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◆◇◆秦◆◇◆

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 21:56:03 ID:TZhz0PIJ0
紀元前221年に中国を統一し紀元前206年に滅亡した
首都咸陽。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 13:15:45 ID:33ShAuPe0
統一してから滅亡までは短かったけど、
それまでの春秋戦国時代の期間が長いからね。

特に西方世界からは、中国への入口に当たる位置にあっただけに、
影響は大きく、秦=シーナが、Chinaの語源ともなっている。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 15:30:27 ID:ZDGrm4b1O
中華の歴史上、明確に儒教を否定した政治を行った人物って始皇帝だけかな?

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 15:34:47 ID:QIvK669hO


5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 15:28:10 ID:fQwQyriC0
秦って春秋戦国時代に簒奪なんかはなかったのかな。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:35:18 ID:bj6yZ9qX0
wikiから

秦(? - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在し、紀元前221年に中国
を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦代
と呼ぶ。国姓は嬴(えい)。統一時の首都は咸陽。

歴史
周代
秦は伝説によれば殷の紂王に仕えた奸臣悪来の末裔とされる。しかしこの始祖伝説はおそらくは秦が中国に入った
後に作られたものと思われる。秦の本当の出自は後に穆公が西戎の覇となることから考えて、西戎そのものではない
かと考えられる。

紀元前900年ごろに周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、
秦の地に領地を貰ったと言う。しかしこれも実際にあったことなのかは不明である。

秦が最初に興った所は現在の甘粛省礼県であったらしく、この地より秦の祖の陵墓と目されるものが見つかっている。
紀元前770年に周が犬戎に追われて東遷した際に、襄公は周の平王を護衛した功で周の旧地である岐に封じられ、
これ以降諸侯の列に加わる。

春秋戦国時代
春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、風俗的に中原諸国と大きく異なり、当初は野蛮であると蔑まれていた。
代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。紀元前677年
には首都を雍(現在の陝西省鳳翔県)に置いた。

九代穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎
の覇者と為り、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹敵する国力を付けた。晋が驪姫の乱で混乱する
と、恵公を擁立するが、恵公は背信を繰り返したので、これを韓の地で撃破した。更に恵公が死んだ後に恵公の兄重
耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君・文公となり、その治世時には晋にやや押されぎみになるが、文公
死後には再び晋を撃破して、領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は春秋五覇の一人に数えられる。

しかし、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。
それでもそれなりの力は保持していたものの春秋中期以降の主役は北の晋と南の楚であり、それに西の秦と東の斉
が脇を固める変則的な四強時代を作っていた。

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:35:50 ID:bj6yZ9qX0
戦国時代には七雄の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末に韓・魏・趙の三国に分裂した。この内
の魏が戦国初期には名君・文侯により強勢となり、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる。

この状況に憤慨した25代孝公は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。これに応じたのが商鞅で
ある。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制へと生まれ変わらせた。この商鞅
の変法運動により秦は徹底的な法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。紀元
前350年に咸陽へと遷都した。

その後、孝公の子の恵文王の紀元前324年に王を名乗る。紀元前316年に恵文王は蜀(四川省)を占領し、この地の
開発を行ったことでさらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃が行えるようになり、
圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し、楚の懐王を捕ら
えることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。

恵文王の子の昭襄王の時代に宰相・魏冄と白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。しかし魏冄の権力があ
まりにも大きくなったことを憂慮した昭襄王は魏冄を退けて、代わりに范雎を登用する。范雎が進言したのが有名な遠交
近攻策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られる
のは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば
近くの土地が手に入り、それはすぐに秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を
宰相とした。紀元前260年に白起を趙に進行させ、白起は長平の戦いで趙軍を撃破し、趙の捕虜40万を坑(穴埋にして
殺すこと)した。さらに紀元前255年に完全に周を滅ぼしてその領地を接収した。

この時期、東では斉が伸張しており、殷の末裔である宋を併合するなど周辺諸国を圧迫していた。紀元前288年には
斉を東帝、秦を西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかったが、こ
の時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。

しかしその斉は強勢を警戒され楽毅が指揮する五国連合軍により、首都臨淄が陥落。亡国寸前まで追い詰められた。
このことで秦の覇権は決定的なものとなり、統一へ向かっていく。


8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:36:30 ID:bj6yZ9qX0
統一王朝
紀元前247年に即位した政は、李斯を丞相として国力増強に努め、ついに紀元前221年に中国を統一し、自ら皇帝を
名乗った。この皇帝の称号は、中国の伝説上の聖王である三皇五帝からとったものである。


秦の地図始皇帝は度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行った。また、匈奴などの北方騎馬民族へ
の備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設した。万里の長城の建設は
主に農民を使役して行われたが、過酷な労働と極度の法治主義に国内は不満が高まり、反乱の芽を育てた。匈奴に
対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、
南方には、南海・象・桂林の3つの郡が置かれた。これは、中国王朝によるベトナム支配の始まりでもある。

始皇帝の死後、宦官趙高が太子扶蘇・丞相李斯や始皇帝の血族者ら権力者を次々に暗殺し、暗愚な二世皇帝を傀
儡として、権力をほしいままにして暴政を敷いた。始皇帝が死んだ事で一辺にたがが緩み、翌年には陳勝呉広の乱が
勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。

二世皇帝と趙高は章邯を将軍として討伐軍を送る。章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破し、さらにその後を受
けた項梁軍も撃破した。しかし項梁のおいの項羽との決戦に破れ、章邯たちは捕虜となる。項羽は咸陽に向かう途中
で造反の気配を見せた秦兵20万を穴埋めにして殺してしまった。

章邯が大敗したことを聞いた趙高は狼狽し、二世皇帝を暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を立てて民意の安定
を図ろうとするが、子嬰らによって誅殺された。

その後、劉邦が咸陽へ入ると、子嬰は降伏し、秦は滅亡した。劉邦は子嬰を殺さないことにしていたが、後から咸陽
にやってきた項羽は子嬰を殺し、咸陽の美女財宝を略奪して、火をかけ、咸陽は廃墟となった。

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:37:17 ID:bj6yZ9qX0
政治
秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。漢が前後400年の長きに渡った理由の一つは秦の
制度を人民の反発を受けることなく踏襲できたことがある。

秦の成立は単なる中国の統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点
で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。そのために秦以前のことを先秦時代と呼ぶこともある。


官制
秦の官制は前漢と同じく丞相(首相)・太尉(軍事)・御史大夫(監察・あるいは副首相)の三公を頂点とする三公
九卿制である。

地方制度では商鞅の改革時に全国を31(あるいは41)の県に細分し、それぞれに令(長官)と丞(副長官)を置いた。
統一後に李斯の権限により、この制度をさらに発展させたのが郡県制である。県の上に上級の行政単位である郡を置き、
太守(長官)・丞(副長官)・尉(軍事担当)・監(監察官)をそれぞれ置いた。県の長官・副長官は変わらず令と丞である
(区別して県令・県丞と呼ばれることもある)。統一すぐには旧制に倣った封建制の採用も考えられたことがあったが、
李斯の反対により郡県制が採用され、全国に36の郡が置かれたと言う。この郡県制も基本的には漢によって引き継がれ、
これ以降の中国の地方制度でも基本となっている。ちなみに、胡亥の代になると郡県制により各地の役人の数が減らされ
る結果となり、各地で相次いで起きた反乱を抑えられなくなってしまった。

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:38:07 ID:bj6yZ9qX0
法制
秦と言えば商鞅により作られた法家思想による厳しい法律と言うイメージだが、実際にどのように法律が運用されてい
たかは資料が乏しく分からないことも多い。

漢の蕭何は劉邦に伴って咸陽に入城した際に秦の書庫から法律の書物を獲得し、後にこれを元として「律九章」と呼
ばれる法律を作ったと言う。であるから漢初の法律は秦の法律を基本としてると考えて良いだろう。この「律九章」は
盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと『晋書』にはある。しかしこの記載が『漢書』にはないので、この記事
自体を疑う声もあるが、ともあれ秦の法律に関する資料の一つである。

そして秦の法律に関する一次資料として『睡虎地秦簡』と呼ばれるものがある。これは1975年に湖北省雲夢県で
発掘された秦の法官であったと思われる喜と言う人物の墓に入れてあった竹簡群で、秦の法律に関する事柄が記載
されている。

経済
始皇帝は統一後に度量衡の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた半両銭
への統一、車の幅の統一などを行った。

ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律に
ついては、再考の余地があるようである。殊に、始皇帝によって発行された統一通貨・半両銭は、秦が本来統治して
いた地域以外では、あまり出土しておらず、『史記』の記述によれば、始皇帝は通貨の鋳造・改鋳は行ってはおらず、
それが行われたのは、二世皇帝の即位直後である。これが真実とすれば、世間に伝えられる暴君としての始皇帝像
は、誤ったものであり、秦が滅亡した一因として、二世皇帝の経済政策の誤りが考えられる。

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 23:38:43 ID:bj6yZ9qX0
文化
統一前の秦に関する資料として石鼓文・詛楚文と呼ばれるものがある。

石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたものであり、現在は北京の故宮博物院に保存されている。発見された
のは陝西省鳳翔県と言われており、成立時期は穆公以前の時代と考えられている。その内容は宮中での生活や狩猟
の様子などを韻文にして書かれている。

詛楚文は秦の強敵であった楚を呪詛する内容であり、こちらは現在は失われているが、内容は写されて現在に伝わ
っている。

この2つに使われている書体は秦が独自に作ったものであり、この書体を石鼓文と呼んでいる。始皇帝は統一時に書
体も改めて新しい篆書と言う書体を流通させた。

思想的には法家が当然強いが、しかし道家も同じように強かったようである。この両者は思想的に繋がる部分がある
と指摘されており、『史記』で司馬遷が老子と韓非子を『老子韓非列伝』と一つにしてあることもこの考えからであろう。
後に法家と道家を混交したような黄老の道と呼ばれる思想が前漢初期の思想の主流となっている。

世界遺産に登録されている、始皇帝陵は始皇帝が13歳の時から建築が開始され発掘された始皇帝陵から、今まで
不明瞭だった秦の時代の文化が伺えるようになっている。

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 23:52:26 ID:VrroZAlQ0
滅ぼされた六国の支配階層は一般的にどうなっていたか。

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 23:48:57 ID:X6vs+Uuq0
始皇帝が死んで、秦が崩壊する時に、担ぎ出されている。
地方の豪族みたいになっていたんじゃないのか。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 22:18:25 ID:ytTibeqn0
春秋戦国時代、秦と西域の交流ってどんなものだったんだろうね。
商人の往来なんかがあったのかな。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 23:50:17 ID:162yLwmk0
東西交易路はかなり昔から確立されていたようだしね。
タクラマカン砂漠のどこかで発見された2000年以上前のミイラが、
人種的にはコーカソイドだったらしいし。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 23:53:21 ID:1aOMKual0
咸陽の都には西域からやって来た胡人もかなり往来していたんだろうか。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 23:52:04 ID:5a0Z0OfY0
>>16

>>2のようなChinaの語源になったぐらいだから、
相当交流があったんじゃないかな。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 21:11:03 ID:jneFhV8/0
秦の時代の関中はかなり肥沃な土地だったんだろうね。
古代の華北には大森林が広がっていたようだし。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 23:05:45 ID:P4E6hWHY0
秦は人気ないのか……

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 00:03:20 ID:I5CwO0RnO
戦国時代は斉が失墜してから秦のワンサイドゲームになるからつまらん

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 21:54:26 ID:3gWhZThV0
>>14>>15
咸陽には胡人もかなり居住していたのかな。

22 :燕人:2007/05/18(金) 23:06:40 ID:BRzWkHFp0
責任をとってケイカを送り込んで最末期を盛り上げたので許してください

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/05(火) 23:20:02 ID:8N+94JMl0
>>20
最後に楚も力をつけて、天下を二分する対決みたいな感じに持ち込んでくれると、
すごく盛り上がっただろうね。
どちらも広大な後背地があるんだし。

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/06(水) 01:29:36 ID:S06yA2Gt0
商鞅について調べたいのですが良い概説書とかはあるでしょうか?

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/06(水) 05:22:50 ID:SSxYIBy/O
商子

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/02(月) 22:13:18 ID:3EGqbRT20
始皇帝陵、地下に巨大建築物=30メートルの「高楼」−中国

7月2日22時0分配信 時事通信

【北京2日時事】中国陝西省西安市郊外にある秦の始皇帝(紀元前259年〜同210年)陵の地下に、土を打ち固めて
造った高さ30メートルの巨大な建築物が存在することが考古研究チームの調査で明らかになった。中国紙・北京日報
が2日報じた。
 同紙によると、この「高楼」は下へ行くほど広くなる形で、9層の階段式となった4面の壁を持つ。陝西省考古研究院
の段清波研究員は「常人には考えもつかない建造物で、中国古代の墳墓史上、前例がない」としている。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070702-00000165-jij-int

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/08(水) 21:55:29 ID:MCt9Trgb0
始皇帝陵って、後の唐朝とかの陵墓より大きいのかな。
国力だけなら後の時代の方が伸びているだろうし。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/09(木) 16:11:37 ID:DEVPzjL1O
国力は前漢や唐のほうが文化の進行度もあって強いかもしれないけれど、
強制的な動員力は秦の時代のほうがありそう

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/02(日) 16:10:59 ID:ToOeICBS0
 2007年8月31日、陝西省西安市の始皇帝陵について、兵馬俑博物館の
曹ウェイ(ザオ・ウェイ)副館長は「遺跡の現状を長期的に維持するため、
当面いかなる発掘計画もない」と言明した。皇帝陵の地下には巨大地下
宮殿などの存在がすでに確認されているが、発掘による全容解明は
持ち越しとなりそうだ。

 2002年、中国政府はまだ謎の多い始皇帝陵について、遠隔探査技術
などを利用した調査を実施。その結果、巨大な地下宮殿と墓室の存在が
確認された。しかし、本格的な発掘を始めれば遺跡の現状維持は難しく、
ダメージを与えることにもなりかねない。そこで将来、技術的な条件が
整うのを待って発掘するとの方針が固まった。

 その時期について曹副館長は「少なくとも私が生きている間には
(発掘は)ないだろう」と、かなり先になるとの見通しを示した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070901-00000017-rcdc-cn

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 22:24:09 ID:mIsQUBVR0
そんなに発掘が難しい構造になっているのかね始皇帝陵。

図面で見てみたいけど、発掘しないことには分からないだろうしなあw

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 23:10:36 ID:YzA8zbmX0
>>30
構造の問題より、急に外気にさらして、内部が劣化するのを恐れているのでは?

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 23:12:33 ID:YzA8zbmX0
しかし・・・始皇帝の墓には水銀で海を作ったんだろ?
もしも・・・死蝋かなんかになって、始皇帝の遺体が残っていたら
すごいだろうな

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 23:55:16 ID:aZ7XrAbSO
ただの伝説かもしれないけど英布が暴いた墓ってのはなんだったんだろ?

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 10:28:24 ID:882jIp7C0
歴代秦王家の墓……とか?

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 22:06:58 ID:bGtK0nqO0
そういえば、長沙市で1971年に発見された馬王堆漢墓
[前漢初期の丞相、軟侯利蒼(だいこう・りそう)の妻の墓]から出てきた
女性の遺体は、少しも腐敗せず、外見をほとんど残しており、
身体には弾力が残っており、死後まもない遺体のようで、
解剖したら、胃から瓜の種まで出てきた。

遺体が何故残っていたかは不明だが、遺体からはかなり水銀と鉛が検出された、
という話があったね。

もし、始皇帝の遺体が出土いたら、世紀の発見なんてもんじゃあるめ。


36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 22:41:46 ID:Z7aHZe/i0
>>35
新末後漢初の動乱で暴かれた呂后の墓からも、呂后の死体が死後まもないような状態で発見され、暴徒が屍姦にまで及んだそうで

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 10:21:53 ID:h0siFerx0
>>36
それは、「古事談」だったか、あまり信頼性のない本に載っていた話で、
あくまで伝説に過ぎないのでは?

もっとも、馬王堆漢墓の話を聞くと本当かもしれないとは思うけど。

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 14:24:50 ID:LNVWJkdf0
あの時代の貴人の埋葬法は、偶然にも遺体の保存に適していたんだろうね。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 23:20:30 ID:q9Sdwdtw0
遺体に宝玉をいっぱい貼ったような埋葬法だね。

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 09:24:10 ID:4M1xWBs80
始皇帝は、全国行脚の途中で死んで、
その死を隠すため、魚の干物を積んだ車をそばに置いた、
というから、埋葬されたとき、遺体は、もうかなり痛んでいたと思うから、
駄目かもしれない


41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 22:52:25 ID:o6L4OBiZ0
遺体が出てきたら、そこら辺の話がどこまで本当なのかも分かるかもな

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 10:50:49 ID:0vl8OG/50
司馬遷からしたら、たかだか100年前の話だからそう無茶な伝説化はないと
思うけどね


43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 12:43:20 ID:xl+VC9hB0
大英博物館で兵馬俑展が始まる!約120点を展示―ロンドン

  2007年9月13日、イギリス・ロンドンの大英博物館で中国秦代兵馬俑展が開催された。

 今月11日、大英博物館で中国秦代兵馬俑展の開幕式が行われ、13日から一般に向け正式公開された。秦の
始皇帝の兵馬俑や楽俑のほか、秦代の青レンガや瓦当など、陝西省西安市の「秦始皇兵馬俑博物館」から2000
年以上前の中国文物が約120点展示される。

 同展は中英の文化交流の一つとして、来年の4月6日まで開催される。兵馬俑展は1967年3月から海外出展を
始めて30年間、世界30か国以上で開催されてきた。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g11299.html

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 15:18:30 ID:4l3LBCEe0
>>42
百年でも、今の日本で言えば日露戦争の頃の話だし、
昔は寿命も短くて時間間隔が違っただろうし……

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 13:16:40 ID:zKoQ5ZnJ0
>>32
水銀ってどういうふうに採掘していたんだろう。

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 09:22:36 ID:vkaR7JB50
 中国陝西省西安市郊外にある秦の始皇帝陵近くで古代の大型の墓が
見つかり、考古学者らは秦朝(紀元前221−同206年)最後の王、子嬰
の墓ではないかとみて調査している。新華社などが29日までに伝えた。

 墓は始皇帝陵を取り囲む外城の北西約500メートル付近で2003年に
見つかり、南北109メートル、東西26メートル、深さ15メートル余り。
規模や造り方、陪葬坑などの状況から、子嬰が埋葬された可能性がある
という。

 中国紙、北京日報によると、歴史書などでは子嬰は第2代皇帝、胡亥の
兄の子とされる。秦王に即位して間もなく、漢朝を打ち立てた劉邦に投降
したが、その後殺害され、どこに埋葬されたか不明だったという。

ソース(イザ!・共同通信) http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/87448

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 17:11:38 ID:AGdeLPqDO
こりぁ大発見ですな
子嬰は項羽に処刑されたけどちゃんと墓はあったのね

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 22:12:51 ID:JG3fIDTo0
劉邦が項羽を悪役にするために、
手厚く葬ったんじゃなかったかな。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 06:02:21 ID:hToQX1tX0
劉邦は秦の遺産を上手く取り込んで漢を建国しているからね。
長期政権となった漢は、半ば始皇帝が創業したとも思えるほど。

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