の関係は比較的
単純な方式にしたがっていた。まず好戦的な北方民族がはじめは略奪、やがては
制服の意図で中国に対する侵入を繰り返す。もしも中国の社会が健全な組織を
持っているなら、中国は容易にこの侵入を撃退することができる。なぜならば
北方民族が恃みとするのは当時の戦闘に最も大きな威力を発揮する騎馬戦術
であり、遊牧民族はその出自ゆえ生来騎射に優れているので優れた軍人的
素質を持つ。それでもって中国に攻撃を仕掛けるわけだが、漢族と北方民族の
戦力を総体的に比較した場合、数において漢族が圧倒的優勢に立つ。さらには
富力の差だが、これはさらに開きが大きい。だからもし長期戦ということに
なれば、北方民族のほうが疲弊して軍を還すということになる。漢代、中国が
匈奴にさんざん苦しまされながらも最終的には反撃し是を屈服させたのはこの
良い例といえる。
 しかし、唐末五代〜元までの時期にかかるとこの事情が変わってくる。
 唐末頃から北方民族と中国との関係は非常に複雑なものとなり、一筋縄では
いかなくなってきた。第一には北方遊牧民族の知力が発達したことにある。
彼らは以前よりも中国文化をよく理解し、その長所と短所を同時に見抜く力
を持つようになった。その長所を知ることは彼らに中国人民を利用しようと
いう気持ちを起こさせ、その短所を知ることは彼らに中国文化をむやみに崇拝
したり憧憬したりする態度を棄て、中国文化にないかれら自信のうちにある
美点を保存しようと言う希望を起こさせるにいたる。これは中国に対する
異民族の民族的自覚であり、いわゆる国粋保存的な政策が底から生まれる。
その結果、遊牧民族の国家の性質に柔軟性が加わり、従来のように強いばかり
で同時にもろいのと違い、弾力を持った耐久性のある国家が現れてきた。
遼およびそれ以後の西夏、金、元などの国はいずれもこの例に当てはまる。
つぎに中国人のほうでも、異民族国家に対する分析が進んでくる。中国人も
やはり異民族の弱点を見抜き、それは経済的に微弱であることだと結論した。
そこで以降の対異民族政策には多かれ少なかれ、経済が武器として用いられる。
ときにはそれが濫用されてかえってみずからの首を絞めることになることも
あるが、全体的に見て政策の進歩であることは間違いない。

 ・・・概ね宮崎市定氏の論に拠りました。まぁこの程度はこのスレ的には常識
で、いちいち言うまでもないとは思うんやけどまぁ、それ以前の匈奴やら柔然に
比べて遼、西夏や金、元が一線を画す存在であるという事を提起したかったわけ
です。つーか寝起きの独り言なんでスルーしてください。

で、五代〜北宋の空き枠三名には、
五代から劉仁瞻、西夏から李継遷、北宋の劉昌祚を推します。

721 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 22:06:27 ID:mpJSp2SR0
論に拠ったというより、ところどころ端折ったり言い換えただけでほぼそのまんまと言ってもいいよね

722 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 22:52:49 ID:05omaE1q0
独り言ならスレに書き込むなと小一時間

723 ::2007/04/03(火) 22:56:46 ID:L/JUw1yu0
>>711>>718
◆RQdk7scN8sさん 乙&dです。
偽物についてなんですが多分このスレで自分がやたら
五代と三国志の比喩論を述べていたからではないかと推測しています。
>>711に李厳なんて名前あったら反応しちゃうしw
朝スレ見てたら自分の書いた憶えのないレスが載ってたのにはビックリしましたよw
で思わず憤慨しちゃいましたwww
あとですね郭崇韜と任圜についてちょっと
自分なりに意見を述べてみようと構想中です。
(◆RQdk7scN8sさんのレスと被る箇所が多々あるかと思いますが)


>>720
◆oOLAqFKRBさん風邪の具合は大丈夫ですか?
無理しないで寝ててくださいよ!!
一日も早い復帰、心よりお待ちしてます。
さて自分は西夏なら李継遷より孫の李元昊を推します。
五代なら楊師厚を北宋からは楊延昭(楊六郎)か潘美を推します。

724 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 01:40:12 ID:6Y9RtpAAO
>>723
李元昊を推すなら推すでかまわないですが、
何をもって中国の武将とするか理由を明記してくれませんか?
李元昊が入るならば、大越(現ベトナム)の李常傑、元代の陳興道、
明代からはオイラートのエセンを推す人が出てきたとき、反論できません。

どうじに耶律休哥など国号から遼を外し、契丹のみにしてる時代の人物を推すひとは、
何をもって中国の名将であるとするか書き込むか、時代を戻して、
過去の中華風の国号をしてない北方民族も、選考の対象にするのか意思表示して下さい。

私は遼を選考から外したい人を強引に納得させ、スレを進めた人物です。
最後まで遼をはずそうとした人が、言い放った言葉を思い出して下さい。
私は、遼が中華王朝か否か?の論争はスレ違いだと思いますが
その人物が中国の名将か否か?はスレ違いじゃないと思ってます。そうですよね?
誠に申し訳ないですが、お手数をかけますが、理由を書いてもらえませんか?

725 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 01:47:03 ID:0uxFM+xa0
李元昊
当人がもし生きてこのスレ見たら血吐いて死にそうだよなw

726 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/04(水) 05:14:00 ID:YB6QMW6K0
喉が痛くて眠れやせん。今日は朝一で病院行こう。
さて、>>724さんの言う「中国の名将か否か」ですが、
「守勢(中華からの侵略に対する防衛)ではなく積極的に
 中国本土に攻め入り、多大な武勲を挙げて自国の版図を広げた(あるいは橋頭堡を作った)」
 でどーでしょ?
 陳興道は赫々たる戦果を上げたがその戦いは元朝の侵略に対する防衛戦やったし、
 エセンは明領内に攻め入って大勝したものの結局中国本土にオイラートの領土を広げてない。
 よって上二名は「中国の武将」ではないということで。
 李常傑は・・・すんません、よく知らんわ。
 で、俺の推す李継遷はというと夏州から宋軍を撤退させてその版図を奪い、
 さらに霊州を取り、宋軍15万を全滅させるという十分な戦功も立てとるから、
 中国の名将で(最後流れ矢に当たって死んだのが間抜けやが)いいのではないかなぁと思うがどうか。
 そんで○さんの推す元昊はどーやろ? ウイグルを攻めて甘州を取ったけど、
 これは中国本土の土地にカウントされん気がする。でも宋仁宗の時代に陝西地方で37万の精兵を率い、
 当時弱体化していた禁軍100万を蹴散らしたけんが武勲は十分。けど韓g・范仲淹に阻まれて中国の土地は奪えずじまい。
 しかも経済封鎖された挙句和睦して、その条件に「西夏は宋に対して臣下の例をとる」ことで調印しとるしなぁ。
 敦煌やら西北方面への領土は広げたけど、中国の武将ではないか? つーかそもそもこの人、西夏が漢化するのを嫌っとったし。
 ま、俺の意見に納得できん諸兄もおるやろーし、
 ここは合議制の場なんやから大勢が両者とも資格なし、となればそれに文句は言いません。

727 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 13:40:32 ID:X6a7+FA80
「中国」の中身は長い期間の混血によって変化している。
当然、その範囲も時代によって変化していると考えた方が良さそうだ。
だからこの際、支那≠中国と考えるべきだ。
「文化に漬けられた弱い南人=漢族」で「支那の王朝だから正統な中国」の論理は見飽きた、聞き飽きた。
天命も領土も保ち得ない文弱王朝は元々正統ではないし、そもそも正統の王朝なんてものは最初から存在しない。
正統云々は時の為政者たちの都合次第。
士大夫どもがその宣伝を鵜呑みしてたただけ。
忠義の対象が一つしかなければ、そうせざるを得ない。
極東の島国の俺たちにその論理を盲従する必要性は全く無い。
狂的な漢人イデオロギーを妄信してた宋にしたって沙陀色が濃いし。

728 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/04(水) 20:57:47 ID:PeGUb0ID0
>>723
ちょっと関係ない雑談なんですけど
○さんは、五代史に関して、どんな資料を参考にしてますか?
それは岩城さんにも聞きたいのですが。

自分は基本、《五代史》、《五代史記》、《五代史書彙編》(十国春秋もこの中)、五代絡みの概説書(むろん日本書籍)
あと、『五代群雄傳』くらいなんですが。
関連論文も読みたいところですが、そういう機会はなさそうです。

729 ::2007/04/04(水) 22:45:35 ID:rYwHrifH0
>>728
企業秘密ですw(もちろん冗談ですが)
◆RQdk7scN8sさんの様に五代史、五代史記など読める環境、読解力があればいいのですが
なかなかそうもいかないのが現状です…
参考資料としては資治通鑑の注釈本、陳舜臣氏の中国の歴史などですかね。
まあ覚束ない知識ながら語らせて貰ってます。
(ちなみに漢文は大して読めませんし…)


あと海南島にまで左遷された人物は蘇軾でした。
訂正
海南島から帰って来た時は朝廷には復帰できず常州で死去してました。

730 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/04(水) 22:51:35 ID:LTCrPQz60
>>728
◆RQdk7scN8sさんへ。
俺は新旧《五代氏》と《十国春秋》のみ。
あとは《続通志》の一部に五代の人物列伝が載ってるのと、
概説書として宮崎市定教授の「五代・宋」ぐらいですか。
あ、《史治通鑑》と《通鑑紀事本末》もその都度時代を敷衍してみるには便利ですね。
偉そうに紹介文挙げたりしてる割に
実は五代は苦手というか、そんな詳しくなかったりします。
資料は喉から手が出るほど欲しいのに、どんな伝手で手に入れるかわからんという。
一応近所に官籍専門輸入書店があることはあるんやけど、ここの品揃えがあんまりよくないのですよ。

731 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/04(水) 22:54:22 ID:LTCrPQz60
>>730
変換ミス。官籍→漢籍で。

732 ::2007/04/04(水) 23:24:45 ID:rYwHrifH0
>>724
何をもって中国の武将とするかについては
取り敢えず自分>>21で示されてる定義に添って推薦しているつもりです。
あと>>726で述べられてる>「守勢(中華からの侵略に対する防衛)ではなく積極的に
中国本土に攻め入り、多大な武勲を挙げて自国の版図を広げた(あるいは橋頭堡を作った)」
自分もこの意見に近いですね。
それに西夏も一応認めることで話が進んでますよね?
なのに西夏から一人も推薦挙がらなかったら後からただ入れろ入れれと言ってたたけかよと!!
と苦情が出るかもしれないし、そう言うのも考慮してます。
李元昊は西夏の建国に前後して三川口・好水川・定川砦において北宋軍に勝利してますし
資格については問題無いと思っています。
西夏(夏)についてですが
李徳明の跡を継ぎ、検校太師・侍中・定難軍節度使となり、西平王に封ぜられた。
西夏と呼ばれてますがこれは北宋が勝手にそう呼んでるだけで本来は夏。

李元昊は現在の寧夏回族自治区銀川の興慶府を首都と定めてる。
唐始に拓跋赤辞は唐に降り、李姓を下賜され、族人を引き連れれ
慶州(現在の寧夏回族自治区内)に移住し平西公に封じられた。
唐末に発生した黄巣の乱ではその子孫である拓跋思恭が反乱平定に大きな功績を残し、
それ以降、夏国公として当地の有力な藩鎮勢力としての地位を確立した。
国の成立を見る限り西夏は中華の国として扱ってもいいのではというのが持論です。
もちろん遼・金・元も同様です。
陳興道は陳朝(大越)
モンゴル軍の自国への三度に渡る侵攻を全て撃退
李常傑は北宋軍の攻撃が始まる前に10万の大軍をもって中国領土内へ進攻し勝利したんですよね?。
それに大越(李朝)の李常傑はベトナム救国英雄と呼ばれる人物の一人ですよね?
さすがに大越(ベトナム)の武将は選外とするべきでしょう。
オイラートのエセンですがモンゴル帝国崩壊後、オイラートはケレイト、ナイマン、バルグトなどを含む部族連合集団に変容し、
後にモンゴル高原のほとんどすべての部族を制するに至ったんですよね?。
いくら元(北元)と称していても部族連合集団であり国家としての様相を呈してないので
選考基準から外れるのではないでしょうか?
以上が自分の持論です。
諸兄が李継遷・李元昊は中華の武将ではないと反対するなら自分は従います。


733 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 23:34:51 ID:1tmtmtZF0
李元昊の夏は諸部族連合でなかったと?
諸部族連合だから国家じゃないというのなら遼や元の組織だって変わりはありませんよ?

734 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 00:41:40 ID:0wO0KLdZO
>>732
西夏を入れるのと、その人物を中国の武将であると見なすのとは違いますよ。
だから、李元昊の名が出てもスルーされていたと感じていましたが。

ヴェトナムは唐代まで、戦乱期の一時的な時代以外は、中国の支配化にあったんですよ。
阿倍仲麻呂が派遣された話とか有名ですよね?

この時代、ようやく独立を果たしたにもかかわらず、
朝廷から贈られたのは「安南都護」でした。
李常傑の活躍で、安南国になるんです。彼ら自身は越と称してるんですけどね。
自治権は認めても、領土的には中国本土であると考えられてます。
だから後の中華王朝が度々、征伐に来るのです。

李元昊のように独自の文字を制定したわけでもなく、
独自の文字もなく、制度は中国と変わらなかった安南の
李常傑を外すのは矛盾があると思うのです。

李元昊自身も、中国の武将だと思ってないはずです。
外すのが無難かと。

735 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/05(木) 00:46:30 ID:CWGq96lM0
>>733
>>726の定義を提起した博多の岩城ですが、○さんに援護射撃。
西夏も遼・金・オイラートなども諸部族連合によって成立する国家という
点では同根だと思う。ただ、李継遷時代の西夏は自ら夏州・雲州を奪って
陝西地方に橋頭堡を作ったということで中国の王朝でありそこに所属した
武将は中国の将と愚考する次第(元昊はむしろ中華文明からの脱却を
目指したから中国武将とは言いがたいところがある)。で、オイラートは
諸族連合国家ということでは西夏と同じであるものの、南下して中国の
土地に領土を獲得したわけでないので中国の国家ではないと。翻って遼は
あらかじめ燕雲16州という橋頭堡を持ち、それを保持するために南下して
北宋に攻勢を仕掛けたこともあるので中国、というか半中原国家という感じ。
金は最初から南進してきて中国の土地を版図に加えたから問題なく中国の国家
だろうし、元というかその前身たる蒙古はチンギス即位後、ムカリあたりが
金に攻めよせて各地を獲り、転戦して橋頭堡を築いたのでこれも中国でいいかと。
これに関して>>733さんおよび諸兄の意見を聞きたいと思いますが。

736 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 01:01:23 ID:L2DsHe8+0
>>735
そうですね逆に質問します。
仮の話ですが、琉球が日本に侵攻して九州を占領した過去があったとしたら、その
時に琉球王朝は日本の一部となりますか?その武将は日本の武将と呼びますか?
さらに進んで中国・四国地方くらいは征服したが、王は那覇を離れず日本の占領地
へは代官を派遣するくらいの支配で。

現実の例だったら(たとえとしては無理があり適当でないと承知の上ですが)、英仏
百年戦争でパリを含むフランスの半分以上の領土を支配したイングランドはフランスと
なるんですかね?エドワード黒太子はフランスの武将になるんですかね?

737 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/05(木) 01:31:58 ID:CWGq96lM0
>>736
>>九州を占領した過去があったら
その場合九州の武将たちは琉球の将となるでしょう(好むと好まざると、また
支配の緩急に関わらず)。王が那覇を離れなくても一度支配した土地に派遣
した代官、将軍たちはやはり琉球王朝の臣下となるのでは? また、百年戦争
でフランスの広大な版図を手に入れたエドワード黒大使はやはりイングランド
の皇子であると思います。日本の大半を琉球王が支配した場合、やはり彼が
琉球王であるまと同じで。一番顕著な例は蒙古であろうと思いますから蒙古を
引き合いに出しますが、チンギスがムカリを中国路の王として派遣し、自らは
中国に目もくれず西方経略に本腰を入れたとして、ムカリが切り取った金の
国土はやはり蒙古の版図・橋頭堡としていいと思うのですが。
 質問の意図を間違って捕らえていたらすいません。なにぶん阿呆なので。

738 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/05(木) 01:49:34 ID:CWGq96lM0
追記。
そして完全に敵国を併呑したところで、あらたな国家を創建する問題が
でてくるのだと思います。空想の話ですがエドワード皇子がフランスを
完全支配下に置いたら古い国名からイングランド領ガリアとされたかも
しれませんし、蒙古はある程度の領土拡大を果たしてからモンゴルの正統、
元と各ウルスがそれぞれ創建されたわけですから。

739 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 02:55:39 ID:sh07ZMUM0
李克用と李存勗は親子で名将なんですね
かっこいい!

740 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 03:08:02 ID:H9XH0T7U0
>黒太子の英仏完全併合
その場合、プランタジネット家領仏蘭西で首都は巴里だと思う。
支那だって劉家領支那=漢で李家領支那=唐で愛新覚羅家領支那=清だった。

741 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/05(木) 11:58:07 ID:16153irr0
>>740さんへ
首都が遷ったにしても広大な土地を占有したにしても、根本にある国家
精神は変わらんでしょ。仮にイングランドがフランスを制圧したとして
「こっちのほうが土地広いから、今日からウチもフランスを名乗ろう」
とはならんわけで、言ってみれば居心地のいい仮住まいを手に入れた程度。
仮のさらに仮の話になってしまいますがプロイセンとかに英国領フランス
の土地が全部奪われたとしても、本当の拠点はあくまでイギリス本土
だからフランス駐留軍と国家上層部さえイングランドに帰還させれば
国家的にさほどのダメージを負う事はないでしょう。翻って中国に
当て嵌めると金だって支那の北半分を獲りながらあくまで金という国家
のままだったわけだし(現地の文化に耽溺した、というのはあるけども)、
蒙古にボロ負けして支那本土の拠点を失っても、下層階級は本来の故地
である満州の方に逃れたから、すっかり支那文化にかぶれた上層部以外は
たいした問題なく、女真族そのものは部族をまとめる巨大な統率者を
失った以外、さほど巨大なダメージを被ったわけではなかった(もとの
遊牧騎馬民族に戻っただけ)と思います。実際、数百年の雌伏ののち
新たな統率者が出て、清(最初は後金か)として復活することができた
わけだし。

・・・なんでこの時間にお前がおるんやとか突っ込まれそうやけど、
風邪が悪化して自宅謹慎を命ぜられとるんですわ。やから暇なのです。

742 ::2007/04/05(木) 14:05:02 ID:0H4+iB4c0
◆oOLAqFKRBさん 乙&援護射撃dです
アンタなんでこの時間に居るんや、暇でも安静にしとかんかい
と一応突っ込んどきますわw
さて李常傑を中国の武将として認めるにしても
>>726の定義に当てはめた場合、李常傑はどうなんだろう?
李常傑は北宋の進軍をいち早く察知し、逆に北宋領土へ進軍し北宋軍を撃破したんですよね?
これは先取防衛の為ではないでしょうか?
諸兄の意見をお聞かせねがえませんか?
あと李元昊を外すことに異論はありません。


743 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 17:23:24 ID:VjMOowo3O
あんまり深く考えないでさ。歴代中国、若しくそれらと実際矛を交えた国の武将と言うことでもいいんじゃね?
せっかく選んだ武将が○○に負けたのに名将かよ。プwとか思われるの嫌だし



744 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 18:15:27 ID:dy96S1BTO
>>743
そんなのでよかったら定義とかあれこれ話合ったりした意味ねーな

745 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 18:20:21 ID:Qs7ILgkC0
>>738
百年戦争はイングランド王がフランスの王位継承権を主張したわけだし
アキテーヌに領地を持ってたフランスの諸侯だったんだから
イングランド領ガリアはないよ

746 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 19:39:34 ID:H9XH0T7U0
0:フランス王
1:ノルマンディー公
2:イングランド王
3:アキテーヌ公⇒3´:ガスコーニュ公
4:アンジュー伯
5:ブルターニュ公
6:ウェールズ公
7:スコットランド王
8:アイルランド卿

所領と爵位を0〜8と定義する。

ノルマン朝初代:ウィリアム1世(1、2)
ノルマン朝二代:ロベール2世(1)vsウィリアム2世(2)
ノルマン朝三代:ヘンリー1世(1、2)
ノルマン朝四代:女帝モード&ジョフロワ4世(1、4)vsスティーブン(2)
プランタジネット朝初代:ヘンリー2世(1、2、3、4、5、8)
プランタジネット朝二代:リチャード1世(1、2、3、4、5)
プランタジネット朝三代:ジョン(1、2、3、4)vsアーサー(5)
プランタジネット朝四代:ヘンリー3世(2、3´、8)
プランタジネット朝五代:エドワード1世(2、3´、6、7、8)
プランタジネット朝六代:エドワード2世(2、3´、6、8)
プランタジネット朝七代:エドワード3世(2、3、3´、6、8ほか)&エドワード黒太子(3、3´、6)
プランタジネット朝八代:リチャード2世(2、6、8ほか)
ランカスター朝初代:ヘンリー4世(2、6、8ほか)
ランカスター朝二代:ヘンリー5世(2、6、8ほか)
ランカスター朝三代:ヘンリー6世(0!、2、6、8ほか)

初期のプランタジネットはフランスのルーアンが事実上の首都。ほぼフランス人。
カペー朝に対するプランタジネット朝は後漢末の魏みたいなもの。
カペー家の殻を突き破れなかったのがおかしいくらいだ。
フィリップ2世、シャルル5世&デュゲクラン、シャルル7世&ジャンヌダルクのどれか一つがいなければ、
英仏統一王朝が誕生してた可能性が高い。
特にフィリップ2世はおかしい。なんだコイツ。
…まあスレ違いだが、たまにはいいだろ。

747 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/05(木) 19:50:31 ID:GljYhMi60
>>745さん
うあぁ、西洋史の知識がろくにないことを露呈してしまった。
でもまぁ、“フランスの王権を手に入れたとしても実際重視されるのはあく
まで英国”“フランスの肥沃な農場地帯と貴族文化、ヨーロッパ本土への
橋頭堡としての価値は魅力的だが、いざとなったらシッポ切りするのに
問題なし”という部分が言いたかったわけでして。そこが金や元における
中国本土とかぶるかな、と。
ろくな知識もなしにとくとくと偉そうなことを書き込んだこと、謝罪します。

748 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 20:12:59 ID:L2DsHe8+0
やっぱり百年戦争のたとえではずれてしまいますね、すいません。
ちなみに私個人の考えだと
金や元は中国王朝とは言いがたい(特に元)が、中国の征服王朝にはなった。
遼や西夏は中国王朝でもなく、征服王朝にもなれなかった。

749 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 20:20:33 ID:H9XH0T7U0
>>747
項羽を例に当てはめてみます。
”秦を手に入れたとしても実際重視したのはあくまで楚”
”関中の肥沃な田地と行き届いた法治支配、政敵の劉邦を四川に押し込めておく拠点としての価値は魅力的だが、他人にくれてやって問題なし”
…やはり生活文化が違うので金や元のケースとは違うでしょう。
この場合、対仏政策が破滅に直結するでしょうから。

750 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 20:28:32 ID:dy96S1BTO
>>746
>カペー朝に対するプランタジネット朝は後漢末の魏みたいなもの。
>カペー家の殻を突き破れなかったのがおかしいくらいだ。
またまたスレ違いな話だがカペー家かどこかの家宰に曹操みたいな奴いなかったっけ?

>>734
いくら自治権は認めても、領土的には中国本土であると考えられていても
やはり大越の李常傑を中国の武将とするのは無理があるんじゃない?

751 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 21:01:17 ID:H9XH0T7U0
メロビング朝フランク王国の宮宰カールマルテルだと思う。
トゥールポワチエ間の戦でイスラム軍を虐殺し、カロリング朝フランク王国の基礎を築いた男だろう。

>越南
実態は中原勢力の植民地。風俗も違ったし。朝鮮みたいなもんだと解釈した方がいい。

752 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 21:44:37 ID:0wO0KLdZO
>>750
李常傑はあくまで喩えです。李元昊は入るとしながら、李常傑は入らないというのは
間違っているという例として出しただけです。

今の時代に生きてるから、安南=ヴェトナムだから他国と思うだけで、
中国の歴史から見たら、間違いなく中国本土であるにもかかわらず、
その人物を中国の武将じゃないというのであれば、
当然、その概念はそれ以外の人物にも適用されるんですよね
?中国固有の領土であろうと、なかろうと、外れる場合はあるんですよね?

私が問いたいのは、何をもって中国の名将であるとするか?なのです。
つまり、その条件に当てはまらない場合は、たとえ中華王朝の漢人武将であろうとも、
中国の名将とは認められない――そんな条件なんです。

>>726がそれだと言うのであれば、それはそれで構いませんが、
それだと選定作業をやり直す必要がありませんか?

753 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 22:14:48 ID:dy96S1BTO
>>751 トンクス
そうかカールマルテルだったか

>>750
それならシンプルに李元昊は外す、李常傑も入らないでいいじゃん
たとえ中国の歴史から見たら、間違いなく中国本土であっても
実際ヴェトナムの人々は俺たちの国は中国だと思っていたかな?
俺は違うと思うぞ
インドの人々は俺たちの国はイギリスと思ってたかな?
名将の定義は取り敢えず>>21にあるのでいいんじゃないかと思うけど
プラス遼・金・元は含めるそれでダメなのか?
でそりゃあ違うだとという人物は今回の李元昊のように指摘する
そんなんじゃダメなのか?
俺はそれ以上思いつかないよ・・・

754 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 22:15:41 ID:0zYnzRwq0
>>752
>私が問いたいのは、何をもって中国の名将であるとするか?なのです。
>つまり、その条件に当てはまらない場合は、たとえ中華王朝の漢人武将であろうとも、
>中国の名将とは認められない――そんな条件なんです。
なんらかの定義はできるでしょう。
しかし万人が異論ない定義が可能だと思ってるわけですか?
そもそも、自分自身の案を提示もせずにそういうないものねだりをするのは、
無駄にかき回して議論の収束を妨げてるだけにしかならないですよ。
既に出てる案にそういうものがなく、あくまで賛同できるものがないというのであれば、
ぜひともあなたの理想とするところに近い定義を提案してください。

自分は正史ベースの>>505を推します。
中国武将が何たるかなんて定義は、中国とは何かと同様で、
万人に納得できるものを作ることは不可能だと考えるので、
既に評価の確立した正史に習うのが妥当ということで。

あとこのまま収束しないようなら、少人数で定義決定する方式にしたほうがよいと思います。
それに納得できない人は、反論するに値する定義の対案を出さない限りは反論を認めない。
で、少人数を誰にするか、というところは、このスレに多数の名将を紹介して貢献度が高いと思われる、
◆oOLAqFKRB.さん、◆RQdk7scN8sさん、○さんだったら不満もすくないんじゃないかな・・・と思ったり。

どうですかね?

755 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 22:20:28 ID:dy96S1BTO
>>753
すまん遼・金・元に西夏を含めるの忘れてた


756 ::2007/04/05(木) 22:57:36 ID:0H4+iB4c0
>>754
自分はですね正史ベースの>>505はいいんじゃないかなと思いますよ。
でこれに西夏(夏)も含め
あとは推薦した人物に対し諸兄が納得してくれれば良し、
今回、自分が推薦した李元昊の時みたいに
そいつは「ちゃうやん、あかん、あかんてそいつは認められへんで」みたいに指摘してくれたらいいかなと思いますけど
こんな感じでとうでしょうか?
なんか>>754さんに博識な御両人と一緒に指名されてますが
本当に自分なんかでいいんですか?

757 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/05(木) 23:15:07 ID:HcEYfMrF0
754さん
俺が選定員に推戴されたらムカリ、トゥルイらのモンゴル武将や
ヌルハチ、アハタイら後金武将(つまり元、清の建国を担った人々)を
「正史にあるけん」の一言で平然と組み入れてしまうんで、反発派は
かなりの数に登るかと。それでいいなら選定員の一翼を担うのも
問題なしですが、「モンゴルは違うだろ」「清は入関後だ」って言う人は
今のうちに俺を潰しといたほうがいいかと。

758 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/05(木) 23:31:45 ID:HcEYfMrF0
>>757に追記
俺としては>>505案に自分で出した>>726を併せて折衷すると言う
方向で行きたいと思います。これに反対の人は俺の選定員入りを
阻んでくれると後腐れなくてむしろさっぱりします。

ところで◆RQdk7scN8sさんが沈黙を守ってますね。迷ってるんだろーか。

759 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 23:47:20 ID:H9XH0T7U0
「正史に記載されてれば入選資格有り」
このスタンスでいいだろ。
それで夷狄に椅子を奪われる程度の指揮官が名将なものか。

760 :あの〜:2007/04/06(金) 00:12:36 ID:Bbv/dSjkO
>>754
実は私が>>505なんですけど。。
トリップつけないと不味いですか?

過大解釈案
この際、正史にのる戦役は全て対象として、
その戦いに参加した人物が名将であるか否かを議論する。
ただし、その人物が非中華王朝に属してる、もしくは異民族出身者の場合、
その人物が中国の名将であると、推薦者が立証する。

例えば、耶律徳光を推薦した場合、国号は中華風の遼も名乗っており、
少なくとも本人は、中国に対する憧憬と、
中国を支配下に置く意思があったと推測されるから――など。
この推薦文だと、国号が契丹だけの時代の耶律休哥は外れますね。


あと、遼を外すと主張してる人は、遼将を外すならば、誰を入れたいのですか?
ただ単に揚げ足取りしたいわけでは、ないですよね?

李元昊の代わりに李継遷を推薦します。
李元昊にくらべ、民族独立色が薄いから。
耶律休哥のかわりに、耶律徳光。理由は先に書いたので、かつあいします。

小説から、李元昊、耶律休哥に興味を持ち、資料を調べたうえで、
この人物を好きになりこそしれ、嫌いになれないだけに、
選考の対象外にするのは、非常に心苦しい気持ちでいっぱいです。

761 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/06(金) 00:40:53 ID:8gXNJR8p0
>>760さん
同じく李継遷を推す同志と勝手に呼ばせていただきますが、
むしろ元昊のほうが英雄的気概にあふれとるんですよね。
前に書き込みましたが
中華から独立して敦煌以西に自分たちの国家を作ろうとする企画力とか、
弱体化してたとはいえ陝西で禁軍100万を37万の精兵で撃破した用兵とか。
中国からの独立を望んだために中国武将ではない、という一事がなければ
間違いなく俺も継遷よりこちらを推しただろうだけに、元昊は本当に惜しい人物だと思います。
彼を推していた○さんも諦めをつけるのは断腸の思いだったでしょう。

762 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 04:36:59 ID:iwgs9pHW0
中国の影響力が強すぎたのが全部悪い

763 ::2007/04/06(金) 06:51:44 ID:4zOHtfGs0
>>761
>李元昊を諦めたのは断腸の思いだったでしょう。
確かに李元昊を諦めたのは断腸のでした…     
では自分も◆oOLAqFKRBさん、あの〜さんと同じく、
李元昊の祖父である李継遷を推したいと思います。
実際、李元昊を推した時に李継遷と李元昊のどちらにしようかかなり迷いました。
しかし諸兄の賛同を得られなかったのでそれは仕方ないかなと思っております。
(節操ねーなとか言われせうだが…)

764 ::2007/04/06(金) 13:50:04 ID:4zOHtfGs0
760
あの〜さん(勝手に呼んでますがいいのかな?)
>小説から、李元昊、耶律休哥に興味を持ち、資料を調べたうえで、
>この人物を好きになり
とカキコなされてますが
その李元昊、耶律休哥に興味を持つきっかけとなった小説の題名をお教え願えませんか?
ちなみに自分は陳舜臣氏の小説十八史略にて李継遷・李元昊を
楊家将にて耶律休哥に興味を持ちました。
誠に厚かましいお願いですがよろしくお願いします。

765 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/06(金) 18:57:30 ID:0u9nFGkN0
ああ、なんかヤボ用で時間費やしている間に、すっかり話題が。

自分は遼を外そうと考えましたが、基本は正史にならうという意見ではありました。
遼を外す理由は古来からある中華政権の支配がおよぶ範囲
制度によって及ぼしていた範囲というものがあるじゃないですか。
温度差(サーモグラフィ)みたいなもので考えるとわかりやすいかな?
(京師あたりは色が濃くて、地方になれば薄くなる)
そういうところに対する、領土的な影響力というものが、遼(契丹)は薄い、というあたりを論拠としています。
まぁ、政治的な影響力は大きいのだから、別に入れることに頑強に反対はしません。
入れれば、太宗と休哥は確定するのかな?

で、李継遷ですが
たしかにコヤツが西ではねっ返ったおかげで、宋は遠征し敗れ
あまつさえ遼に援助までとりつけて引き入れ、究極的には岐溝関の敗北を招かせたようなもんですので
結構なやり手ではあります。
宗主国から独立を獲得する契機となった、というあたり後漢の周瑜に似ている節はありますが
そのあたりはどうでしょう。

と言っても、自分、拓跋思恭はわかりますが、この代になるとほとんどわかりません(をい)。
そうですね、「草原王朝特別枠」とかいって、別に設けてみるとか、そういうのはなしでしょうか。



766 ::2007/04/06(金) 21:43:35 ID:4zOHtfGs0
>>765
李継遷に似てるのは李元昊ではないでしょうか?
どうでしょうか?
二人共、始めは宋に従ってましたが
後に反旗を翻し幾度となく武力衝突を繰り返したり、遼にも対抗したりしてますし、
吐蕃(チベット)を討ってたりしますよね、
それに李継遷は霊州を陥れて、西平府と改称、国都とし
片や李元昊は河西回廊を占拠し、興慶府に都を置いてます。
ちなみに史書には李元昊が
―英雄の生は当に王覇なるべきのみ。錦綺、何をか為さん。―
と興奮した際、李徳明に向って言ったとされています。
(民族独立に対する意気込みなんでしょうね)


767 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 12:51:23 ID:8Dz7hZN3O
>>764
井上靖の敦煌です。
そこから、この時代の異民族国家に興味をもち、図書館で調べはじめて、
耶律休哥の名を知りました。

小説としてはやはり楊家将で、この小説により歴史書の中の人物が、
血の通った人間になった感じです。

768 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 13:00:06 ID:pG/HJowa0
このスレにいる人が楊家将読んでてちょっと嬉しいw

769 ::2007/04/07(土) 14:46:04 ID:I3JbP16L0
>>767さんご丁寧に有難うございます。 
>血の通った人間になった感じです。
全くもって同感です。
自分もですね楊家将を読んだ時、耶律休哥及び楊業に非常に人間味を感じました。
>>768さんもナカマー


あと>>760
過大解釈案とその中で推薦文の例題として挙げられている事についてなのですが
>ただし、その人物が非中華王朝に属してる、もしくは異民族出身者の場合、
>その人物が中国の名将であると、推薦者が立証する。
>少なくとも本人は、中国に対する憧憬と、中国を支配下に置く意思があったと推測されるから――など。これですと中国を支配下に置く意思があったの部分はいいのですが
中国に対する憧憬のないであろうモンゴル武将や清初期の女真族の武将が
外されてしまう様な気がしますけどいかがですかね?
それならその人物が非中華王朝に属してる、もしくは異民族出身者の場合は
王朝樹立の際の戦闘及び樹立以降に功績のある武将は認める
しかし明らかに中華の武将として認められるのを本人が明確に表している人物は不可
(ヌル八チとかどうなんだろうか…)
建国後遼は契丹に国号を変更してる時期も認める。
こんな感じでいかがでしょう?
おかしな部分があれば手直しして頂ければうれしいです。

770 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 15:31:08 ID:isOCtAs70
乾隆帝以後は完璧にチャイニズムに毒されてるよ。
順治、康煕、雍正の三代の遺産を食い潰す毒虫ぶりに秦始皇、漢武帝、隋煬帝、唐玄宗の風を見る。
トップの方向性が入選で云々されるなら、
乾隆帝以後の清は確実に歴代中国王朝のエピゴーネンと言えるだろう。

771 ::2007/04/07(土) 16:03:34 ID:I3JbP16L0
>>770
あのさー乾隆帝以後は完璧にチャイニズムに毒されてるのはわかってるよ。
中華思想に触れて感化されない奴なんて略いないだろう
また傍にいる漢人が染め上げようとするし。
それに定義を決めるのって当然、一筋縄じゃいかないのわかってるよね?
だからわざわざ手直ししてくれませんか?と付け加えているんだし、
文句言うだけなら誰でもできるじゃないのか!!
じゃあどうすればいいか貴方の意見をぜひ聞きたいね。

772 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/07(土) 16:12:05 ID:PaG7IIxw0
ちなみに自分も『楊家将』は読んでます。
記述の少ない楊業を、よくもあそこまで書けたものですよ。
耶律休哥も楊業に会っては、分厚い壁にぶち当たった感じで書いているのは特によかった。

って、小説の話はこのへんで。
遼(契丹)を入れるとして、じゃあ誰が確定になりますかね。
太宗・耶律徳光は、自ら親征して一気に澶州にまで南下しており
そこではじめてまともな後晋軍と対峙した。
一応、青州の楊光遠との挟撃という態勢であったが、名将たる高行周(高懐徳の父)が粘り
耶律徳光の南下を容易には許さなかった。
(高行周が出撃すると、耶律徳光は軍を退かせ精騎で中央を狙うと、晋帝石重貴がそれを迎え撃つ… など)

驚いた耶律徳光は、
「楊光遠は晋の兵は半ばが餓死したといっていたが、このように勢い盛んではどうしようもない」
と言って、一旦本国に引き上げた。
悲惨なのは楊光遠で、契丹との挟撃をもくろんでいたのに、それが崩れ取り残される形になった。
契丹は撃退できたものの、主戦論を唱えていた景延広は為すところが無く、かえって醜態だったので
地方に転出され、替わって桑維翰を呼び戻し、中書令兼枢密使として国難に対処させた。

枢密使・桑維翰のもと、河東の劉知遠、恒州(常山)の杜重威、宋州節度使兼禁軍大将となった高行周、
滑州の皇甫遇、徐州の趙在礼、孟州の符彦卿、河中の安審琦など、15節度使を
対契丹用に編成し、その南下に備えた。
桑維翰の軍略、決裁はいささかも遅滞することなく端から流れるようだったので、諸将は心服したという。

桑維翰の軍略のもと、兗州の李守貞が叛将たる楊光遠を討ち、これを敗死させることに成功した。
その年末に、ふたたび耶律徳光は南下し、恒州に本拠を置き、邯鄲まで陣を進めた。
桑維翰はすぐさま、皇甫遇や安審琦らを向かわせたので、戦線は一時膠着した。
皇甫遇が契丹軍の包囲を受け、少数で粘っているのを、張従恩等は「もう手遅れ」としたが
安審琦は「皇甫太師にもしものことがあれば、何のかんばせあって天子にまみえようか」
といって、麾下の兵だけで突撃したので、耶律徳光は晋軍が総攻撃に移ったと勘違いして
即座に恒州まで逃げ出したという。

膠着した戦線を打開するのに、皇帝石重貴は親征を決意し、開封を出発した。
勢いを盛り返した晋軍は、定州より進み、恒州を降し、ついには耶律徳光をちからづくで追い返した。
耶律徳光は幽州まで逃げ帰ると、敗戦に猛り狂い、各将たちを鞭で打ったという。
しかし桑維翰はあくまで講和論者であり、この後すぐに講和を具申するも、耶律徳光の返書に
怒りのこもった文章が見受けられたので、一時見合わせることにした。
戦勝で気が緩んだか、石重貴は桑維翰の諫言や進言を受け付けなくなった。

当時朝廷には、馮玉という奸臣がおり、皇帝の外戚だったが、桑維翰の影響下にあって発言力は低かった。
皇帝が桑維翰を疎んじていることを敏感に察し、李守貞を巻き込んで誣告した。
桑維翰は執政職を追われ、朝廷に出ることはなくなった。
馮玉らは実権を手にすると、燕雲への攻勢を実行したが、それは耶律徳光の自在の駆け引きに翻弄され
攻撃軍を担った杜重威や張彦澤といった有力者が、契丹に寝返るにおよび
契丹の大攻勢の末、開封は陥落した。

寝返った張彦澤は、耶律徳光が桑維翰を憎んでいると勘違いし、許可無く殺してしまったが
耶律徳光は「なぜ殺した」と、その遺族を手厚く遇したという。

耶律徳光の話をしていたはずなのに、また途中から違うのが出てきたな…
まぁ、耶律徳光と契丹に拮抗する軍略の持ち主、桑維翰と、それさえいなければ破竹の進撃を誇った耶律徳光
ということで、判断してみてください。
ちなみに、このときの後晋領は石敬瑭の末年から石重貴が契丹に北へ連れ去られる直前くらいまで
すさまじくひどい天災に見舞われており、国力は最悪だったということを付け足しておきます。

773 ::2007/04/07(土) 17:24:35 ID:I3JbP16L0
>>772
耶律徳光(太宗)は石敬塘の後晋建国を助け
後に後晋が遼に背くと、南征するものの、
高行周・桑維翰らの活躍で一時は敗走しましたが最終的には
後晋を滅ぼし、華北一帯を占領してますよね。
たとえ後晋が最悪の状況にあったのを加味しても
耶律徳光の功績は凄いと言わざるえないのかな?  
(確かに途中で誰のこと推してるのか分からなくなってましたねw)

774 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/07(土) 20:01:14 ID:PaG7IIxw0
【確定組】
 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青
【候補】
 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、
 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、
 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊
 耶律休哥、狆師道、劉昌祚、李継遷、賈ー、潘美、楊延昭、
 史建?、王景、康壊貞、

【候補落ち】
 朱温(朱晃)、郭威、曹彬

【確定有力候補】
 李存審、顧全武、劉仁贍、耶律徳光、李継遷、劉昌祚、楊延昭、耶律休哥


かなりカオスになってますので、この辺でそろそろ決めたいと思います。
(いい加減、南宋以降の話も聞きたいし)

顧全武はいわゆる地方政権の名将であって、地域が極限定されているので10選に入れるにはためらう部分が大きい。
劉仁贍は10選確定の柴栄や趙匡胤相手に不敗というのが大きいが、いかんせんそれだけ。
耶律徳光は中原制覇を短期間で為した。維持できなかったのは政治力の問題とするならば確定間違いない
ただし、遼のことなので、予備枠とする。
耶律休哥も確定予備枠みたいな感じとする。
楊延昭は武勲において、並ぶものなしと思える。
劉昌祚…狆師道のほうがよくはないですか?

自分が考える10選
 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、李存審、狆師道、楊延昭、李継遷
 (契丹枠として)耶律徳光、耶律休哥

こんなところか。




775 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 21:39:14 ID:isOCtAs70
>○
>>771が俺を貶める為か、自らを誇る為のものか判らぬ。
だが、そんなことはどうでもいい。
君子はそのどちらもしないのだから。
二十五史だけでなく四書五経も読んでから来い。
俺を罵倒したことが許せないのではなく、その人柄を自ら損なったことがただ悲しい。
議論を壟断したいのならブログでも開けばよい。

776 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 21:42:29 ID:neOBtDwl0
○はスルーするに限る

777 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/07(土) 22:00:07 ID:G49b2+p90
>>774
◆RQdk7scN8sさんへ。劉昌祚より確かに狆師道のほうが適任と思います。
ただ北宋中期の武将が少なかったので一応名を挙げました。
耶律徳光と耶律休哥は燕雲以南の地を掠取していない守勢の人、休哥より
短期ながら中原を席巻した創業の人、徳光が10選入りの栄誉を受けるべきかと。
(耶律休哥は民衆から契丹最高の名将、と言われとるわけですがここは心を鬼にして)

そんでもって以前選定者の一人に選ばれたわけですが、
>>505>>761の折衷というだけでは具体的な形が見えないのでここに概論を書きます。
・基本は正史ベース。二次資料から引いてくる場合は典拠を明らかにする。
 (資治通鑑より、とか出典・十国春秋、とか)
・異民族武将に関しては守勢(中国からの侵略に対する防衛戦)で高名な武将であっても除外、
 中国の領土を犯し、十分な土地を掠取する(あるいは侵略のための橋頭堡を作る)か、
 当時の中華国家の人々に恐怖意識を植え付けるほどの活躍をしたものを資格保持者とする。
 ただし本人が中国からの強い独立意識を持っている場合はこれに該当しても選外とする。
・征服王朝の先行政権における武将の場合、中国本土に攻め入って領土を攻め取るか橋頭堡を作り、
 そのうえでのちに来る征服王朝の樹立に貢献した武将を資格ありとする。
 ・・・こんなんで。

 俺の頭ではこれ以上波風立たせずに全員を納得させる案は立てられんです。
 ◆RQdk7scN8sさんや○さんがもっと洗練された定義案を出してくれるのを希望。

778 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/08(日) 00:45:57 ID:z/gk5cja0
2時間ばかり休憩を挟んだから、そろそろ南宋に入っとるかと思ったけど。
進んどらんね。南宋に移行するんは明日からになるんかいな?

さておき、誰も間に入らんので、柄にもなく俺が仲裁に入らせていただきます。
>>775さん、>>776さん。
人の一度の過失をそう責めんめーや。俺も前スレで場を荒らしてしまった
経験ありやけど、再度やり直させてもらった事やし。寛容を求めます。
○さんも落ち着いてカッカした自分を見つめ直そう?
一度自論を否定されたくらいで怒らんで、それこそ丸い心を保ちましょうや。

779 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 00:57:04 ID:4I+oH72ZO
先の話だけど郭侃、伯顔、拡廓帖木児の扱いでまた揉めるんだろうな

780 :770:2007/04/08(日) 01:52:22 ID:/v/LzJsE0
<紀元前>
11世紀:牧野の戦(周武王)、三監の乱(周公旦)
10世紀:
09世紀:
08世紀:犬戎の乱
07世紀:葵丘の盟(桓公&管仲)、泓水の戦(楚成王)、城濮の戦(晋文公&先軫)
06世紀:邲の戦(楚荘王)、鞍の戦(郤克)、鄢陵の戦(晋詞&苗賁皇)、呉楚戦争(闔閭&伍子胥)
05世紀:呉越戦争(勾践&范蠡)、晋陽の戦(趙襄子)
04世紀:桂陵の戦(田忌&孫臏)、馬陵の戦(田忌&孫臏)
03世紀:燕斉戦争(楽毅、田単)、長平の戦(白起)、抗秦名将(信陵君、李牧、項燕)、陳勝呉広の乱(章邯)、楚漢戦争(項羽、韓信)
02世紀:白登山の戦(冒頓単于)、呉楚七国の乱(周亜夫)、石に立つ矢桃李言わざれども下自ずから蹊を成す(李広)、対匈奴戦争(衛青、霍去病)、百聞は一見に如かず(趙充国)、
01世紀:
<紀元後>
01世紀:赤眉の乱(樊崇)、緑林の乱(光武帝)、大樹将軍(馮異)、矍鑠たる翁(馬援)、虎穴に入らずんば虎子を得ず(班超)
02世紀:鮮卑大人(檀石槐)、黄巾の乱(皇甫嵩)
03世紀:官渡の戦(曹操)、鳳や鳳や(ケ艾)、破竹の勢い(杜預)
04世紀:(王猛、慕容垂)、淝水の戦(謝玄)
05世紀:最初の可汗(社崙)
06世紀:六鎮の乱(爾朱栄)
07世紀:薩水の戦(乙支文徳)、玄武門の変(唐太宗)、(李靖)、高句麗遠征(李勣)
08世紀:タラス河畔の戦(高仙芝)、安史の乱(郭子儀)
09世紀:黄巣の乱(李克用)、五代名将(李存勗)
10世紀:南唐遠征(柴栄)、陳橋の変(趙匡胤)、千載不決の議(趙匡義)
11世紀:澶淵の盟(遼聖宗)
12世紀:方臘の乱(童貫)、靖康の変(呉乞買)、抗金名将(岳飛 、韓世忠)
13世紀:世界征服(チンギスハーン、ツルイ、スブタイ、ムカリ、モンケ、ウリャンハタイ、バヤン、郭侃)、抗元名将(完顔陳和尚、孟珙、呂文煥)、崖山の戦(張世傑)
14世紀:紅巾の乱、鄱陽湖の戦(洪武帝)、北伐(徐達、ココテムル)
15世紀:靖難の変(永楽帝)、大航海(鄭和)、土木の変(エセン、于謙)
16世紀:庚戌の変(アルタン)、万暦の三征
17世紀:サルフの戦(ヌルハチ)、寧遠の戦(袁崇煥)、李自成の乱(呉三桂)、三藩の乱(康熙帝)
18世紀:十全武功(乾隆帝)
19世紀:阿片戦争(林則徐、関天倍)、太平天国の乱(曽国藩、李鴻章)

11世紀〜19世紀に区切って百の天下分け目の決戦(政変含む)を揚げ、
そこから百選を決めようと思ったが戦例を集めるのに飽きた。
「中国(史の)名将」なら二十五史に載ってればおkということで宜しかろう。
「中国(人の)名将」なら先秦以前のは明らかな夷狄以外はゆるく、
漢族成立後は拓跋、慕容、耶律、完顔、愛新覚羅等の連中を一人残らず排除すれば良い。

>>778
俺は○氏の論の何を>>770で否定し、攻撃し、批判したのでしょうか?
「(彼にとって)判りきったことを俺が言ったのが、
 彼を無知であるかのように扱うことと同じであり、
 それが彼の矜持を傷付けた」と言われても謝る気はありません。理不尽だ。
また俺に対する彼の謝罪をも求めておりません。そもそも争いになるのがおかしい。
彼自身が自分自身に謝ればこの件はそれで終りとして頂きたい。

781 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/08(日) 02:25:24 ID:BRC5l4KI0
なんか行き違いがあったようだけど、原因は>>771のレスですかね。
○氏は落ち着いてくださいね。
カッカしている理由はいまひとつ忖度できませんが、語気を強めることもないと思いますよ。
前に自分をなだめてくれたのに、らしくないですね。
また異民族枠の議論だから、>>770氏もまとめる方向の対案を示せばベターでしたね。
とりあえず、自分が契丹特殊枠入れときましたので、異論ある人はそれを外せば良いし、
また候補からこれは、と思う将を格上げすればよろしかろう。

草原王朝については、各々モチベーションも違うだろうから、よりよい妥協点を探すしかないのでしょう。
できれば、これからも論拠と対案は併せて提示いただけると助かると思います。
特に反対が無ければ、この線で南宋へと突入したいと思います。
五代に長々とつき合わせて申し訳なかったことです。

782 ::2007/04/08(日) 04:32:23 ID:m5io4n1t0
>>770さん、◆oOLAqFKRBさん、◆RQdk7scN8sさんお手間取らせて申し訳ない。
別に自論を否定されたとは思っていませんよ。
自分は皆でいろいろと前向きに思案すればいいかなと思っていますし。(念のため)
>>770さんが>彼自身が自分自身に謝ればこの件はそれで終りとして頂きたい。
と仰ってる様に自分はかなり冷静さを欠いていたのはあるかも…
>>770さん不愉快な思いをさせまして申し訳なかったです。
出来れば最初のレスに>>770さんが
定義に対する自論を提示して頂ければ有り難かった部分はあります。
(しつこいとか怒らないでくださいね)
>>781
五代に長々と〜
いやー自分は五代に大した知識の無い方なので◆RQdk7scN8sさんのレスはいい勉強になりました。
雑談もかなり入れちゃいましたけどねw


783 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 05:07:40 ID:F0HzLaWF0
最近見始めたんだけど、晋の詞とかも入ってるんだなあ

784 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 18:55:59 ID:FOH6MPFEO
>>777
一応、確認しておきたいのですが、>>505案であれば、
金末期の金将の戦いは入りますが、元の外征は外れます。

しかし、この案ならば、異民族の金将による自国内の戦いは入らない。
されども元の漢人武将であれば、一般的な感覚からすると中国領土外での
活躍であっても評価する――と解釈して宜しいんですか?

このスレでは基本的に、防衛戦よりも領土拡大を高く評価するので、
守勢云々は外しても変わらないと思います。

元という王朝がなければ征服王朝も含め、中国統一後の領土拡大に貢献した人物は、
戦場が中国本土外であっても、評価に入れるにすれば、
民族に拘る必要がない基準になるのですが…。

785 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/08(日) 19:59:41 ID:iqf5zjHk0
>>784さん
伝わりにくい書き方ですんません。
俺の意図としては中国領土外での活躍は除外、です。
つまり中国本土に攻め入ったトゥルイは入り、バトゥなどは西域で大暴れしてるけどもアウト、という感覚で。
あと郭侃などの両方に戦功がまたがっている人物も、基本的に中国本土での戦果のみ、ということで。
俺は民族の枷は可能なら無視したい派ですが、戦場が中国以外におかれる場合は除外と言う姿勢で書いてます。
ただ、俺なぞの案にとらわれる必要はないですよ。
>>784さんがこうだと思ったらその武将を推挙して、それについて皆で論ずればいいと思います。

786 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/08(日) 21:51:00 ID:BRC5l4KI0
あらためて読み返していて気がついたので
自分の考える五代〜北宋枠の10選を訂正します。

李存勗、柴栄、趙匡胤、楊師厚、狄青、李存審、狆師道、楊延昭、李継遷
(契丹枠として)耶律徳光

楊業は息子の方がどちらかというとすごい感じ…
というか、記録が少なすぎてわかりづらい。
不確定なところがあるので、申し訳ないが息子に譲ってもらうとして
かわりに、楊師厚を入れました。
(忘れていたなんて、とても口に出して言えない…ガクブル)

787 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 22:30:43 ID:FOH6MPFEO
>>785
スミマセン、頭の中では次の時代に移っており、そちらに意識が行ってました。
この時代の10選は私個人としては、>>786で異存がないです。



漢や唐、宋に明であれば、中国本土外の地域であってもカウントし、
中国本土征服後の清朝であっても、中国本土外の戦い、
(他国との戦い)が外されるのは、可哀想だと思うんです。

元朝の問題がうまく処理されたら、>>777案をもって
このスレの中国の武将の定義になると思ったまでです。
私としては、少しの修正、補足で、すべての時代で通用する、
定義となりえると感じたので、あえて意見させてもらいました。

788 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/09(月) 00:22:27 ID:7CdWDV6X0
>>787さん
>>777を全時代に適応できる汎用定義にすることについてアップデート。
・中国統一政権下における外征で活躍した武将もカウントする。
 唐の李靖の突厥討伐、清の策稜らのジュンガル討伐を認める、ということで。
まだまだ完全な定義足りえないのは承知ですが、そこは諸兄に任せます。
本音を言うと他の人が完璧な定義を持ち出してくれると助かるんやけど、怠慢はよくないわな。

>>786◆RQdk7scN8sさん、
 五代・北宋の10選は異議なしです。
 次はいよいよ南宋時代、いろいろと各自の自論がぶつかりそうですな。特にモンゴルがらみで。

789 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 00:51:34 ID:rTbI/Ux70
<審査条件>
〇、其の人物が名将である。
一、其の人物が中国人である。
二、其の事跡が中国史である。
三、其の場所が中国領である。

<優先順位>
一:審査条件を全てクリア。
二:審査条件を二つクリア。
三:審査条件を一つクリア。

例えば、甲と乙が候補に残り、どちらか一つを決めるとする。
其の場合、審査条件の〇の比較で甲>乙だったとしても、
優先順位のクリアで甲<乙の場合は乙を入選とする。

これで如何だろうか?

790 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 19:47:09 ID:TnVZNl3/0
楊延昭は名将というには実績が少ないような気がする。
潘美を入れたほうがいいように思う。

791 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/10(火) 21:40:26 ID:UAtebvBkO
流れ止まっちゃってるな

792 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 08:25:09 ID:3jvERdIMO
どの武将も一長一短で悪く言えば小粒だから
時代もマイナーで語れる人が少ないんだよ

793 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 09:29:51 ID:qimM40B0O
>>792
でも◆oOLAqFKRB.氏の超得意分野だろ南宋とモンゴル武将

794 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 18:50:21 ID:FXlcrX3a0
これで
岳飛、韓世忠、孟珙、完顔陳和尚、張弘範、郭侃
成吉思汗、木合黎、速不台、伯顔、拡廓帖木児

この中から一人落として終わりだろ。

795 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 20:35:25 ID:+N39LNeU0
韓世忠はこの中ではちょっと見劣りするんじゃなかろうか

796 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/11(水) 21:04:37 ID:6rx9YgF50
>>793
 まあなんですか。超、というか最も得意とする時代やね。
 で、俺的10選を挙げさせていただくと
 宗沢
 岳飛
 完顔宗望(オリブ)
 完顔宗弼(ウジュ)
 拖雷(トゥルイ)
 速不台(スブタイ)もしくは木華黎(ムカリ)
 孟珙
 伯顔(バヤン)
 阿朮(アジュ)もしくは兀良合台(ウリャンハタイ)

 こんな感じで。ココテムルは徐達のライバルやし、明朝頭に送るべきと
するとだいたいの10人が決まると思うわけやが、どーでしょ。あと韓世忠
入れるんやったらむしろ劉リを入れたい。正史でウジュの拐子馬を破った
のは多分この人一人か・・・あと岳飛も野戦で勝っとるかな。
 

797 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 21:11:15 ID:qimM40B0O
俺は南宋とモンゴル武将が超得意分野な
◆oOLAqFKRB.氏の推薦文とか読みたいし、南宋・金・元のいろいろな話とかも聞いてみたい
折角、定義について話し合ったんだし、みんなで議論しようよ


798 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/11(水) 21:18:26 ID:6rx9YgF50
拖雷(トゥルイ)
チンギスの第四子、オゴタイの同母弟。チンギスの後継者と目されたが
その座を兄・オゴタイに譲った。燕京に盗賊が出るという話を聴きみずから
取り締まりに出馬、賊十六人を斬り捨てる。

巳丑年(って何時?)の夏八月、オゴタイが京城に帰ると即位式を行う。
翌年秋、オゴタイの金朝征伐にトゥルイも兵を率いて従軍、天城堡を破り
蒲城県を抜き、金の完顔合達が西に赴いている隙を突いて黄河を渡り、
鳳翔を撃つ。引き返してきた合達に攻め立てられ不利となるがここで
トゥルイが兄を助けて奮戦、合達を斥ける。翌年春、洛陽を落とし
河中の諸城を抜いた。

オゴタイは官山に還ると文武百官、諸侯王を集め、彼らに向かって言った。
「人は言う、国家の損害は実に寇敵によってもたらされると。今、金はいまだ
倒れず。我らの敵なり。諸君、寧ろ謀はないか?」対するにトゥルイが
投降した金人の献策を紹介して強く推した。オゴタイは大いに喜び、
諸王大臣たちを呼び寄せて「(金伐は)かつて父が志し有りながら果たせなかった。
今トゥルイが能くこれを言う、これぞ真に賽因(大いに好ましいこと)なり!!」
オゴタイは即断即決、大軍を発した。

オゴタイは碗子城から南下し、黄河を渡り、洛陽を向けて進発。
斡陳那顔(アッチンナヤン?)率いる左軍を淮南経由で進発させ、
トゥルイの右軍は鳳翔から渭水を超えて宝雞経由で出陣させる。トゥルイは
小潼関を抜き、宋との国境線を通って漢水の下に出た。計画によれば翌年二月、
金の王帥が汴京に遷るはずだった。トゥルイは南宋に部下を派遣して
金朝を挟撃しようと求めたのだが、なにを血迷ったか宋の上層部は使者を
殺してしまう。激怒したトゥルイは「やつらは以前苟夢玉が結んだ同盟関係を
どう思っているのか!? 自ら喰らい(多分領土のこと。確証ないが)自ら叛くとは!!」
キレたトゥルイは兵を分かって南宋の諸城堡を攻め下し、長躯漢中まで攻め入って四川を襲い、
閬州を陥とし、南部を打ち据えてようやく軍を還した。そして金の王帥を
房州で補足、武当山で追いついて先鋒部隊三千で金兵十万の中に突撃、
均州まで奔らせる。どれほど激しい戦いぶりだったかは漢水が騎兵の死体で
埋め尽くされたという記述から類推できるかと。トゥルイは部下に千人を
つけてオゴタイのもとに派遣、報告し、オゴタイは金の王帥を取り逃したことを
責めたが、部下がいないところでトゥルイを慰労、迅速に京師・官山に引き上げた。



799 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/11(水) 21:20:00 ID:6rx9YgF50
トゥルイ続き
漢水にとどまったトゥルイは金の大将・合達とケ州で交戦、金軍の伏兵二十万を
見抜き隘路に拠して敵を待つ。このときトゥルイの兵は四万だったが、
間諜の報告によると金軍も二十万全員が兵士というわけではなく、かなりの
数の輜重部隊が存在することを知って強気の攻めに出る。十二月、禹山で
金軍と交戦、わざと逃げて見せて北に引き寄せる策を使うがこれは失敗。
それならと今度は火計を仕掛け、これが大当たり。合達らはケ州に奔走し、
トゥルイは三日間の猛攻でこれを撃滅。北に追い立てて部下に三千騎を
与えて追撃させるも、翌朝の霧で視界を遮られた蒙古軍は金軍の奇襲を
受け、珍しい敗戦を経験する。トゥルイは敗戦の部下(札刺)を罷免して
野里知給歹(読めん)に替えた。まもなく金軍を破る。

壬辰(やからそれじゃ分からんのよ)春、トゥルイは陝西・四川・河南の
難路を強行突破して着実に版図を広げる。北に還りつつあるトゥルイに一矢を
報いようと金の合達は歩・騎兵合わせて十五万の大軍で追撃に出た(二十万で三千に負けたくせに)。
このときトゥルイの軍は1万3千。総軍馬から下りて塹壕を掘り、金軍の攻勢を
しのぎにしのいで持久戦に持ち込んだ。日暮れ、軍中に「敵の休息したところを撃つ。
夜、鼓を騒がしく鳴らすのがこれだ」と命令。時にオゴタイが黄河を渡り、親王クオンブカら
万騎をつれてやってきた。空に大寒波到来、大雪も降り、金人は凍えて動けず、
顔色も青ざめて到底戦うどころの話ではなくなる。そこを好機と見たトゥルイ(およびオゴタイの援軍)が
襲撃をかけ、曰く「機を失うべからず。やつらは城内に逃げ込んだ。未だ囲むは易からず。
大敵を前に、況や敢えて父君のごとくあれ!!」奮撃して三峰山を抜き、大いに金軍を破る。
さらに十里に渡って追撃し、流血が道を染めざるは無し。金の精鋭はここにおいて尽く失われた。
予衆を狩って雎州まで走り、伏兵が立っても逆に是を潰滅させる。
鈞州に逃げた合達に従うは数百騎。蒲阿は汴に逃走し望京橋に至ったが、蒙古に擒らわれる。まもなくオゴタイが到着、
戦地にとどまって視察し、トゥルイに「はたして汝でなかったなら、この大勝利はなかったであろう」と賞賛した。
諸侯王がオゴタイに進言して曰く「誠に聖愉(?)です。しかるにトゥルイの功、社稷に著しいかと」
それはオゴタイとトゥルイの後継者争い(争ってないけど)でトゥルイを支持したものの言だった。
トゥルイは従容として曰く、「臣に何の功がありましょうや。この天の威、皇帝の福なり」その言には
聞いたものすべてを佩腹させるものがあった。トゥルイはオゴタイに従い、鈞州を抜き、宿敵合達を
殺し移刺蒲阿、完顔陳和尚をも屠る。更に許州を攻め、これも抜く。
オゴタイの先鋒として河南諸郡平定に奔走し、四月、半渡から真定に入り、
中都を過ぎて北口に出る。夏の官山に還った。

五月、オゴタイが身体に変調をきたし、六月、いよいよ病篤くなる。
トゥルイは天地の神々に祈りを捧げ、代われるものならオゴタイと自分の身を代えよと叫んだ。
怪しげなシャーマンを呼びつけて病気治癒の祭祀を執り行わせたりとかなり
必死で兄を心配する。数日が経過してオゴタイがやや回復すると、トゥルイは一緒に北に還り、
阿刺合的思の地にいたる。そこでトゥルイのほうが病魔にやられ、逝去。
本当にオゴタイの代わりに死んだ。享年四十余歳。英武皇帝と諡号を贈られた。廟号は睿宗。
チンギス時代の武功、オゴタイ時代の河北計略における活躍などから人望頗る厚く、
それゆえ以後蒙古の嫡流はトゥルイ家から選出されることとなった。

800 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 22:45:06 ID:oZd1YRNi0
速不台の華々しい戦績は西方遠征ってイメージがあったんで、
>>777の定義からすると資格なしかと思ってた・・・対金戦でもけっこう功績があるのかな?
◆oOLAqFKRB.さんの推薦文が楽しみですね。

801 ::2007/04/11(水) 22:46:03 ID:t4yNDFjl0
◆oOLAqFKRBさん 乙です
すいません劉?の?の部分は本来、何となっているのですか?
自分のボロPCでは劉 になっちゃってるもので・・・orz
それと韓世忠はなんか嫁さんとセット扱いされてる様な気がしますが…
自分はですね張弘範を推します。あと阿里海牙(アリハイヤ)の評価はどんな感じですか?

>最も得意とする時代やね。
いやいや自分の中のイメージでは十分、超が付きますよ。
前々スレから得意な時代と言ってましたし。
あとですね>>788
>中国統一政権下における外征で活躍した武将もカウントする。
>唐の李靖の突厥討伐、清の策稜らのジュンガル討伐を認める、ということで。と仰ってますが
郭侃はフラグの西方遠征に従い、ペルシア、バクダード、アッバース朝のカリフを降伏させ、
シリアへ侵入して十字軍と戦った功績も審議の範疇に入れるのでしょうか?
中国統一政権下における外征は東アジア(ベトナムを含む)に限定するにしてはどうかなと個人的には思っています。
諸兄、◆oOLAqFKRBさんいかがでしょうか?


802 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 22:55:10 ID:oZd1YRNi0
>>801
脇からですいません。劉キ[金奇]になってます。

803 ::2007/04/11(水) 23:04:49 ID:t4yNDFjl0
>>802
なるほど劉キ[金奇]ですか。
>>802さんご親切にありがとうごさいました。

804 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 23:42:42 ID:soE3kzWL0
貼っておきます

南宋・金〜元
【確定組】
 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、 拡廓帖木児(ココテムル)、
【候補】
 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、
 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道
 張俊、呉?、呉リン、劉リ、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義
 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ)
 劉整、張弘範、脱脱(トクト)、呂文煥

>>796
自分もココムテルは、この次の時代のリストに並べる人物だと思う
時代で区分してるしね


805 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 23:50:29 ID:Bvy9586Q0
李庭芝、候補にも入れなかったっけ?別にいいけど

806 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 23:51:02 ID:3jvERdIMO
郭侃は元の武将でしょ。だったらOKでない?
10選入り確定ですな

807 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/11(水) 23:55:30 ID:R5Kxdx8b0
速不台
 通称スブタイ・バアトル。兄貴・フルコンとともにやたら勇猛、頑強で騎射
を善くした。少年時代、強盗を槍で刺し殺しその一族郎党を遁走させたという
逸話を持つ。

 兄貴が将となったので人質の意味でチンギスの傍仕えとなる。壬申(?)年、
金伐戦に参加。恒州攻めで真っ先に城壁を登り、城を落とす。まもなく投降者
滅吉里を部下に加え、蟾河の戦いで一戦にして二将を擒らえる。さらに欽察部
と玉峪で戦いこれを破る。

 イスラム討伐から還るとまた欽察討伐を上奏、許される。太和嶺のどてっ原
に工兵を動員して穴を開けさせ、欽察部の予想を超える場所から突撃をかける。
縦横に奮戦するスブタイ軍の前に欽察の軍は潰滅、遁走した。現地の余衆を
ことごとく降し、これらの土地を占領下に置き、阿里吉河で斡羅思部の大、小
密赤思老と戦い、一撃のもとに彼らを投降させる。阿速部を獲って帰還。

 征西前に東伐戦に参加、撒里畏吾特勤、赤閔ら諸部を倒し、徳順、鎮戎、
蘭州、会州、洮州、河州を抜いて母馬五千を獲て朝廷に献ずる。チンギス
逝去のため第二次征西は一事見合せとなった。

 オゴタイが即位すると公主を娶わせられ、皇室の一員に連なる。潼関攻撃
に従軍、利なく、オゴタイが怒った時、勝敗は兵家の常、功を立てて埋め合
わせすればよろしい、とトゥルイに救われた。トゥルイの節度下に入り河南
経営を任される。牛頭関で金将・完顔合達の軍数十万とはちあわせるも、軍
を三峰山に集合させて持久戦の構えを見せる。おりからの大雪と大寒波に乗
じて猛攻をかけ、敵のほとんどを殺しつくすという大戦果をあげる。つーか
ここはトゥルイ伝に同じ、でいいんやが。これにより金の対北方戦はまったく
振るわなくなる。翌年夏、トゥルイが官山に帰還するとスブタイが統帥権を
譲渡され、黄河北方に逃れる金主を黄龍岡に追撃、撃破して首級万余を挙げる。
最終的に金軍を蔡州に追い詰め、汴を降し、后妃および珍宝の数々を手に入れ
オゴタイに献上、1234年の蔡州の戦いを見届けてのち、バトゥの副将として
征西に出る。これ以降はヨーロッパ戦線での戦いやから必要ないかと。

808 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/12(木) 00:19:59 ID:KgSsk+G50
>>801
すんません。確かにヨーロッパ遠征組のことを忘れとりました。
征西はモンゴルの仕事やから無視していいか、とか思っとったら郭侃おったし。
>>788
の定義やと確かにヨーロッパでの戦功も込みになりますわな。
そーすっと郭侃が確定確実に昇格、郭侃を落としたいわけとは違うけど、
やっぱりヨーロッパは違和感あるしなぁ。
○さんの言うとおり東アジア圏に収めとくほうが無難か。
そこらへん、諸兄の意見はどんな感じなんやろ。

809 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 00:51:14 ID:gfCpSYNA0
1曹操=後漢末
2李克用=唐末
3拡廓帖木児=元末or北元≠明初
4呉三桂=明末or清初

810 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 00:59:00 ID:HyfEY1CkO
東アジア圏に収めるとか枠を決めてしまう方が違和感ある。
強すぎてヨーロッパまで届いちゃったってだけで基本的には歴代王朝が行ってきた外征と同じように考えていいのでは。

811 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 01:09:11 ID:PdOk3TRp0
というか、南宋滅ぼす前、フビライによる元朝の成立前のモンゴル帝国は
世界帝国ではあっても中国統一政権という枠には当てはまらないんでは?
元朝以前のモンゴルは>>777でいうところの「征服王朝の先行政権」にあたると思われるので、
>・征服王朝の先行政権における武将の場合、中国本土に攻め入って領土を攻め取るか橋頭堡を作り、
> そのうえでのちに来る征服王朝の樹立に貢献した武将を資格ありとする。
に適合する、金もしくは南宋攻略での功績に限って評価すべきでは?

あと拡廓帖木児について、徐達の遠征を撃退したのって既に北方に逃亡した後ですし、>>777
>・異民族武将に関しては守勢(中国からの侵略に対する防衛戦)で高名な武将であっても除外
にあたって候補外になるんではないのでしょうか?詳しい業績まではわかってないんで見当外れかもしれませんが・・・

812 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 01:36:49 ID:gfCpSYNA0
周 BC1046〜BC256
↓ ●
秦 BC256〜BC206
↓ ●
楚 BC206〜BC202
↓ ●
漢 BC202〜8
↓ ○
新 8〜23
↓ ●
漢 25〜220
↓ ○
魏 220〜265
↓ ○
晋 265〜420
↓ ○
宋 420〜479
↓ ○
斉 479〜502
↓ ○
梁 502〜557
↓ ○
陳 558〜589
↓ ●
隋 589〜618

○禅譲による交代 ●放伐による交代

813 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 01:38:08 ID:gfCpSYNA0
隋 589〜618
↓ ○
唐 618〜907
↓ ○
梁 907〜923
↓ ○
唐 923〜936
↓ ○
晋 936〜946
↓ ○
漢 947〜950
↓ ○
周 951〜960
↓ ○
宋 960〜1279
↓ ●
元 1279〜1368
↓ ●
明 1368〜1644
↓ ●
清 1644〜1912

○禅譲による交代 ●放伐による交代

814 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 08:40:10 ID:DNpsFED/O
>>811
それでもモンゴルは東西両方で活躍してる奴多いしなぁ

815 ::2007/04/12(木) 09:27:23 ID:9MPvgVfh0
【確定組】
 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、郭侃
【候補】
 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン)
 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範
張俊、呉?、呉リン、劉キ[金奇] 、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義
 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ)
 劉整、脱脱(トクト)、呂文煥、 孟sル、完顔陳和尚、
bヨ雷(トゥルイ) 速不台(スブタイ)、木華黎(ムカリ)
 
もし候補から抜けてる人物がいる場合は補修お願いします

>>814
取り敢えずは推薦文挙げて貰ってからアレコレ議論してみては?

816 ::2007/04/12(木) 09:30:56 ID:9MPvgVfh0
連投ですいません

五代〜北宋・遼
李存勗、柴栄、趙匡胤、楊師厚、狄青、李存審、狆師道、楊延昭、李継遷
(契丹枠として)耶律徳光
楊延昭より潘美を入れたほうがいいように思うと言う意見もありますが
取り敢えず以上の十名を確定でということで宜しいですか?


817 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 10:44:17 ID:6PWL2b6B0
バヤンは確定に入っていいと思うんだけどなあ。

818 ::2007/04/12(木) 14:35:33 ID:9MPvgVfh0
すいません自分が>>801
中国統一政権下における外征は東アジア(ベトナムを含む)に限定するにしてはどうかな?
と提案しましたがまだ結論が出ていないのに>>815で勝手に
郭侃を確定入りにしちゃってますがよかったのかな?

>>817さんの仰る様に伯顔(バヤン)は確定入りでいいと思います。


819 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 17:04:33 ID:LWmQ/ydr0
郭侃はオゴタイ時代に百戸長として対金戦争に従事しているし
晩年でもフビライの下で南宋戦に従事しているので
中国の名将扱いにしてもいいと思う。
中近東での戦果は別モノとして考えればいいし。

820 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 17:51:13 ID:DNpsFED/O
>>815
あまり詳しい訳じゃないからなんとも言えないけど、チンギスが居ないのは何故?
彼の頃のモンゴルも>>777の「征服王朝の先行政権」として良いんだよね
チンギスの中華方面の戦績だと他のモンゴル武将に見劣りするから?

>>819
郭侃は「征服王朝の先行政権」の「漢人武将」だから、
西方の戦績が考慮されて確定にいたのだと思ったんだが、無しにするの?

821 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 20:53:48 ID:agTVIqMpO
>>820

せめて>>784-785>>788を読んでもらえませんか?

その上での話なら、それはそれで話し合いをしますが…

822 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/12(木) 21:19:22 ID:40NYG0oU0
確定枠の人やけど、孟〔王共〕の紹介文落としていいかいな。
今更いらんなら控えるけども、好きなんでどーせなら開陳したいなーと。

823 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 21:24:02 ID:oljSW7kuO
ぜひお願いしやす!!
あとチンギスハーンは候補入り可能なの?

824 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/12(木) 21:34:08 ID:40NYG0oU0
そんじゃ孟珙の1
曽祖父・孟安、祖父・孟林は岳家軍の将帥として功績を挙げ、父・孟宗政は
制置使・趙方麾下の有力な将帥という武門の家に育つ。若くして優れた才覚
を見せ、團山の戦いで父とはぐれたとき、それを見つけるや単騎金軍の重囲
に突撃、これを破って父を救った。翌日の敵の動きを予測して父に献策、これ
を見事的中させて金軍を破るという戦術眼も備える。制置使趙方に謁見し、
一見して只者で無いと直感した趙方より異例の抜擢を受けた。

父が唐・ケ・蔡三州の壮士二万を募って編成した“忠順軍”を受け継ぐ。6年、
金の武仙と5回にわたって交戦、ことごとく捷ち、将校452名、兵士33万余
を俘虜とし、44万の民衆を解放した。功績により顎州江陵府副都統制となる。

端平元年、元軍と連携しての蔡州の役にあたって、元の総帥タチャルのもとに
兵糧2万石を届け、意気投合してタチャルと義兄弟の契りを交わした。忠順軍
を率いて戦役に参加、元の漢人諸侯・張柔が流れ矢に当たって落馬しそうになると
二度に渡ってこれを救った。金軍が老人や稚児を殺して絞った油で放つ“人油砲”
を使うと道士を派遣してこれを諭し、人油砲の使用をやめさせた(やめるんかい)。
端平元年正月、蔡州の役で金を滅ぼす。金主・完顔守緒は自ら火をつけて自殺
したので、遺骨をタチャルと分かち、帰国した。功により建康府都統制兼権侍衛馬行事職司。

制置使趙方(この時期は趙葵か?)により襄陽兼鎮北軍の都統制に任命される。
鎮北軍で壮士を募り、兵士一万五千人を獲て隟北、樊城、新野、唐、ケに配備する。
まもなく枢密院より武器を授かる。

翌年、皇帝に謁見。「卿は名将の子、忠勤に励み国に礼を尽くし、蔡州に金を
滅ぼす。功績昭著なり」との褒め殺しに「これは宗廟社稷の威霊、陛下の聖徳と
三軍の将士の労によるところ。臣はなにほどのこともしておりません。臣、
陛下に願わくは民衆に寛容であり、人材を蓄え、機会を待たれますよう。臣は
所詮武辺の士、戦を望み和議を望まず」と答え、厚い賞与を下賜される。

端平三年、元軍が薪州を攻めると呂文徳とともに現地に急行、囲みを解く。
さらに逆撃して襄陽を攻めるも、江陵の形勢が危急を告げたのでそちらに向かい、
元の寨24個を一夜のうちに覆滅して大勝する。嘉熙元年、顎州諸軍都統制となる。


825 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/12(木) 21:36:35 ID:40NYG0oU0
元の大将テモチエ(?)が漢陽から、大将クオンブカが淮甸から南宋領に侵入、
現地の将士は逃亡し、投降し、あるいは敗北する。孟〔王共〕が現地に到着する
と民衆は「わが父きたれり」と喜んだ。孟〔王共〕は楼上に帷幕を構え、防衛戦の
指揮をとり、失われた諸州を取り戻した。将士は毎月の苦戦に苦しみ、病人、
けが人が後を断たず。孟〔王共〕は彼らに医師を遣わし、その厚遇に将士は感涙した。

嘉熙二年春、枢密副都承旨、京西湖北路安撫制置使を授かる。郢州、荊門軍を回復し、
十二月、冢頭、樊城、郎神山を攻撃、ことごとく捷つ。翌年正月信陽軍、樊城、
襄陽を回復し、枢密都承旨、制置使となる。光化軍、息州、蔡州を降す。降ったものの
中から百余人を選抜、忠衛軍を創建する。

襄陽がどれだけ重要な地であるかを説明、兵士十万の常駐を請うも認められず。
とりあえず先鋒軍を置く。元のタハイが80万の大軍を擁して蜀土に攻め入ると、
孟〔王共〕は塞を増設し戦艦を分布して防衛ラインを築き上げる。結果元軍は
侵攻できずに撤退、翌年、子爵に封ぜられた。防衛ラインを三層に分けてそれぞれ
の州郡に千〜一万の精兵を置くことを上奏するも、やはり認められず。王堅、
劉整らを派遣して元の造船所に焼き討ちをかけ、船材と食糧を焼く。淮以下五県から
精兵を359人を募り、“寧武軍”と名付ける。

その後江陵にあって各地の防衛ラインに増援を送ったりいろいろと活躍するも、
孟〔王共〕自身が具体的に戦争の描写があるのはここまで。あとは元軍が攻めて
きても孟〔王共〕が守りに出ると向こうから逃げ去るのでほとんど交戦してない。
とにかく上奏するはしから潰されて、武勲の割に相当不遇やった人。死後忠襄と
謚され、吉国公を追贈された。廟号は威愛。
・・・だいぶ省略、割愛しました。
特に後半の先頭描写がない部分はガリッと削ったけどまあ、いいでしょ。
で、
チンギスは入らんと思う。
「先行政権の武将で、かつ中国本土の領土を切り取るか橋頭堡を作る」
かしてないと資格なしやから。
領土を一時的に取っても引き上げるとまた中国側に取り戻される、を繰り返しよった
チンギス時代の蒙古は資格なしっちゅーことになるかなと。

826 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/12(木) 21:40:05 ID:40NYG0oU0
>>825
変換ミス。先頭描写ってなんや、俺。
戦闘描写です、すんません。

827 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 21:43:29 ID:agTVIqMpO
基本的には自分自身が、その人物が中国の武将であると確信し、
名将であると考えるのであれば、推薦するべきだと思います。

鉄木真が中国の名将であると考えるのであれば、推薦文を書き込んで下さい。
その意見が通る、通らないは別問題ですから。

828 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 21:57:32 ID:gfCpSYNA0
冒頓単于
拓跋珪
社崙可汗
木杆可汗
耶律阿保機
完顔阿骨打
鉄木真
努爾哈赤

全部outで。
あと、三衒の決めた定義が気に入らないなら終わるまで待つことだな。

829 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 22:12:51 ID:DNpsFED/O
>>821
失敬
となると、>>788の定義で郭侃の西方の戦績は考慮外という事になるのですかね
彼が参加した西方遠征はモンゴルの中華統一(≒南宋滅亡)以前のことだし

830 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 22:35:49 ID:oljSW7kuO
>>824-825
◆oOLAqFKRB氏ありがd
やっぱチンギスハーンは資格無しですか


831 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 22:48:57 ID:6PWL2b6B0
チンギスはあんまし中国支配に熱心じゃなかった感じだしなあ。
ムカリならともかく。

832 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 23:02:33 ID:agTVIqMpO
>>830
ですから、鉄木真が中国の名将であると考えるなら、推薦文を書き込んで下さい。

モンゴル統一の為の戦いは入らない、中国本土内の戦闘なら入るも、
その地域を複数年支配し続けてる(短期間ではなく、次の代まで支配する)
その条件をクリアしていれば、説得力がますと思いますよ。

833 ::2007/04/12(木) 23:04:34 ID:9MPvgVfh0
>>820
テムジン時代のタタル、ケレイト、ナイマン、メルキトの諸部族を破り、
モンゴル高原全体を支配や
金、ホラズム・シャー朝を征服やジャラールッディーンを撃破など
功績はすごいのですが、定義に適合しないと思いましたので候補に入れませんでした。


孟[王共]= 孟sルなんだあまり詳しくないのですいません…

834 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 23:10:35 ID:uB3PX48c0
チンギス・カン
第一次対金戦 内蒙古で金軍を破る
第二次    黄河以北の全域を蹂躙。免れたのは中都を含む十一の
       都市のみ。講和成立後、内蒙古に撤退。
第三次    軍を派遣し中都を攻略。

西へ出かける前にかつての燕雲十六州に相当する地域は確保しているから
「中国本土を切り取り橋頭堡を築いた」ことにはなると思うが。

835 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 23:11:47 ID:oljSW7kuO
>>832
???
俺はチンギスハーンを推薦するつもりも中国の名将として
扱うつもりも端からないんだけど…
なんか勘違いしてない?

836 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 23:13:29 ID:CZs6aAA10
こら
他人が考えて書いたことを自分が考えたように書くもんじゃない
前にも何度かあったね みっともない

837 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 23:14:40 ID:CZs6aAA10
836は>833

838 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 23:18:18 ID:JPGjroiF0
>>821
郭侃は最終的に元にいたんだよね?
名将か否か判断するのに○○時はのぞくなんておかしい。途中どこにいようが関係ない、
趙亡命時の楽毅だけをみて燕時代を無視するのと同じだろ
全体を見て判断しないといけないと思う


839 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 23:24:08 ID:DNpsFED/O
>>833
まあ、あの定義だとチンギスもありにはなるはずでは、と思っただけでして
確かに完全に遊牧民だし西征で有名だけど、統一王朝の先行政権を開いて中華地域で戦っているのは事実なんで

840 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 23:29:26 ID:agTVIqMpO
>>835
ならばスレ違いですね。ここは中国の名将を選ぶスレなんですから。

841 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/13(金) 20:38:52 ID:eTh9VGg00
人がおらんよーなので、人寄せの意味も含めて紹介文落とします。
張弘範(字は仲疇。○さんが推すゆった名将やね)
 張柔の第9子。よく馬槊を使い、かつ詩文の才にも長けた。二十歳のとき、
兄が順天路をはなれることになると代行を任され、民吏の諸問題をたちどころ
に採決して人々を感服させる。蒙古の軍がやってきて暴力を振るうと弘範は
杖刑をもって彼らを痛めつけた。順天路に彼がいる間、蒙古と言えども非道な
真似はできなかった。
 中統三年、行軍総管とされる。合必赤親王が済南の李壇討伐に向かうと副将
として従軍、弘範が城の西に野営地を置くと、李壇が兵を発した。諸将が色めき
立つ中弘範は一人冷静で、「我、険地に営す。壇すなわち我に弱を見せ、必ず
奇兵をもって襲い来る。我の謂わざれども悟るものなり」として準備を進める。
弘範の策を知らずに攻め寄せた李壇の軍はあるものは壕に埋まり、あるものは
伏兵にやられて全滅した。弘範の勝報を聞き、張柔は「真にわが子なり」と喜んだ。
 至元元年、兄が出世したことで順天路の守りを任されることとなった。翌年、
洪水で家は流され、到底租税が納められる状態ではない。しかしそれを言って
聞くような朝廷の文人どもでもない。弘範は直接京師に赴き、フビライに面と
向かって説教。フビライも話の分かる人で、「それを問うなかれ」と謝罪した。
 至元六年、南宋の襄陽(せっかく孟珙が必死こいて取り戻した要地)を囲む。
万山に回回砲を据え付け、試し撃ちをしようとした瞬間、南宋軍が攻め寄せた。
部下たちは弘範を置いて城に逃げ込む体たらく。「敵を前にしてあえて退くと
いうものには死を!!」との叫びに偏将・李庭が飛び出し、他の将がそれに続く。
弘範は二百騎を長く布陣させ、「我の鼓を聞く、すなわち進め。鼓なかりせば
動く勿れ」南宋軍が突出してくるが、弘範の軍は動かず、南宋軍は再び進んだ
かと思えば退却した。南宋軍の士気が低下していることを見抜いた弘範は鼓を
鳴らし、弘範の軍千人が一斉に襄陽を襲う。南宋軍は奔潰した。
 面倒なので、こっからアジア歴史事典の丸写し。
 南宋討伐に参加し、各地に転戦したが、とくに張世傑の水軍を焦山に破り、
戦艦80艘を奪った功が大きい。毫州万戸に任ぜられ、抜都(英雄)の名を
下賜される。南宋の首都、杭州臨安府陥落ののち軍を還すが、翌1278年、張
世傑、陸秀夫らが衛王を立てて皇帝とし、元朝に反抗したので討伐軍の総帥
となり、水陸二万の軍を率いて南進し、まず文天祥を擒らえ、つづいて張世
傑らの水軍を崖山に破った。こうして輝かしい武功を立てて79年凱旋した
が、まもなく病没した。謚は献武。

842 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/13(金) 21:44:40 ID:PpLGyfJ60
孟[王共]は全時代の十人でも入るなあ

843 : ◆RQdk7scN8s :2007/04/13(金) 21:48:39 ID:GvRJnFDj0
>>842
入るでしょうねぇ。
彼に皇帝たるの地位があれば、かなり強固な国家体制を作れたことでしょう。
前線の一司令官は戦略的な視野や構想力より、戦術的な手腕が必要だけど
孟珙はその両方を兼ね備えた稀有な人物といえるから。

844 ::2007/04/13(金) 23:26:01 ID:yKT0Xcnd0
◆oOLAqFKRBさん 乙です
>>843
◆RQdk7scN8sさん古巣での活躍ぶり(?)拝見してますよ。
(もし別人ならごめんなさい)
張弘範は、阿朮(アジュ)、伯顔(バヤン)の元で華々しい活躍を見せ、
更に南宋を滅亡に追いやったのは彼の力に因るものが大きいかと思います。
あと阿里海牙(アリハイヤ)なんかも自分は推したいですね。


845 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/13(金) 23:31:58 ID:+sNzR0sV0
この時代区分は、全世界全時代の十人に入るようなのがうろついてますよね

846 : ◆oOLAqFKRB. :2007/04/14(土) 00:47:00 ID:VTU7cCbT0
>>842さん、◆RQdk7scN8sさん、
孟珙を高く評価してくれて中国史で一番孟珙が好きな俺としては
嬉しい限りです。本当に、彼が構想しある程度までは完成させた防衛
ライン(完成しなかったのは朝廷の援助を受けられなかったから)が
機能している間は、孟珙死後までモンゴル、元朝も南宋に手を出せん
かったわけやし、完全に自由な権限さえ与えられれば南宋長久の策が
実現したかも知れんのですよ。長期戦になったとしたら攻めあぐねる
元朝と対等以上の講和が結べたかも知れんし、後任が軍事の分からん
賈似道のバカでなかったら、と心から思うところです。ちなみに俺の中
で中華史上名将ベスト3は孟珙、李靖、韓信の三人で、奥ゆかしい性格
と優れた教養から孟珙を一位に押し上げたいところ。まぁ俺の中での
ランクづけやからそうではない、という意見の諸兄も多々おるやろーけど。

○さん
アリハイヤですか。
彼もアジュの副将格でいろいろ活躍してますね。アジュが襄陽・樊城の
要地を陥として一旦帰還した後も南征を続け、東西58州(56州?)
を切り取ったつわもの。しかも性格は温厚で戦場でも無闇な殺戮を戒め、
占領した土地の人々をいたわって租税を軽くして人々から賛美された
広義での名将。張弘範もやけど○さんは人民をいたわる名将が好きなん
かなーと個人的に思ったりしますが、どーなんでしょか。

847 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 02:44:23 ID:h02UpDZjO
で、郭侃は確定でいいのかね?

848 ::2007/04/14(土) 03:22:05 ID:YWuWyns60
>>846
◆oOLAqFKRBさん レスdあんた領土切り取り杉やろ、なんて思っていますアリハイヤ。
>>845さんのご指摘通り凄いのがゴロゴロし杉なんですけどねw
自分の名将ベスト3は韓信、孫武、岳飛というところですかね。
韓信は頭の中が普通じゃないし、孫武はマルチ杉、岳飛は戦上手なだけでなく忠義の塊ってとこに魅力を感じます。
それに孟sルもかなりのやり手で狄青みたいに上司さえに恵まれていれば
良かったのにそこら辺が悔やまれてならないっていうのが自分の印象です。
>人民をいたわる名将が好きなんかなーと個人的に思ったり〜
はいそうです。
自分の場合は基本的に農民など下層出身で尚且つ義理人情に厚いか忠義の人で、
そのくせ戦争には滅法強い(奇策を得意としたり、読書家なら尚良い)という人物が好みのタイプですね。
岳飛、狄青、薛仁貴とか、あと楽毅、徐達なんかも好きです。

849 ::2007/04/14(土) 03:29:36 ID:YWuWyns60
>>847
諸兄が郭侃の西征での功績を含めるべきというなら確定でいいと思います。


850 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 07:12:11 ID:9iDv5RQB0
「誰某が名将としてどの程度か」と問うならば、
全ての手柄を斟酌してその手腕を量るべきだろう。
一部だけ切り抜いて量ることなど不可能だし意味がない。

そもそも漢人でも戦歴をぶつ切りにされるというのはおかしな話である。
蒙古帝国が中国ではない、というのは判る。
だが彼を選外とするのは「漢人が中国人ではない」と言ってることと同じだ。これはおかしい。
民族の一個人として見れば、その手柄の立てた場所とか相手を区別して云々する必要はない。

それに1127年の靖康の変で宋は南北支那の統一王朝としての面目を完全に失っている。
燕雲十六州を支配したのみの遼を北朝と呼ぶことは難しいかもしれないが、
中原を完全に支配した金はそう呼んで差し支えないだろう。
支那史のお約束通りに考えるならば、
その金は1234年に蒙古の攻撃で滅んでいるので、北朝としての天命は蒙古勢力に移行したのだ。
以後の西征は紛れもなく北半分の統一王朝の遠征であるので除外する必要はない。
その論理は無茶だと言うならば、五胡の蛮兵や、統一した隋以前の北朝の指揮官、唐の外国人の客将は全て除いて頂きたい。

501 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.02.02 2014/06/23 Mango Mangüé ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)